細川政元のクーデター明応の政変
<画像wikipediaより引用>
応仁の乱の混乱の中、近江を支配していた六角氏の荘園略奪が目に余ったので、9代将軍・義尚は六角征伐を行いますが志半ばで死去します。
将軍死去に伴い、将軍家では後継者問題が起こります。
細川政元は足利義政の弟の子義澄を推していたのですが、日野富子は義視の子・足利義稙を推します。前8代将軍・義政も義稙擁立に賛成していたので、10代将軍は義稙に就くことが決定しました。
当然、義澄を推していた細川政元は、この決定に不満を持ち義視と日野富子らに不信感を抱くようになります。
10代将軍に就任した義稙は先代の方針を受け継ぎ、再び六角氏征伐に向かいます。しかし、戦果は六角高頼を甲賀へ追放しましたが、身柄の確保までには至らないまま1年程で京都へ復帰する事になります、
明応の政変前の将軍後継者騒動
1490年に、隠居生活を送っていた8代将軍・義政が死去すると、義視・義稙親子の専横的な政治が目立つようになります。自身を推していた日野富子でさえ、義稙親子と距離を置くようになりました。
一方で、細川政元は、同じく義視と日野富子に不満を抱いていた、伊勢貞宗を懐柔するとクーデターを計画します。
ここで、管領家の畠山氏の家督争いが絡んできます。
細川政元の父・勝元の管領職の後釜に畠山政長が就任していました。政長は自分自身を中心に畠山家を統一しようとライバル畠山基家を討伐するため、将軍・義稙にお願いします。
細川政元への依存を減らし、畠山政長を味方に引き入れようと考えた将軍は、願いを聞き入れる形で畠山基家を討つために河内国へ出陣します。これには、多くの大名家が参加しましたが、細川政元は反対し出陣を拒否しました。
せっかく同じ管領家の畠山氏が自爆しくれるのに、将軍が介入し沈静化したら細川の天下は拝めないと思っての事でした。将軍直々の出陣で戦果は上々でしたが、細川政元は敵側の畠山基家と内通して密かに支援をしました。
この頃には、伊勢氏・赤松氏や日野富子までも味方にしており、あとはクーデターを決行するだけでした。
明応の政変
今回のクーデターは嘉吉の乱の時のように将軍を暗殺したと言うものではありませんでした。そのかわりに、担ぎ上げる将軍候補・義澄を保護して、義稙の後ろ盾や後継者たを片っ端に皆殺しにしました。
記録では、この政変は日野富子による主導と書かれていたようですが、本当のところは定かではありません。細川政元は、その日のうちに10代将軍・義稙を廃し、11代将軍・義澄を擁立させました。
現職が出陣中の出来事に、遠征中の大名たちは混乱をしましたが、六角征伐が終わってすぐの河内征伐のため、戦費が膨らんでおり大名たちはやる気がゼロ状態でした。
そんな中での【クーデターしたんで今日から、義稙は将軍でないよ~】の通知なので、渡り船と言うわけでほとんどの大名は国へ帰り、11代将軍・義澄側へ就くことになりました。
元将軍・義稙に残ったのは、なかよしこよしの畠山政長くらいでした。
この明応の政変により将軍の権威は落ちるところまで落ち、応仁の乱で勢力が削がれた斯波氏に次ぎ、畠山氏も没落したため、管領は細川氏が独占し、三好氏が台頭するまで幕府の実権を握ることになります。
明応の政変により戦国時代の始まる
応仁の乱で、幕府の権力が虫の息になり、それに止めを刺したのが明応の政変と考えます。一般的には応仁の乱を持って全国が群雄割拠する戦国時代が始まったとされていますが、最近では明応の政変を持って始まったと言う見方がされています。
この事件で細川政元は、幕府の実権を握ることに成功しましたが、政元もまた細川家内部の家督争いで暗殺されることになり、幕府の実権をめぐる権力闘争は混迷の度合いを増していきました。
その後は、以前の記事で書いた通りに、三好氏が実権を握り、その後松永久秀らに実験が移って行きます。この政変以降に全国で、下の者が上の者を政治的、軍事的に倒して上下関係をひっくり返す【下剋上】の風潮が広まっていきます。
10代将軍・足利義稙
明応の政変で失脚した義稙ですが、義澄が将軍就任後に幽閉されます。
しかし、畠山政長らの手引きにより逃げ落ちることに成功し、越中国に下向した事で『越前公方』と呼ばれました。そこで、越前朝倉氏を頼りながら朝倉貞景や畠山氏と共に上洛を目指しますが敗戦が続きます。
最終的には、周防の大内氏を頼り将軍に返り咲く事になりますが、それは別の機会に書く事にしましょう。