戦国史

西国最大勢力を誇った大内氏と大内義隆

歴ブロ

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大内氏は日本の大名では珍しく、百済の王族の末裔と自称していました。

先祖代々、周防国府を世襲した官人から守護大名になり、戦国大名に成長し、周防・長門・石見・豊前・筑前守護職を歴任し、大内義隆の時代には最盛期をむかえ独自の文化も形成しました。

 

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大内氏の台頭

 

大内氏が力をつけ始めたのは大内政弘の頃で、応仁の乱山名宗全率いる西軍で武功を挙げ、宗全没後は西軍の事実上の総大将となりました。乱の終結後は、九州での権力回復をめざし、大友氏らを臣従させ、室町幕府内で守護大名としての地位を確立していきました。

 

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また、分国法である【大内家壁書】を制定した事でも有名で、この法により守護代や家臣の台頭を押さえました。

政弘の跡を継いだ大内義興の時代になると、九州の少弐氏と大友氏を度々攻めその勢力を広げていきました。その中で、将軍職を追われ京を追放されていた足利義稙を保護し、1508年には、細川高国と協力し義稙を再び将軍職につけさせました。

 

上洛を果たした大内義興は、管領代として室町幕政を執行し、10年間京都にとどまりました。しかしその留守中に、安芸国で出雲の尼子経久が侵攻し、義興は急ぎ京を引き払い、自ら陣頭指揮を取り、安芸・備後各地に出兵し尼子氏と戦いました。

1528年に義興が死去すると、子・義隆が家督を継ぎ、宿敵・尼子氏との戦いに明け暮れました。義隆が家督を継ぐ頃の領地は、周防・長門・石見・豊前・筑前・備後・安芸の守護をかねる中国・九州地方の最大勢力となり最盛期を迎えます。

 

大内義隆の九州攻略戦

 

北九州攻略戦では、藤原北家の血を引く少弐氏を滅ぼす大義名分を得るために、太宰大弐という官職を貰うために朝廷に工作を行いますが、中々官職をもらうことができませんでした。

 

1536年後奈良天皇即位時の献金とを長年の努力の甲斐があってか、天皇自身は嫌がっていたようですが、朝臣たちの根回しもあり念願の太宰大弐の官職につくことが出来ました。

これにより、大義名分ができたので少弐氏を攻め滅ぼすことに成功します。

1537年12代将軍・足利義晴より幕閣の誘いを受けますが、山陰を統一し南下を狙っていた尼子氏を警戒し、領国経営に力を注ぐことにしました。

 

毛利氏を傘下にし公卿の仲間入りへ…

 

1540年、尼子晴久が安芸国の毛利氏の吉田郡山城へ侵攻しましたが、重臣・陶晴賢を総大将にして援軍を送り尼子軍を撃退に成功します。これにより、尼子氏と再び交戦状態になり、尼子派の安芸武田氏、友田氏を滅ぼし、安芸国を完全に勢力化に置くことができました。

この吉田郡山城の戦いの活躍により、朝廷から従三位に昇格し公卿の仲間入りを果たしました。この時代は自称で官位を名乗る者も多かった中で、大内義隆は戦国大名では数少ない朝廷からの正式に任命された位でした。

 

財力・地位・名誉を手に入れた義隆は、これを機に尼子討伐を本格化します。

1542年1月に尼子氏の居城・月山富田城へ攻めます。

この戦いは、備後や石見の豪族たちも従軍し、安芸ルートで出陣しました。これにより、大所帯の軍勢となり、かつ厳島神社に必勝祈願をする寄り道をしてから、出雲の尼子氏攻めに出陣したため、出雲に着いたのは4月になっていました。

しかも、月山富田城までの支城の攻略にも1ヶ月以上の時間がかかり、居城につくころには10月になっていました。月山富田城に着いても、この城は天然の要塞で中々落城しませんでした。また、尼子軍によるゲリラ作戦に大内軍は苦戦を強いられることになります。

大内軍の苦戦を知った豪族たちの中に、尼子軍に寝返る者も出始め、1543年5月に義隆は退却をします。尼子軍の追撃を受けた大内軍は総崩れのところまで追い詰められ、激戦の中、義隆の跡継ぎである大内晴持が船の転覆事故で亡くなってしまいます。

こうして意気揚々と向かった尼子討伐は大失敗に終わり、跡継ぎを失った大内義隆はひどく落胆しました。

 

陶晴賢と相良武任の対立

 

大内軍を追い返し士気の上がった尼子氏は、勢力の回復のために大内氏に度々ちょっかいをかけてきますが、安芸・石見・備後大内諸侯毛利元就が奮起していました。

一方で、嫡子をなくした義隆は、尼子攻めの推進者であった武断派の陶晴賢を遠ざけ、領国経営を文治派の相良武任にまかせ、自身は公家のような生活を送るようになりました。

さらには、自堕落な生活の多額な出費を捻出するために、増税を行い領民や土豪が苦しむ結果となります。そのため、大内家の主導権争いが勃発し、武断派の陶晴賢と文治派の相良武任が対立するようになりました。

 

陶晴賢は、若いころ大内義隆衆道の仲でした。

衆道とは、男性の男色の事を言い、古来より女性は生理で血を流すため、戦場で血が流れるのは不浄と考えられていたので、戦には連れて行けませんでした。そのため、武将の身の回りの世話を小姓に任せていました。小姓に身の回りを世話をしてもらう内に…というのが衆道の始まりと言われています。

このころは陶晴賢もよい大人になっていたので、そういう関係は終わっていたようですが、義隆に気持ちが残ってたと思われます。恋仲だったころは、大内義隆が馬で5時間かけて会いに行き、寝ていると和歌を残して帰ったと言うラブラブぶりでした。

そんな仲だったにもかかわらず、領国経営を相良武任に任せたものですから、陶晴賢も面白いはずがありません。この対立は、武任の暗殺騒動まで発展し、武任は娘を晴賢に娶らせる策を講じますが完全拒否されます。

この時点では、対立は決定的ではなく東側は毛利氏が固め、九州では龍造寺氏が臣従し領土的には広がっていました。

 

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大内文化

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大内氏は広大な領地の割には石高自体は高くありませんでした。しかし、博多などの港町を有する領地での貿易や鉱山での富がほかの大名より突出していました。

また、学問と芸術を義隆が好んだため、山口を中心に京風の文化が取り入れられていました。義隆に限らず大内氏は代々商人的な感覚が優れている人物が多く、博多織職人を明に派遣して絹織物の質を上げて西陣織や博多織に大きな影響を与えました。

仏教についても、武士が好んだ禅宗だけではなく、歴史の長い天台宗や真言宗の僧侶も領国に招いています。自身も、儒学や神道、雅楽などを学んでおり、それらを教える者たちも招き入れ、領地を与える高待遇でした。

 

貿易大国であったことから、異国の文化にも慣用で信仰はしなかったものの、フランシスコ=ザビエルにキリスト教の布教を領内で許可しています。また、一説によると、古くから貿易が盛んだった事により、種子島銃が伝来する前に火縄銃が伝来していたようですが、大内氏は鉄砲よりも輸出品増産に力を入れていたため、普及しなかったといわれています。

貿易で得た富を、朝廷の献金にもセッセと送り、1548年には、従二位まで位が上がっていました。当時の将軍でさえ従三位ということを考えると義隆は、戦国大名でありながら、天皇の子女と同格になっていました。

大寧寺の変と大内氏の滅亡

 

1545年相良武任は、身の危険を察知し肥後国へ逃亡し大内家を出奔します。しかし、義隆は武任を大内家に復帰させたことにより、陶晴賢の不満は爆発し謀反を決意させる事になります。

 

そして、ついに愛し合った二人の争いが切って落とされます。

1551年8月27日大内義隆の下に陶晴賢謀反の知らせが届きます。これに呼応するかのように、内通していた毛利氏も挙兵し厳島と山陽道の要所を押さえました。また、杉氏も加わり総勢1万人の兵となりました。

一方で大内義隆は、大友氏の使者と飲み会をしており、油断をしていたようです。

事の重大さに気づいたときには遅く、冷泉隆豊含む兵力が2000~3000ほどしかいなかったそうです。

大内の館は放火され、宝物等が略奪される事態となり、兵も逃亡するなどの劣勢の義隆は、陶晴賢に対し【自身の隠居と嫡子の義尊を当主にする】旨の和睦案を出しますが拒否され、義隆は山口を捨てて長門へ逃げ落ちます。

さらに、石見へと逃亡を図ろうとしますが、暴風にあい長門深川にある大寧寺にこもりますが、9月1日に冷泉隆豊の介錯により大内義隆は自刃します。その後、隆豊も陶軍に突撃をし見事な最後を遂げます。

義隆の嫡男・義尊は、陶軍に捕らえられて斬首。また、三男も捕らえられて殺害されます。さらには、義隆と共に生活をしていた多くの公家衆も殺害されており、陶晴賢の義隆に対する恨みを伺うことができます。嫉妬は怖いですね~

恋敵の相良武任も花尾城に篭城して陶軍と戦いますが敗戦。その後も陶晴賢は、義隆派を次々と攻めていきました。しかし、陶派の杉重矩は、かつて大内義隆に告げ口していたことが露見して逆に晴賢に追い込まれることになるなどの混乱が続きました。

 

大寧寺の乱以降大内家は、豊後の大友氏より大友晴英を向かえ大内家の新当主に据え、大内義長と改名しました。この時、陶は忠誠を誓いましたが、実質は陶晴賢による傀儡政権であったことは言うまでもありません。

しかし、陶晴賢と大内義長はこの後、軍事強化に力を入れますが、国人衆の労働を増やしたため反発を買い国力低下を招きます。その隙を突いて、毛利元就が宿敵・尼子氏を滅ぼし力をつけ、陶晴賢と毛利元就厳島の合戦へと向かっていくのですが、それはまた別のお話です。

 

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歴史好きが高じて日本史・世界史を社会人になってから勉強し始めました。基本的には、自分たちが理解しやすいようにまとめてあります。 日本史を主に歴ぴよが、世界史は歴ぶろが担当し2人体制で運営しています。史実を調べるだけじゃなく、漫画・ゲーム・小説も楽しんでます。 いつか歴史能力検定を受けたいな。 どうぞよろしくお願いします。
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