日本初の戦国大名北条早雲(伊勢盛時)が小田原後北条氏100年の基礎を築いた過程とは?
下剋上のパイオニアとして良く取り上げられる北条早雲は戦国時代初期に活躍した武将です。一介の浪人から大名にまで成り上がったその野心的な生き様は、後の戦国武将達に大きな影響力を与えました。
斎藤道三・松永久秀と並び「残忍で荒々しく悪者のボス」の意味合いを持つ梟雄と呼ばれています。が、この時代は人に避難されるような悪行もしなければ生き残れないのも事実で、彼ら以外でもえぐい事をしている人はたくさんいます。
梟雄と言われた早雲含む三人は非常に有能な人物でした。自分たちで治めた領地では善政を敷いていたとも史料に残っています。
ここでは早雲が小田原後北条の基礎を築いた過程についてまとめていきます。
鎌倉幕府執権北条氏との関係とは?
北条と言えば鎌倉時代の執権として権力を思うがままにした北条氏がいますが、早雲の北条氏とは血のつながりはありません。そのため、鎌倉時代の北条氏は「北条」と北条早雲から始まる北条氏は「後北条」と呼んで区別しています。
室町時代に北条時行が伊勢に逃げ延び、その子孫の一人が早雲だったとされる信憑性の薄い伝説は残っています。
ちなみに、家紋は一見同じよう見えますが、微妙に違い上の家紋が後北条氏のもので下の家紋が執権北条氏のものです。後北条氏の方が少し平べったくなっているのがお分かりでしょうか?
後北条氏の家紋
執権北条氏の家紋
そもそも北条早雲が生きている間は北条姓を名乗っていません。実際に北条の名を使用したのは2代目の氏綱から。鎌倉時代の執権北条氏の権威を受け継ごうと2代目から北条と名乗るようになったそうです。経緯を知ると全く執権北条氏に関係ないとは言えないようですね。
早雲が存命の間は伊勢の姓を名乗っていました。また、早雲と言う名も北条氏の菩提寺が箱根湯本の早雲寺であった事から後世につけられた名だと考えられています。この記事では便宜上【早雲】で統一していきます。伊勢盛時=北条早雲だと思ってください。
北条早雲の家系
北条早雲は、室町幕府の政所執事を務めた備中荏原郷300貫を領した高越山城主の伊勢盛定が父と言われています。
政所執事とは幕府の金銭出納の責任者。お金の出し入れだけではなく、お金の貸し借り民事的な訴訟の仲裁や判決を行ったということなので、その権力は大きかったようです。
「素浪人から相模・小田原を治めるまでになった」なんて話もありますが、素浪人の方がお話し的に面白いので脚色された逸話だとか。
伊勢盛定の子として備中荏原郷(現・岡山県井原市)で1456年に誕生した伊勢盛時こそが後の北条早雲とされています。記録では伊勢貞興と言う兄がおりましたが、ある時期からの記録がないので早世した可能性があり、早雲は早くから嫡男の扱いを受けていた考えられています。
今川氏と伊勢氏の関係
1467年に応仁の乱が起こると、将軍警護のために駿河守護の今川義忠が上洛して花の御所に入り東軍に属しました。この時に今川義忠は伊勢貞親の屋敷にまめに通っていたそうです。貞親は早雲の父・伊勢盛定の妻の兄弟で、盛定と今川義忠も親しくしていたと言われています。
その縁で早雲の姉・北川殿が今川義忠に嫁いで1471年に今川氏親(今川義元の父)を生んでいました。ということで、今川義元と北条早雲は親戚関係にあるというわけです。
<北条早雲と今川家の関係>
備中荏原郷(現・岡山県井原市)で出された文章に伊勢盛時(早雲)の署名があり、京で活動する父に代わって所領の管理を行ったと考えられています。
今川家の遠江進出の一貫で行われた戦いです。今川義忠は命に背いた横地四郎兵衛と勝間田修理亮を討ち取りますが、残党に襲われて戦死。当主不在の今川氏では家督争いとなり北川殿は、幼い氏親を連れて逃れます。
- 今川家の家督争いが早雲躍進のキッカケに…
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今川家の家督争いでは小鹿範満に当時の堀越公方・足利政知や関東管領・上杉政憲が味方したため、氏親と北川殿は9代将軍・足利義尚の申次衆※であった伊勢盛定を頼ることに。
※申次衆とは、室町幕府の役職の一つで、将軍御所に参上した者の名や要件を取り次ぎ役の事。
室町幕府の意向を受け、伊勢盛定の代理として早雲が駿河へ向かい、両者の間に立ち和議を結ばせます。和議の内容は今川氏親が成人するまでは小鹿範満に駿府の地で家督を代行するというもの。 この出来事がきっかけで北条早雲と今川家との絆が深まり、関東進出の足掛かりとなりました。
将軍・足利義政が氏親の今川家継承を認めて本領を安堵する内書を発給しますが、氏親が15歳を過ぎても家督代行の小鹿範満はその座を譲ろうとしませんでした。
早雲はこの頃から【伊勢新九郎盛時】の名がたびたび記録されるようになります。
扇谷上杉家・上杉定正により小鹿範満を支えていた太田道灌が暗殺され、小鹿派の権力基盤が弱体化。それ好機と北川殿は、小鹿範満を討つため早雲に助けを求めます。
子の北条氏綱が生まれ、早雲自身も30歳とまさに脂の乗った時期の奉公衆就任でした。
奉公衆とは将軍の親衛隊のようなもの。各国の支配を守護に任せていた室町幕府でしたが、各国が国内の武士を家臣に加えて勢力拡大するのを防止するため、親衛隊が必要となりした。
早雲も含み、奉公衆になった武士というのは守護と同じく【将軍の家臣である】プライドと独立心を持っていたそうです。戦に出陣するときは、将軍から直接命令を受けたうえで、守護の指揮下に入って先頭に加わっています。
駿河襲撃により小鹿範満を自害させます。これにより今川氏親は駿河に入ることができ、2年後に今川家当主として家督を継ぐことが出来ました。
この時、早雲は今川氏親を支援するために京へは戻らず、今川家の家臣として仕えることに。今川家から興国寺城が与えられ、北条早雲(伊勢盛時)は興国寺城主となりました。
北条早雲の伊豆侵攻
興国寺城主となっていた北条早雲(伊勢盛時)は、次男・北条氏時が生まれて順風満帆な人生を送っていました。
そんな時に、伊豆では堀越公方の家督争いがおこります。
<早雲の伊豆侵攻と小田原城奪還>
堀越公方の足利政知が亡くなると、長男・茶々丸が異腹弟の潤童子と彼の母・円満院を殺害。強引に家督を継いで事実上の堀越公方になりました。さらに茶々丸は1491~1501年間にかけて家老の外山氏や秋山氏も殺害しています。
新将軍となった足利義澄にとって茶々丸は実の母親と弟を殺害した仇になりました。北条早雲の伊豆討ち入り命令は、堀越公方の家督争いと新将軍の誕生が直接的に影響していたようです。
11代将軍・足利義澄による茶々丸討伐命令が出て早雲は伊豆へ侵攻します。この伊豆入りをきっかけに戦国時代が幕開けとされています。
- 北条早雲の伊豆討ち入りの背景
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この伊豆討ち入りに関しては、京都や関東の争いの影響が大きくとされています。
この時、早雲は国を支配する野心のために伊豆に侵攻したのではなく、争いに巻き込まれる形で出陣をしています。京都の争乱は細川政元による1493年の明応の政変により、幕府と堀越公方の対立色が強くなっていました。
この時の堀越公方は茶々丸で、彼は関東管領である山内上杉氏や甲斐国守護の武田信縄の支持を獲得していたといいます。
山内上杉氏は長享の乱と呼ばれる関東の争乱で相模国守護の扇谷上杉氏と争っていましたし、武田信縄も国内で隠居した父親の武田信昌や弟の武田信恵と争っていたことから
「堀越公方、山内上杉氏、武田信縄」
vs
「幕府、扇谷上杉氏、武田信昌」という対立の構図が出来上がっていました。
北条早雲はどちらに所属していたのか?今川氏と細川氏は親密な関係にあり、この時は幕府側として堀越公方を攻めています。
駿河国の東に位置する富士郡を拠点に持つ早雲は、今川軍の先鋒を担ったわけです。
後の相模国での支配権を巡り争う扇谷上杉氏とは、この時点では友好関係で早雲の伊豆討ち入りに協力しています。
通説では、堀越御所の混乱を狙って伊豆討ち入りしたとされていますが、当時の早雲には単独で【堀越公方・関東管領・甲斐国守護】の連合に立ち向かえるほどの力はありませんでした。
つまり、早雲は政元の京都でのクーデターに連動し、今川氏の総大将として伊豆国の対抗勢力を攻撃したのです。
今川氏と細川氏は親密な関係にあり、この時は幕府側として堀越公方を攻めています。駿河国の東に位置する富士郡を拠点に持つ早雲は、今川軍の先鋒を担ったわけです。
後の相模国での支配権を巡り争う扇谷上杉氏とは、この時点では友好関係で早雲の伊豆討ち入りに協力をしています。
通説では、堀越御所の混乱を狙って伊豆討ち入りしたとされていますが、当時の早雲には単独で【堀越公方・関東管領・甲斐国守護】の連合に立ち向かえるほどの力はありませんでした。
つまり、早雲は政元の京都でのクーデターに連動し、今川氏の総大将として伊豆国の対抗勢力を攻撃したのです。
内山上杉家の上杉顕定(関東管領)と扇谷上杉家の上杉定正が争い、扇谷上杉家が北条早雲に接近してきました。
早雲により伊豆の平定が達成されて、居城を韮山城(現伊豆の国市)に移すと、伊豆の統治を開始します。
- 北条早雲による伊豆の統治
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伊豆に入った早雲は、領内にお触れを立てて【味方に参じれば領土安堵】と約束しますが、【参じなければ作物を荒らして住居を破壊する】と布告するものの、兵への乱暴狼藉を厳重に禁止をして病人の看護をするなどの善政を施します。
当時は、どこの国も重税を行っており、五公五民なら仁政と言われて、ひどい国では七公三民を取っている所も珍しくなかった言います。伊豆国も重税に苦しめられており、早雲は重税を廃止して【四公六民】に税を改めると領民は歓喜に沸いたとされています。
この善政により伊豆の武士や領民たちは早雲に従い、高橋将監や村田市之助、山本太郎左衛門などが早雲の家臣に加わりました。
こうして、伊豆国に善政を敷きながら、5年の歳月をかけて伊豆地方の平定を行いました。伊豆の平定事業と並行して相模国への進出を図っており小田原城の奪取へと勧めていきます。
伊豆一国を手中に収めたなら暫くは国の復興に専念したいところですが、早雲はすぐに相模への進出を進めます。これも野心からではなく、しなければならない理由があったためです。
戦国大名の宿命ともいえる理由で、領土拡張戦に勝ち抜き家臣に増えた領土を恩賞として与え領国を維持する必要性があったためです。そんな中で西相模の要衝だった小田原城主・大森氏頼が死去するというチャンスが巡ってきたのです。
早雲は、昔から大森氏頼の子・藤頼に物を贈ったりと下手に出てご機嫌を取っていました。この作戦が功を奏し藤頼は早雲に気を許すまでになっていました。父・氏頼の死去がチャンスと見た早雲は「伊豆で鹿狩りをしていたら、獲物が小田原城の裏山に逃げ込んだので獲物を追い込む勢子を入れさせてほしい」と手紙を届けさせました。
早雲の謀略と気づかない藤頼は、二つ返事でこの申し入れを許可しました。
そして、1495年9月、勢子に扮した早雲の一隊が、裏山から一気に小田原城を攻め、藤頼は城を守り切ることができす落城しました。
山内上杉家の上杉顕定は、扇谷上杉家の上杉朝良の拠点である河越城へ攻撃します。朝良は、早雲と今川家に援軍を求め、河越城で籠城をします。そこで、顕定は江戸城を攻撃するために兵を進めていきます。
北条早雲の相模統一編
小田原城を落とし、相模国への足掛かりを経た北条早雲は扇谷上杉家・上杉朝良から軍事協力を大義名分として相模国の統一を目指します。
<北条早雲の相模平定>
今川家が正式に遠江守護に任命されます。この頃までは、一国の主でありながら今川家の武将として出陣することが多々あったのですが1509年以降は、今川家の武将として出陣することが無くなっています。
以降今川家から正式に独立をして本格的に相模国への進出を図ったのでしょう。
上杉顕定が長尾為影討伐のために越後に出陣したのを受けて、早雲は隙をついて扇谷・上杉朝良をけん制するために出陣します。
越後に出陣していた上杉顕定は返り討ちにあい、長尾為影に討たれてしまいます。北条早雲と同じように下剋上して山内上杉家筆頭家老だった長尾家は、上杉憲房を破り白井城を奪い、北条早雲と同盟を結びました。
上杉家との戦いに乗じて攻めてきた三浦義同は、早雲の住吉要害を攻略して、小田原まで迫り早雲を追い詰めました。しかし、素早く和睦した早雲を見て早々に引き上げました。
手痛い敗北を喫した早雲は、上杉攻略よりもまずは相模平定と考えて三浦家討伐の決意をします。1512年8月、早雲は古賀公方の内紛に乗じて、三浦義同の本拠地の岡崎城を落城させます。続いて、大庭城も攻略して三浦義同は、弟・道香が守る逗子小坪の住吉城に逃れて徹底抗戦しました。
この住吉城は、天然の要塞ですぐには落ちずに、牽制のため扇谷上杉と三浦家を絶つために、大船に玉縄城の普請を開始して、そこに次男の氏時を置きました。
この争いで、三浦道香が討死して住吉城も落城すると、三浦義同は逃れて、三崎城に立てこもり上杉朝良の援軍を要請します。上杉軍が援軍を率いて三浦義同の下へ駆けつけますが、早雲により撃退されます。さらに三浦義同は、新井城に籠城することになります。
同時に、早雲は鎌倉入りして相模国において籠城している三浦家を除いた御家人・豪族たちを支配下に置くことに成功します。その後も籠城した三浦義同を攻め立てるも、海に突き出た自然の要塞を力攻めすることもできず、包囲する作戦に出るも約3年の月日を費やすことになります。
再三の援軍要請に上杉朝良が江戸城から三浦半島へ援軍を送った事で動き出します。この援軍で早雲は、新井城の三浦家の囲みに2000人を残して、残りの5000人を上杉の援軍に備え、撃破します。
- 三浦氏との最終決戦前夜
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上杉の援軍が敗れた事を知り三浦義同は、最後に討って出る決断をします。
城から討って出る前夜に、
【落ちんと思うものは落ちよ!死せんと思うものは討死して後世に名を留めよ!】
言って、宴を行いました。
この危機的状況にもかかわらず、城から逃げる者が一人もおらず、翌朝に城門を開いて敵陣に突入します。死を覚悟した三浦軍の兵はすさまじく、早雲軍は有力家臣が討死するなど一時は劣勢になりましたが、三浦軍は疲れ果て城に戻ると思い思いに切腹をします。
その中に、三浦義同も息子の勧めで切腹したとされています。
その息子である三浦義意は、父の切腹を見届けたのち、敵陣に突撃して21歳の若さで討死し、450年半島を治めていた名門・三浦家が滅びます。
落城後に入場した際には。討死した三浦家家臣たちの血によって湾一面の海が血に染まり油を流したようになった事からこの湾は、【油壺】と呼ばれてるようになったそうです。こうして、三浦氏との激戦の末に北条早雲は、相模全体を平定しました。
相模平定後の北条早雲
その後も相模の国人衆を傘下に加えて、伊豆や相模の水軍を確保して、上総の武田家を支援するために、海路で房総半島に渡り1517年まで戦いに明け暮れました。
そして北条早雲は1518年に家督を北条氏綱に譲り、1519年に死去します。
早雲死去と同じ年に今川義元が誕生して、その2年後には武田信玄が生まれ、いよいよ本格的に戦国大名たちが活躍する情勢が出来上がっていくのでした。
ということで、北条早雲は戦国大名としては最初に検地を行い、東国初の分国法を定め、国の主体は農民であることを信念に相模の地に善政を敷きました。
北条家の家訓には「上下万民に対し、一言半句であっても嘘を言ってはならない」とあります。
この家訓を忠実に守り、この相模地方に善政を敷いた北条家では、豊臣秀吉の20万の大軍にて小田原に攻められるまで戦国大名唯一と言っていいほど家臣・領民の大きな争いがなかったそうです。