江戸時代は武士より農民の方が鉄砲を必要としてた!?
応仁の乱の頃には使用されなかった鉄砲ですが、関ケ原の戦いになると鉄砲無くては戦が成り立たないほど当たり前になりました。しかし、徳川家康が江戸幕府を開き太平の世を迎えると武士たちは鉄砲を捨てたと言われています。
かつては世界屈指の鉄砲大国だった日本がなぜ鉄砲を捨て刀を選んだのでしょうか?
アジア有数の陸軍戦力を誇っていた日本
日本の鉄砲の伝来は1543年で、そのわずか一年後には現地の鍛冶師によって純国産の鉄砲の生産に成功しています。1549年には織田信長が500挺の鉄砲を発注していることから、わずか5年で鉄砲の量産化にこぎつけていたと言う事になります。
世界を見ると、1522年のロドス島包囲戦で、オスマン帝国のイェニチェリ軍団が聖ヨハネ騎士団に向けて鉄砲を放っていた。この当時のヨーロッパで最も規模の大きい陸軍戦力を有していたのはオスマン帝国だったのです。
16世紀末にもなると、日本はこのオスマン帝国と比べても遜色ないほどの陸軍を持つようになります。豊臣秀吉の朝鮮出兵の際に武士と足軽の混合部隊で出陣しましたが、所持している武器が各自バラバラでした。
舞台の大多数の武士たちは、伝統的な刀や弓・槍などを所持していましたが、他の兵士たちは鉄砲を担いでいたそうです。先方隊16万人のうち四分の一以上の兵が鉄砲隊であったそうです。
当時、このような軍隊に正面から戦って勝てる国はアジアには存在しておらず、秀吉の朝鮮出兵での日本を苦しめたのは朝鮮・中国の連合軍ではなく、極寒の冬と補給の停滞による敗北でした。
東アジア各国に武器を輸出
今でこそ、日本製の銃が海外で販売されることはありませんが、16世紀の日本は戦国時代で、刀・具足・鉄砲などの兵器製造技術は莫大な利益をもたらし、東アジア各国も日本製の兵器をこぞって購入していました。
この時の日本は、世界でも5本の指に入るほどの武器輸出大国であったと言います。
鉄砲の伝来以前から日本は、素晴らしい性能を誇る刀剣の産地として有名でした。
また、皮肉にも国内で戦争や騒乱が続いていたからこそ、兵器生産の技術力が保たれ、西洋の新しい兵器である鉄砲にも対応し1年でそれをコピーしたのです。
自発的に高度な技術を捨て成功した日本
徳川家康が豊臣氏を滅ぼした大坂夏の陣は1615年のことでした。
その3年後、ヨーロッパでは神聖ローマ帝国を舞台とした三十年戦争と呼ばれる出来事が起き、戦争に介入したスウェーデン国王グスタフ・アドルフは、1632年のリュッツェン会戦で戦死している。霧と極度の近眼が災いし、敵軍の鉄砲隊の前に出てしまったのです。
17世紀のヨーロッパでは鉄砲の進化が著しく、それに並行して戦争が頻発するようになりました。
一方で日本に目を向けると、江戸時代という太平の世が始まっていました。
平和な世の中になると、日本人は火縄銃をより使い勝手の良い兵器として進化させようとはせず、従来の刀を武器として愛用していくことになります。
冒頭で書いた通り、日本人は鉄砲を使用しなくなりました。
日本での刀の扱いは単なる武器というだけではなく大きな象徴的な意味合いを持っていました。例えば君主が家臣に下賜するものといえば、昔から刀剣と相場が決まっています。要するに刀とは尊いもので、それは新顔である鉄砲では果たすことが出来なかったのです。
また、封建社会であった日本は、帯刀の権利が無ければ名字さえ持てなく、刀が己の身分を表していたのです。ちなみに、鉄砲は武士以外の平民でも自由に所持する事が出来き、江戸時代には裕福な商人たちの間で火縄銃射撃が流行したほどでした。
一方で、刀には聖域が存在し、平民が気軽に所持できる代物ではなかったのです。
島原の乱などの争いのをのぞけば、兵器としての鉄砲は全くと言っていいほど需要が無く、近世以降の戦争に不可欠な鉄砲を日本人は自発的に切り捨てていったのでした。
また、徳川綱吉によって諸国鉄砲改めによる百姓たちの狩猟及び原則所持禁止や火縄銃の移動制限がなされ、鎖国による技術進歩の停滞により火縄銃の進化は幕末までストップする事になります。
鉄砲の需要は農村部に合った
綱吉の鉄砲改めによって基本的に火縄銃の使用・所持は禁止されましたが、奥地の農村部までしっかりと改めるわけではなかったので、鉄砲の管理は村任せであってないようなものでした。
そんな農村部では、鉄砲を争いのために使用するのではなく獣害を防ぐために使用されるようになりました。つまり江戸時代は、軍拡のために大名達が鉄砲を増やしたのではなく、農民たちが獣害を防ぐために鉄砲を買いそろえていたと言う事になります。
でもこうした環境下の中でも農民たちは、一揆や打ちこわしの際に鉄砲を使用する事はなかったといいます。
要するに、江戸時代は武士が鉄砲を捨てて衰退したのではなく、鉄砲を所有していてもそれを武器として使用していなかった社会がそこにはあったと言う事になります。
しかし、幕末や明治以降の軍拡主義へとシフトしていくと、日本では外国の技術を取り入れ重火器の開発に躍起になって行くことになるのです。