なぜ後醍醐天皇による倒幕計画は成功したのか??
室町・南北朝時代にかけての流れはこれまでも記事にしていたのですが、『どうして鎌倉幕府を倒そうという流れが多くの人の間に共通認識として出来上がっていったのか?』そういった幕府が滅亡するに至るまでの背景を書いていませんでした。
今回は鎌倉幕府の統治機構から見た倒幕運動について語っていきます。
鎌倉時代の御家人の状況
将軍と御家人の関係は、御恩ー奉公と呼ばれる関係で結ばれています。
上の図の様に『土地』を介して主従関係を結ぶ形態の社会制度を『封建制』と呼び、この『封建制』が敷かれた社会(=封建社会)を経て『資本主義社会』へ移行すると言われています。
土地を利用して毎回同じ作業をしてると効率を追求して生産性が上がる
⇒ 生産性が上がって余裕が出来ると他の面白いものに目がいく
⇒ 余った作物と面白い製品を交換するようになる
⇒ 交換するのに作物じゃ腐るかも・・・
⇒ 貨幣経済の発展
⇒ 資本主義社会へ
この『貨幣経済の発展』が後々御家人の追い込む一因となっていきます。
将軍と御家人の間に結ばれた封建的主従関係ですが、御家人が将軍に行う奉公のうち、戦に関する出費は基本御家人本人が行います。この事実も後々御家人を追い詰めていくので頭の片隅に置いといてください。
更に言うと、当時は土地やら何やらの財産は男女や生まれた順に関係なく(=分割相続)分けられていました。親の代の土地が兄弟姉妹に分けられると、時代が下れば下るほど『平等に貧しくなりやすい』状況が発生するのは想像の通りです。
こりゃマズいということで、鎌倉時代後期には分割相続から単独相続に変化していきました。誰に相続させるかというと基本的には嫡子(正室の長男)です。
ところが、鎌倉時代に行われていた家督相続の方法は惣領制。
惣領は兄弟の中で最も器量のあるデキル人物がその地位についていました。分割相続を行っている間は惣領をリーダー格に一族で農地経営を行ったり有事には惣領をリーダーに置いて戦闘集団を作り上げていきます。
庶子たちもそれぞれ土地を持っていたので平等とまではいかないまでも其々が経済力を持っているので、ある意味共同経営者のような形で農地経営や戦闘に携わることができていたのです。
その惣領制が崩れ、嫡子による経営のような農地経営の形態になってしまうと、庶子が嫡子の家臣のような扱いになってしまいます。
実力が劣る嫡子になると面白くない者が産まれてきます。明確な上下関係が生まれる事で共同経営者の時よりも、リーダー格になる嫡子が横柄な態度を(惣領制の時よりも)取りやすくなってしまいます。そんな経緯から嫡子の元を離れる庶子たちが多くなっていきます。
それぞれの所領を離れても受け入れてくれる基盤が社会情勢の変化により出来上がりつつあったことも所領を離れる庶子が増える一因となっています。
武士の生活と貨幣経済の浸透
将軍と御家人の間の主従関係は上の図の通りなのですが、将軍からの給与が『土地』って部分に注目してみてください。更に言うと、この頃の武士は武士が勢力拡大しはじめた院政期以降の開発領主(=田地を開発して領地を獲得した者)としての系譜を引き継いだ者が数多くおりました。
御家人の収入は土地からの収益(基本は米)です。御家人は幕府に仕えている以上、何らかの仕事があれば自分の所領や領地を離れて自腹で仕事を請け負いますが、その準備を『米を売る』ことで準備しなければなりません。米の価格変動で収入が変わり、必要な物資もまた価格変動が大きく影響します。
さらに言うと御家人が仕事で所領を離れて出張する場所は基本的に大都会。京や鎌倉になります。そういう場所で生活は貨幣を用いなければ成り立ちません。田舎でならともかく都会だと様々な商品も目にするでしょうから、ついつい手が伸びることも増えていきます。
今でもそうですが「ついつい」小さな出費が重なると手痛いものとなりますしね。
貧しい御家人が増えるにつれ、土地を売却したり土地を担保にしてお金を借りたりしながらどうにか食つなぐような層が徐々に確実に増えていったのです。
鎌倉幕府の転換期、蒙古襲来
そんな中で鎌倉時代、海を隔てた大陸ではとんでもなく大きな国家が出現していました。世界史上でも1,2位を争う程の規模を誇るモンゴル帝国(後に元など)です。
モンゴル帝国は1206年、チンギスハンにより建国されていて、子の代・孫の代・・・と順調に勢力を拡大していきました。
総合面積は大英帝国の方が大きいのですが、モンゴルの方が支配人数(人口比)でいうと多いです。
時代が違いますから世界の人口も違い、人数だけで見ると大英帝国に分があるのですが比率ならモンゴルが上。モンゴルの場合は全世界の人口の25%も支配していたそうです。
元々モンゴルは非常に厳しい気候で知られている地域。大陸特有の乾燥気候で冬は厳寒です。そのモンゴルが帝国を拡大する辺りの時期に少しだけ湿潤気候になっていたと言われています。
雨が肥沃な土地をもたらし、その土地が強い騎馬を育て、強い軍隊を作り出していきます。厳寒で乾燥した気候を利用して『お湯を注ぐだけで膨張する軍隊飯』を当時のような大昔に作り出していたので軍が強くなったのは必然だったのかもしれません。
そのようにして勢力拡大していったモンゴル帝国が国号を元と改め、日本にも食指を伸ばし始めます。
元が日本に来た3つの理由とは?
理由としてよく言われているのが
- 中国南部の王朝・宋(南宋とも呼ばれる)を攻め落とせずにいたため、宋と貿易をしていた日本と関係を結び、孤立させようとした
- 急激に勢力を拡大していった反動で元国内に対抗組織ができていたため、孤立化させようとした
- 当時の日本は世界屈指の金産出国だった
以上のような理由から元は鎌倉幕府に「服従するように」と使者を送ってきました。海の向こうから物資が送られてくると際限がなくなりますから。補給路を断つ作戦は今も昔も変わっていません。
日本は協議を重ね結局『無視』することにしますが、当時の外交では『無視』という返答はなく、答えがハッキリとしないため元は複数回に渡って使者を送っています。
蒙古襲来によって日本にもたらされた影響は??
日本としては『無視』した結果武力行使されることも覚悟の上。1268年に初めて元からの使者が来ると、18歳の北条時宗を執権に抜擢。執権の権力を集中させ、国難に対応しようとします。
最終的に二度の蒙古襲来を退けることに成功しますが、元寇は鎌倉幕府に大きな影響を残していきました。
- 執権・北条氏への権力集中
- 大規模な防衛線で新しく土地を獲得できなかったので働きに応じた報酬(=御恩)が貰えなかった
これらだけでも鎌倉幕府への不満に繋がったのは確実です。
ちなみに元へ対抗するために権力を集中させた結果、当時の守護は半数以上を北条氏が占めることとなっています。
一度手にした特権を手放すのは難しい。だけど不満を解消しないとマズい。
そういった理由から打った手が徳政令です。
これまでの生活苦から売ってしまった『土地を元の持ち主に戻してやろう』という趣旨のものになります。
基本、元寇で軍役についたのは西国の武士達。当時の御家人はあくまで幕府の将軍と主従関係を結んだ武士を指しています。元寇で戦場は九州。西国は幕府よりも朝廷や貴族の力が強いですから御家人以外の武士達ばかりです。
御家人以外の武士たちにとっては明らかに御家人の救済目的である徳政令の施行は、命がけで戦ったのに御家人だけを贔屓したように感じられる一件になったと思われます。さらに借金をチャラにしたため御家人達は借金できなくなる状況に追い込まれました。
悪党の誕生
悪党とは、野党や強盗、山賊や海賊行為等を行い、鎌倉幕府から討伐の対象にされた者達のことです。支配体系の外部からの侵略者を総じて悪党と呼んでいたようです。幕府や荘園に物凄く反発していました。
もちろん、そのような行動に至ったのには蒙古襲来以降の社会経済情勢の変化により不満がたまったため。御家人層であっても所領から逃げ出すような庶子たちが増えていくと、その庶子たちが悪党になる例も増えていきます。
悪党が出現してその存在が当たり前のような状況になると、今度は「悪ぶるのが格好良い」みたいな風潮が一部で生まれてきます。この時点で後々の『ばさら大名』が生まれる土壌ができていたってことですね。
後醍醐天皇への貢献度と有名度合で1・2位を争うと思われる楠木正成は、この『悪党』出身の人物だったと言われています。治安が悪化し反幕勢力が育つ土壌が元寇以降育っていったのです。
鎌倉幕府と朝廷が近づいた結果とは??
鎌倉殿(将軍)が源頼朝以降3代で源氏が滅び、藤原氏が2代続けて将軍となり…1252年には鎌倉殿に朝廷から親王を迎え入れています。これ以降、幕府と朝廷の関係は非常に近くなり幕府からの口出しが増える羽目に。
「どうせ決めても文句言われるんだから」
と第88代の後嵯峨天皇(1242‐1246在位、鎌倉殿を迎えた時には治天の君で幕府から口出しされる立場にあった)は院政して発言力がある中で、第90代亀山天皇(1260‐1274年在位)の跡継ぎを決めないまま1272年に崩御。これがきっかけになって両統迭立がはじまり、朝廷内は大混乱に陥ります。
元寇(1274年・1281年)も始まると、基本的に軍事面を抑えている幕府側の口出しがさらに増えたことでしょう。朝廷側の立場の人たちにとって幕府は目の上のたん瘤状態となりました。
その上、自身の系統だけが皇位につくわけじゃないので自分の血筋を皇位につけることが出来ない天皇も出てきます。口うるさい幕府と思い通りに行えない皇位継承。ここに不満を抱いたのが後醍醐天皇でした。
後醍醐天皇から見ると「自分を御輿に反幕派を討幕派に変えられる」可能性を見出していたかもしれませんし、逆に「後醍醐天皇が反幕派」と知って近づいた人間がいたのかもしれません。
どちらが先に仕掛けたのかは分かりませんが、以上のような鎌倉時代の初期から積み重なった社会の矛盾が出てきていたために倒幕計画を計画・実行するだけの人物たちが集まったのではないでしょうか。そして、しばらくどうにか生きながらえながらも1333年に鎌倉幕府は滅亡へと至ってしまったのです。