2020年の大河ドラマ【麒麟がくる】主人公・明智光秀の人生!!
2020年度の大河ドラマが【麒麟がくる】で人気の高い戦国武将の明智光秀が主人公となりました。そこで、このブログでも大河の波に乗ってしまおうということで、明智光秀についていくつか書いていきます。
そのうちの一つとして、基本中の基本である明智光秀の人物伝を書いていきたいと思います。
明智光秀の出生の秘密
明智光秀は、清和源氏の家系で、美濃源氏土岐氏支流の明智氏の出身で、この時代の戦国武将の中では織田信長同様に知らない人がいないくらいの知名度を持つ人物です。現在でも、大河ドラマを始め、小説、ゲームなど様々なメディアで取り上げられています。
そんな知名度の割には、出生が定かではなくハッキリしているのは、織田信長と絡んできた当たりでした。
出生年に至っては、
永正13年(1516年)生まれ 67歳没
享禄元年(1528年)生まれ 55歳没
天文9年(1540年)生まれ 43歳没
と主に3つの説があり、面白いことにいずれも子年と言う事になります。
本能寺の変の時に67歳だと年を取りすぎており、43歳で信長や秀吉より若いとは考えずらいので、1528年生まれの55歳没と言うのがしっくりくるのではないかと考えられます。
出生地についても5つほどの説があり未だハッキリと分かっていません。
- 岐阜県可児市瀬田 明智城
- 岐阜県恵那市明智町 明知城
- 岐阜県山県市中洞
- 岐阜県大垣市上石津町 多羅城
- 滋賀県犬上郡多賀町佐目
明智氏の名字の由来は明智荘からで、美濃国可児郡にあった事から①の説が有力となっているそうです。
2020年の大河ドラマ【麒麟がくる】の登場人物に光秀の叔父である明智光安は出てくるようですが、父は出てこないようです。その父の名も光綱・光隆・光国と言った説がありどれが正しいのか、はっきりしていないのが現状です。
また、叔母に当たる女性が斎藤道三に嫁ぎ濃姫を生んだことで、光秀と濃姫が従姉妹の関係だった事から早い時期から斎藤家に仕えていたようです。麒麟がくるでは、斎藤家に仕えていた1547年頃から始まるような描写がありました。
明智光秀、戦国の世に登場
明智光秀がハッキリと世に出てきたのは、足利義輝が暗殺された永禄の政変の時と考えられています。1565年、13代将軍・足利義輝が三好三人衆と松永久秀の手にかかり無念の死を遂げ、弟・義昭は命かながら姉婿の武田義統の元へのがれました。
しかし、義昭は再度上洛の機会を伺い、各地の武将に自らの将軍擁立のために上洛をさせてくれる大名を探し依頼をし始めていました。その使者として、後の織田家重臣の細川藤高が織田家に派遣され、織田信長が上洛の申し出を受けることになります。
ところが、トラブルが起こります。
1566年に義昭は、織田家と斎藤家との間で和睦を結ばせていましたが、わずか数か月で信長が和睦を破棄し美濃へ侵攻します。1567年に稲葉山の戦いにて斎藤龍興を破り、美濃の地を制圧しました。
織田信長と明智光秀の出会い
当の明智光秀は、美濃を治めていた斎藤道三に仕えていたが、竜興との跡目争いで明智一家が離散し、光秀自身は越前の朝倉義景の下で10年ほど仕官していたとされています。
その朝倉義景のところに足利義昭と細川藤孝が転がり込んできたことで明智光秀の運命が大きく変わることになります。その頃から、明智光秀が歴史の表舞台に登場するようになってきます。
足利義昭は、朝倉義景を頼り上洛し室町幕府15代将軍にしてもらおうとしたのですが、肝心の義景は腰が重く、一向に上洛の素振りも見せませんでした。しびれを切らした足利義昭に対し光秀は【織田信長こそ頼れるものなり】と助け船を出しました。
この頃、濃姫は織田信長に嫁いでいたため、従姉妹である明智光秀の仲介で、1568年に足利義昭は織田信長に上洛の交渉を始めました。実際の交渉は、細川藤孝が行っておりさらに藤孝と信長の間に明智光秀がはいっていたことで、信長と光秀が出会い織田家に出入りしていたとされています。
足利義昭の上洛
1568年に織田信長が足利義昭を擁して上洛すると、明智光秀と細川藤孝も同行しました。
信長が岐阜に戻っても、明智・細川両名は義昭の下に留まります。
しかし、1569年に足利義昭が三好三人衆に襲撃される本圀寺合戦が起きます。
光秀と藤孝の善戦と信長の援軍により事なき得ました。信長の功績を残した【信長公記】に明智光秀の名が出てきたのはこの戦いから登場することになりますが、立場的には足利将軍家と織田家に両方所属している扱いだったと記録されています。
将軍・足利義昭の追放と室町幕府の滅亡
1568年に足利義昭は15代将軍となりましたが、信長は将軍を利用して権力の掌握をしようとしたので、義昭は違和感を覚えていました。将軍として全国を支配したいと思っていた義昭は信長とすれ違う事になり、これが明智光秀の人生に大きな影響を与えます。
信長は、【殿中御掟】を出すなどをして将軍の行動を制限しますが、義昭は裏で朝倉義景と通じており信長を討つように命じていました。一方で信長はその動き見て警戒し、朝倉義景に対し上洛の命を出しますが、義景はそれを無視します。
上洛の命を黙認した義景に激怒した信長は、越前へと出兵するのでした。
金ヶ崎撤退戦
この時、明智光秀も従軍していました。
他にも羽柴秀吉・徳川家康らが参戦していました。
織田軍に対し朝倉軍が劣勢と思われたその時に、背後にいた浅井長政が朝倉方に寝返りました。背後を取られた織田軍は、撤退を余儀なくされました。
この撤退戦【金ヶ崎の退き口】は、羽柴秀吉(豊臣秀吉)が活躍した事で有名ですが、明智光秀も殿の一人として加わっていました。
足利義昭に通じていた朝倉義景との戦いに従軍してたより、将軍家・織田家の二足の草鞋を履いていた明智光秀でしたが、この時点で織田家側に段々とシフトしていくことになります。
比叡山焼き討ちと近江坂本城
1571年に石山本願寺が挙兵すると、明智光秀は信長に従軍し摂津国へ出陣しました。
この戦いで明智光秀は、信長に比叡山焼き討ちの命を受けてその武功が認められて、近江国滋賀郡5万石が与えられて坂本城を築城します。この滋賀郡の拝領をもって明智光秀は、織田家臣団へ編入され事になります。
1573年2月に足利義昭が信長に反旗を翻した、石山・今堅田城の戦いでは、完全に義昭と袂を別って織田家の直参として参戦しました。それでも信長は将軍を重んじて義昭との和平交渉を進めていきますが、さらに槙島城で挙兵した事により関係が決定打となり、足利義昭が追放され室町幕府が滅亡することになります。
1575年には、京都の権益安堵関係の奉行役として政務をこなし、当時、京都所司代だった村井貞勝と同じ立場で仕事をしていました。また、朝倉氏滅亡後の越前の地で羽柴秀吉と滝川一益と共に占領行政を担当する政務も行っていました。
これらの功績が認められ、1575年7月には惟任(これとう)の賜姓と従五位日向守を受け惟任日向守となります。
惟任日向守とは、武家官位の仮名※です。※本名のほかに付けられた仮の名まえ
織田信長が朝廷にじきじき働きかけて明智光秀に授けた名前で、それほど光秀は信長に家臣として有能な人材だと思われていた証拠でしょう。
惟任…九州大分地方で平安時代・鎌倉時代の有力な勢力を誇った武士団【大神氏】の通り字です。※通字とは、先祖代々受け継がれる字のこと
日向守…日向国(現在の宮崎県)治める官職の事を言います。しかし、戦国時代は部下への恩賞で、私的に名乗れるような風習だったので、実際に日向国を治める日向守ではなく、完全に前者であったとされています。
琵琶湖の水上交通の重要な拠点の坂本城
これまで居城だった宇佐山城よりも坂本城は、滋賀郡の行政統治に適した城でした。
琵琶湖の水上を利用した交通ネットワークは、岐阜城と京をつなぐ重要な拠点となっていました。
琵琶湖の水上交通を支える重要拠点
信長の本拠地・岐阜だけではなく安土城の完成後を考えても、明智光秀の坂本城がどれだけ重要拠点だったかわかると思います。このことからも、信長から絶打なる信頼を得ていたことが伺えると思います。
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天下人・信長の家臣としての明智光秀
足利義昭追放後の織田信長は破竹の勢いで天下人へと駆け上がっていきます。
その過程で、明智光秀は織田家の重臣として数々の功績を残していきます。
この頃から信長は、西諸国へと目を向けていましたが、東の上杉謙信や武田信玄などのカリスマ君主が次々と死去しているとはいえ、強敵であることには変わり在りません。
そこで信長は、東諸国と機内統一に全力を注ぎます。
明智光秀も信長と共にいくつもの戦いに従軍しました。
- 高屋城の戦い(1575年)
※本願寺との戦いとの一つ - 長篠の戦い(1575年)
※武田勝頼を相手に設楽原で快勝 - 越前一向一揆(1575年)
※本願寺との戦いとの一つ
長篠の戦いは、史実通りの快勝で武田家滅亡のキッカケを作ることに成功しました。しかし、特に大坂の石山本願寺が鉄砲の名手たちが揃う雑賀衆を取り入れ、織田軍の侵攻を見事に阻んでいました。
1576年の天王寺の戦いで、明智光秀は苦戦を強いられ信長の援軍で一命をとりとめています。この直後、光秀は重病になり倒れてしまうアクシデントに見舞われますが、1577年には、細川藤孝、荒木村重ら機内勢と共に雑賀・根来衆討伐に出陣します。
さらに、明智光秀は謀反を興した松永久秀討伐の信貴山城の戦いを経て、【丹波攻略】を信長に命じられ、各地で転戦しながら丹波を攻略すると言う休みもないほどの日々が続いていきます。
この頃の織田家中は、明智光秀だけではなく我先に功を急ぎ各地を転戦していました。
1578年には、荒木村重が謀反を起こしたため、その対応にも追われることになります。
そんな状況で、中国地方攻略中の羽柴秀吉の支援のため、播磨へ向かい支援をおこなたったり、丹波平定を行ったりと本能寺の変までの数年間でめまぐるしい展開で歴史が動いていきました。
そして、1579年に丹波平定が最終段階へと突入しました。
2月には八上城を続けて8月には黒井城を落とし丹波国を平定し、そのまま細川藤孝と協力し丹後国の攻略と運びになりました。
この頃の明智光秀は、信長から絶大の信頼を得ており、丹波国を支配するまでに出世しておりました。一方で、石山本願寺の攻略を任されていた佐久間信盛に対し、信長は折檻状を送り、以下のように明智光秀の武功を絶賛したのは有名な話です。
【光秀は丹波を平定し、天下の面目をほどこした】
この後、佐久間盛信は織田家を追放されてしまいます。譜代の重臣でも働きが悪ければ追い出されてしい、働きが良ければ新参者でも重宝される織田家とはいえ、明智光秀の武功がそれだけ素晴らしいと信長は思っていたことでしょう。
この時、本能寺の変まで3年の1579年、その間に明智光秀は何を思い謀反と言う結論に達したのでしょうか?
もしかしたら、この時すでに…
それは、本人しかわかりません。
本能寺の変と山崎の戦い
明智光秀が他の重臣たちより重用されたのは、将軍・義昭の元家臣と言う事があったかもしれません。細川藤孝と同じく洗練されており、羽柴秀吉・柴田勝家・滝川一益などと比べ物にならないほど礼儀正しかったそうです。
特に、1581年頃の京都での馬揃えの軍事パレードでは、明智光秀が戦の合間に準備し、忙しさに拍車をかけて末に行われました。信長の天下が近づくに連れて、こうした政務的な仕事も増えていきました。
そして、運命の1582年…
詳しい理由は色々な説があり、決定的なものはありませんが明智光秀は織田信長に反旗を翻します。
1582年5月28日に行われた連歌会で明智光秀は当日、こんな連歌を詠んだとされます。
【ときは今 あめが下知る 五月かな】
【意訳】今こそ土岐氏ルーツの明智が天下に号令するときだ
そして6月1日夜、秀吉の中国攻めを助けるため、13,000の兵を丹波亀山城から進軍させるのですが、明智軍は本能寺へ兵を進め1582年6月2日にこの日は訪れます。
詳しい内容や様々な説などは以前の記事を参考しもらえればいいと思います。
信長を討った後の明智光秀は、安土城で強奪を行いその金子で味方増やそうと奔走します。
ここで最大の誤算となるのが細川親子の戦線離脱でした。
将軍家臣時代からの盟友・細川藤孝でしたが、父子ともに明智光秀の味方に付く前に髪を切り、喪に服しダンマリを決め込みました。さらには細川忠興の正室、光秀の娘である明智玉(細川ガラシャ)を幽閉し、織田家に対して【身の潔白】を証明する姿勢に努めました。
さらには、娘婿の筒井順慶にも要請を無視され、同じく娘婿の津田信澄(織田信長の甥っ子)は織田信孝に殺され、思うように味方を得られませんでした。
こうして、手をこまねいているうちに来るはずのない羽柴秀吉が中国大返しという大技を決めて、京都の山崎の地にやってきました。
羽柴VS明智軍による山崎の戦いの火ぶたが切られました。
しかし、明智光秀は羽柴勢にフルボッコにされあえなく敗走し落ち延びる途中、落ち武者狩りの手にかかり、討ち死にを遂げました。
嫡男・明智秀満や斎藤利三といった明智の重臣達もまた、もはやこれまでと悟り、滅びの道を辿りました。
最後に…
織田信長が出てくる作品には必ず明智光秀が出てくるが、信長を討つ出番が多く研究されている割には彼自身の作品があまりありませんでした。大河ドラマでも、主役になった事がありませんでした。
本能寺の変の動機として、怨恨説・野望説・朝廷黒幕説が主流となっていましたが、段々と下火になっているようで、近年では四国問題説を唱える人たちが多いようです。この四国問題説と言うのが、長宗我部元親が絡んでくるのですが詳しいお話は別の機会にしておきましょう。