普仏戦争とは?フランス軍はなぜプロイセン軍に敗れたのか―セダンの戦いから休戦まで【後編】
1870年8月、国境付近の戦いで敗れたフランス軍は各地で後退を続けました。
メスではバゼーヌ軍がドイツ軍に封じ込められ、その救援に向かったマクマオン軍も追撃を受けます。そして8月末、マクマオン軍はベルギー国境に近いセダンへ退却しました。
ここで行われたのが、普仏戦争の大きな転換点となるセダンの戦いです。
セダンでの敗北は、単にフランス軍の一部が敗れたというだけではありませんでした。戦場には皇帝ナポレオン3世も同行しており、その結果はフランスの政治体制そのものにも大きな影響を与えることになります。
しかし、第二帝政が崩壊しても普仏戦争は終わりません。
今回は、フランス軍がなぜセダンで追い詰められたのか、そしてセダンの敗北がフランス国内の政治をどのように変えたのかを見ていきましょう。
- 普仏戦争の経過
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1870年7月19日フランスがプロイセンへ宣戦
南ドイツ諸国もプロイセンとの軍事協定に基づいて参戦した
8月2日フランス軍がザールブリュッケンへ進出フランス軍による初期の攻勢だったが、大規模な侵攻には発展しなかった
8月4日
ヴィサンブールの戦いドイツ軍が国境付近のフランス軍を破り、フランス領内への進攻を始めた
8月6日ヴェルト、スピシュランの戦いでフランス軍が敗北フランス軍がアルザスとロレーヌ方面で敗れ、国境から後退した
8月16~19日バゼーヌ軍がメスへ押し戻されるマルス=ラ=トゥール、グラヴロットの戦いを経て、フランス軍の主力の一つであるバゼーヌ軍がメスに包囲された。
8月23日マクマオン軍がメス救援へ向かうマクマオン軍はパリ方面への後退をやめ、バゼーヌ軍を救援するため北東へ進んだ。
8月30日ボーモンの戦いでフランス軍が敗北メス救援へ向かっていたマクマオン軍がドイツ軍に敗れ、救援を断念した。
8月30~31日フランス軍がセダンへ後退ボーモンで敗れたマクマオン軍は、ドイツ軍に追われてセダンへ入った。
9月1日セダンの戦い ◀今回記事はここからドイツ軍がフランス軍を包囲。
9月2日フランス軍降伏ナポレオン3世も捕虜となる。
9月3日敗北の知らせがパリへ皇帝捕虜の情報が伝わる。
9月4日第二帝政崩壊共和国が宣言され、国防政府成立。
9月19日パリ包囲始まるドイツ軍がパリを包囲し、フランスは抵抗を継続。
10月27日メスのフランス軍が降伏バゼーヌ軍が降伏し、10万人を超える兵士が捕虜となる。
1871年1月28日休戦協定成立 ◀今回記事はここまでフランスとドイツ側の戦闘がほぼ停止。
5月10日フランクフルト講和条約正式な講和が成立し、普仏戦争が終結。
セダンへ追い込まれたフランス軍
前回の記事で見たように、メスに封じ込められたバゼーヌ軍を救援するため、マクマオン率いるシャロン軍は北東へ進みました。
しかし、ドイツ軍はその動きを察知して追撃します。8月30日のボーモンの戦いで敗れたシャロン軍は、メス救援を断念し、ベルギー国境に近いセダンへ退却しました。
この時点でフランス軍は戦闘と行軍によって疲弊していました。一方、ドイツ軍はセダンへ向かうフランス軍を追いながら、周囲から包囲する態勢を整えていきます。
こうして9月1日、普仏戦争の大きな転換点となるセダンの戦いが始まりました。
セダンの戦い
1870年9月1日早朝、セダン周辺で戦闘が本格化しました。
セダンに集まっていたフランス軍は約12万人。これに対して、モルトケ率いるドイツ軍は約20万人の兵力を投入し、火砲の数でもフランス軍を大きく上回っていました。
セダンの戦いでは、こうした兵力や火砲の差に加え、ドイツ軍がフランス軍を包囲するように動いたことも大きく影響します。
ドイツ軍は複数の方向からセダンへ進軍し、フランス軍の退路を徐々に塞いでいきました。こうしてフランス軍は、次第に狭い範囲へと追い込まれていきます。
なお、ドイツ側にはプロイセン国王ヴィルヘルム1世やビスマルクもありました。
実際の軍事作戦を指揮していたのはモルトケです。
マクマオンの負傷で指揮が混乱
ドイツ軍による包囲が進むなか、フランス軍では戦闘開始直後に大きな問題が起こりました。
9月1日の朝、総司令官マクマオンが砲弾の破片を受けて負傷し、指揮を続けることができなくなったのです。
その後、指揮を引き継いだ将軍がセダンからの退却を命じましたが、間もなく別の将軍へ指揮権が移り、この退却命令は取り消されました。代わって、ドイツ軍を突破して脱出を図る方針が取られます。
マクマオンの負傷後、わずか数時間のうちにさらに二人の将軍へ指揮が移り、退却命令が取り消されたわけです。フランス軍内部では、方針が大きく揺れていたのが分かります。
すでにドイツ軍による包囲が進んでいたところへ、こうした指揮系統の混乱も重なり、フランス軍がセダンから抜け出すことはさらに難しくなっていきました。
ナポレオン3世が降伏を決断
午後になるとドイツ軍の包囲はほぼ完成し、フランス軍がセダンから脱出することは難しくなっていました。
このころ、ナポレオン3世は軍全体を直接指揮する立場にはありませんでした。開戦当初は自ら軍を率いていましたが、8月12日にバゼーヌへ指揮を譲り、その後はマクマオン軍に同行していました。
指揮を執っていなかったとはいえ、皇帝自身が現地にいたことで、この敗北は軍事上の問題だけでは済まなくなっていきました。

9月1日夕方、これ以上の戦闘継続は難しいと判断したナポレオン3世は白旗を掲げさせ、プロイセン国王ヴィルヘルム1世に降伏の意思を伝えました。前章で触れたように、ヴィルヘルム1世やビスマルクもこのときセダン近郊にいました。
翌9月2日にはフランス軍全体の降伏条件が決まり、8万人を超えるフランス兵が捕虜となりました。ナポレオン3世自身もプロイセン軍の捕虜となります。
こうしてセダンの戦いは、フランス軍の大敗だけでなく、皇帝自身が敵軍の捕虜になるという異例の結果に終わりました。
セダン敗北で第二帝政が崩壊
セダンの敗北とナポレオン3世捕虜の知らせは、9月3日にパリへ伝わりました。皇帝本人が敵国の捕虜となったことで、第二帝政は大きく揺らぎます。
もともとパリでは、ナポレオン3世の政治に反対する共和派が勢力を伸ばしていただけでなく、社会主義者や第一インターナショナルに関わる労働運動など、帝政に批判的な勢力も活動していました。第二帝政は1860年代から政治の自由化を進めていましたが、そのなかで反対勢力の活動も活発になっていたのです。
こうした反帝政勢力が活動するなか、セダンの敗北と皇帝捕虜の知らせが、政治体制を一気に動かすきっかけとなりました。
翌9月4日には立法院が開かれ、今後の政治体制をめぐる議論が始まりました。その一方で、敗戦を知ったパリ市民や国民衛兵が議事堂周辺へ集まり、一部は議場へ入り込みます。
その後、共和派の議員たちは群衆とともにパリ市庁舎へ向かい、共和国の成立を宣言しました。
こうして、1852年から続いていた第二帝政は崩壊します。このとき成立した共和政が、後に第三共和政と呼ばれる体制です。
皇帝が降伏しても普仏戦争は終わらなかった
共和国が成立しても、普仏戦争が終わったわけではありません。9月4日、共和派を中心として国防政府が成立しました。
新政府はドイツ側への降伏を選ばず、戦争を継続します。すでにドイツ軍がフランス領内へ進攻していたため、フランス側にとって戦争は、第二帝政が始めた対外戦争から国土を守るための戦争へと性格を変えていきました。
ドイツ軍にとっても、セダンの勝利だけで戦争が終わったわけではありません。
セダンではナポレオン3世とマクマオン軍を降伏させましたが、メスには依然としてバゼーヌの大軍が残り、フランスの新政府も戦争継続を決めています。
そこでドイツ軍は、新政府を降伏させるためパリ方面へ進軍しました。
普仏戦争はここから、共和国となったフランスがドイツ軍の侵攻に抵抗する段階へと移っていきます。
パリ包囲と地方での抵抗
1870年9月19日、ドイツ軍によるパリ包囲が始まりました。
首都と外部との連絡が制限されるなか、国防政府はパリを守るだけでなく、地方でも軍隊を編成して抵抗を続けようとします。
10月7日には、国防政府の一員が気球で包囲されたパリを脱出し、地方で新たな軍隊の編成を進めました。まだ飛行機のなかった時代、包囲下のパリでは気球が外部との連絡や人員の移動にも利用されていたのです。

しかし、短期間で編成された部隊には、経験の少ない兵士も多く、指揮官や装備などにも課題がありました。各地でドイツ軍と戦ったものの、開戦以来続いていた戦況を大きく変えるまでには至りませんでした。
メスのバゼーヌ軍も降伏
さらに10月27日、メスに封じ込められていたバゼーヌ軍が降伏します。
バゼーヌ軍は開戦時からフランス軍の主力を構成していた大軍でした。その降伏によって10万人を超える兵士が捕虜となり、ドイツ側はメスを包囲していた兵力を別の戦線へ回せるようになります。
こうしてフランスは、セダンでマクマオン軍を失ったうえに、メスのバゼーヌ軍まで失うことになりました。
国防政府はその後も地方で軍隊を編成して抵抗を続けましたが、戦況を大きく変えるまでには至りませんでした。
パリも限界を迎える
一方、包囲されたパリでは冬を迎えるにつれて食料や燃料が不足し、市民生活も厳しさを増していきました。
1871年1月にはドイツ軍によるパリへの砲撃も本格化します。地方のフランス軍による救援の見通しも立たず、国防政府は次第に戦争継続が難しい状況へ追い込まれていきました。
そして1871年1月28日、フランスとドイツ側の間で休戦協定が結ばれます。これによって普仏戦争は休戦に入り、新たに選ばれる国民議会が、講和するのか戦争を再開するのかを決めることになりました。
ここでいう国民議会は、フランス革命期の国民議会とは別のものです。2月8日に選挙が行われ、新しい議会が発足しました。
※この国民議会では王党派などの保守派が多数を占めました。この政治状況は、後のパリ・コミューンにも大きく関係してきます。
正式な講和は、この後に結ばれるフランクフルト条約を待つことになります。


