中国・東アジア

たぐいまれなる名君が続いた清の全盛期〜衰退期までを簡単に解説!<中国各国史>

歴ブロ

豊臣秀吉(日本)による朝鮮出兵文禄/慶長の役の後、隙を見計らっての東北部でヌルハチ後金を建国。

ニ代目ホンタイジが南西へ勢力を拡大しつつ漢人たちに受け入れやすい国名『』と名付け、三代目順治帝万里の長城を超えた領土拡大と漢人に対する懐柔政策をとって基盤を作るなど、清では『出来る』皇帝が次々と誕生しました。

そのあとの四代目もまた「名君」と称えられるほどの実力者が付き、約300年もの長期安定政権を築いています。

ここでは清の全盛期〜衰退までを簡単に解説していきます。

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康熙帝の時代(在位1661-1722年)

康熙帝
清の四代目皇帝・康熙帝

中国史の中でも歴代最高の名君とされるのが康熙帝です。順治帝の第三子にあたります。

(960-1127年)澶淵の盟を結んだ契丹人耶律氏の王朝/の最盛期を築いた皇帝・聖宗と肩を並べるほどの統治者でした。

ただし、最初から安定した統治だったとは言えません。

8歳で即位した康熙帝は親政を行うため16歳で当時権力を握っていた重臣を排除する必要がありましたし、20歳の時には中国南部の藩王勢力が起こした三藩の乱(1673-81年)に対処する必要がありました。

三藩の乱(1673-81年)とは

清では中国を支配する際に協力してくれた漢人の武将たちに対して地方の支配権を与えていました。その各地の支配権を認められた者は藩王と呼ばれています。

前王朝・明の武将が李自成の乱で明が滅亡した際に清に協力し

  • 呉三桂 雲南(平西王)
  • 尚可喜 広東(平南王)
  • 耿仲明 福建(靖南王)

として地方支配権が与えられていました。

ところが、世襲の領地で専断的な支配を行うようになっていた藩王の勢力を抑えようと康熙帝が藩の廃止を決定。こうして三藩の乱が起こったのです。

なお、この時点で耿仲明は既に亡くなっており耿仲明の孫・耿精忠と呉三桂、尚可喜が明の復興を旗印に反乱を起こしています。

これを7年かけて鎮圧。中国南方における清の支配が確立された他、外モンゴルを平定。青海やチベットも服属させています。また、台湾方面にも進出し鄭氏台湾を降伏させました。

ネルチンスク条約(1689年)

中国南方の清の支配が確立した時期、清の北方にはロシアをヨーロッパ列強の一国にまで押し上げたピョートル大帝(1682-1725年)が在位していました。

※おおよその位置です。薄い緑は最大版図。

16世紀後半頃から毛皮を求めてシベリアに進出したロシア人。17世紀残半には太平洋岸へ到達し、黒竜江(アムール川)沿岸で度々清と衝突するようになります。

ちなみに黒竜江は清の統治民族・女真族の故郷でもある中国東北部にある川の名前です。

この小競り合いの末に1689年、ネルチンスク条約が結ばれアルグン川(アムール川の源流の一つ)外興安嶺の線で両国の国境線が取り決められています。

このネルチンスク条約は中国がはじめて外国と結んだ対等な条約でしたが、内部には朝貢関係の枠組みで結んだ条約として処理しています。

当時は天山山脈の北部とアルタイ山脈の南部にあるジュンガル盆地にいたモンゴル人オイラト系の部族・ジュンガルガルダンという人物の元で勢力拡大中でした【清・ジュンガル戦争(1687-1759年/康熙帝・雍正帝・乾隆帝)】。

そのため、康熙帝がジュンガルを攻め込んでいたこともあって孤立化させることを狙っていたようです。

一方のロシアはシベリア進出した理由と同じく経済発展のため、交易のために清との関係改善を図ろうとしており、両者の利害が一致してネルチンスク条約は結ばれたのでした。

康熙帝はどんな人だったの?

康熙帝は内政にも非常に熱心で、国家の無駄な費用を抑えて財政を安定させたうえで減税を度々行っていたようです。

明代以降に行われるようになっていた一条鞭法に代わって、地丁銀制を採用。

この地丁銀制とは、丁税(丁銀、人頭税)の額を地税(地銀、田畑の所有に対して課される税のこと)に組み込んで一括させて銀で納税させる制度のことで、清朝では長くこの制度が続けられました。

これにより土地税が多少上がりますが、人にかかる税がなくなり家族が何人増えても税金は変わらないという仕組みが出来上がっています。ということで、康熙帝以後の清では人口がかなり増加しました。

また、非常に勤勉な皇帝で「三藩の乱」の時でさえ四書・五経を学び、宮廷でも学者を当直させていつでも質問できるように備えているほどでした。

また、漢人からだけでなくイエズス会士たちからも学び、幾何学や天文学など西洋の学問も教わっています。中でも科学の研究を庇護・奨励していたようです。

そうした日々の努力により満州語のみならず、漢語・モンゴル語まで話すことができました。

そんな理由から文化事業面でも多大な功績を残しています。

  • 康煕字典
  • 古今図書集成
  • 皇輿全覧図

これらの図書は全て康熙帝が関わって作成されたものです。

ちなみに康熙帝が学んだ幾何学ですが「中国」「幾何学」のキーワードから連想される『幾何原本』は明末にイエズス会宣教師のマテオ=リッチ明の高級官僚・徐光啓が書いたものです。

雍正帝(在位1772-35年)

第五代皇帝・雍正帝

康熙帝はかつて8歳にして即位した苦い経験から生前に時期皇帝を指名しようとしたところ、皇太子が非行に走り非行仲間も仲間が時期皇帝という立場を理由に横暴なふるまいを行うようになりました。

最終的に反逆の噂まで立てられたため廃位することに。結局、康熙帝の代でも死の間際に指名されるに至りますが、この時に皇帝になったのは第四子の雍正帝です。

ノーマークの雍正帝でしたが、父親の仕事っぷりをうけついだようでマメに精力的に政務をこなす有能な人物でした。

13年の統治の間に清の基礎を確立し、国の最高機関として軍機処を設置。

軍機処とは?

1729年に創設された皇帝の最高諮問機関です。

当初はジュンガル平定の際に軍事の決定を迅速に行うため設けられた臨時の大本営の役割を持つ軍務機関でしたが、明の永楽帝が置いた皇帝政治の補佐機関・内閣大学士に代わる皇帝の諮問機関に代わることとなっています。

なお、内閣大学士から軍機処に変えた理由ですが...

  • 内閣大学士の定員が増えたこと
  • 仕組みが複雑になりすぎたこと

から少人数で迅速な決定を行える組織を作ろうとしたようです。

一方で、宗教には少々厳しくしています。イエズス会宣教師は布教を禁止し、国内で信仰されていた白蓮教などの民間宗教も厳しく弾圧しました。

対外的には青島やチベットの平定を行い、ロシアとは前皇帝が締結したネルチンスク条約でカバーできなくなった範囲の国境を定めるキャフタ条約を締結し中央アジアでの国境を定めています。これにより、改めて貿易が開かれるようになりました。

乾隆帝(在位1735-96年)

乾隆帝(カスティリオーネ画)

雍正帝はかつての自分の即位までの経緯から『生前に後継者の名前を書いて密封した書』をあらかじめ用意しておき、皇帝の崩御後に開封して次期皇帝が明かされる形の「密建」と呼ばれるルールを作っておきました。

実際に雍正帝が崩御し、封を開けて判明したのが雍正帝の四男にあたる乾隆帝です。

乾隆帝、清の最大版図を作り上げる

乾隆帝の治世下では康熙帝の時代からぶつかっていたジュンガル部、さらに回部(東トルキスタン)も平定し「新疆」として新たに藩部に加えることに成功、積極的な外征で最大版図を築き上げました。

チベットは手に入れた後ダライ=ラマに行政を委託しています。

祖父を尊敬していたそうで、学術を奨励。『四庫全書』は全国の書物を収集して一つの全集にするという3万6381冊にも及ぶ圧巻の一大全集を作り上げました。

一方で、北方異民族への批判と取れる書物を多数破壊した他「文字の獄」で反清思想を弾圧しています。

祖父の治世より長くならないよう生前退位し、その後即位させた息子の裏で権力を握り続けました。

ただし、乾隆帝の治世後半にもなると、これまでの無理な外征がたたって財政が圧迫されるようになります。

さらに、清国にとって大きな変化がもう一つ。

乾隆帝に謁見するマカートニー使節団(1793年)

イギリスが清との交易を求めて外交官マカートニーを派遣。インド産アヘンの持ち込みが始まるという不穏な空気が流れ始めることとなるのです。

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歴ブロ・歴ぴよ
歴ブロ・歴ぴよ
歴史好きが高じて日本史・世界史を社会人になってから勉強し始めました。基本的には、自分たちが理解しやすいようにまとめてあります。 日本史を主に歴ぴよが、世界史は歴ぶろが担当し2人体制で運営しています。史実を調べるだけじゃなく、漫画・ゲーム・小説も楽しんでます。 いつか歴史能力検定を受けたいな。 どうぞよろしくお願いします。
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