西アジア・インド

ムガル帝国の成立や全盛期、世界との関りについて解説【インド各国史】

歴ブロ

前回はムガル帝国を建国したバーブルについて書いていきましたが、いよいよインド史上最大を誇るムガル帝国です。

ムガル帝国がどんな国だったのか?イギリスとの関係は?気になる部分を解説していこうと思います。

スポンサーリンク

ムガル帝国の成立(1526年)

中央アジア、現ウズベキスタン辺り出身のバーブルティムール朝の分裂政権の君主の家系に生まれ、若くして父を亡くし跡を継いでいました。後継者争いなど数々の苦労をしながら成長していきます。

詳細は『バーブルの人物伝』で紹介しているので省きますが、紆余曲折を経てカーブルを本拠地として北インドへ南下。北インドに王朝を築いていたローディー朝を倒し、ムガル帝国を成立させ基礎を築き上げました。

基礎を築いた第3代皇帝、アクバル(在位1556~1605年)とは?

アクバル1世

アクバル1世(wikipedia)より

帝国の実質的な建国者と言われているのは、大帝とも呼ばれているアクバルです。ここでは、アクバルがどんな人物か、何をしたかを見ていきましょう。

れきぶろ
れきぶろ

アクバルはアラビア語で「偉大」を意味する言葉だそう。
名前負けしてないだけの功績を立てた皇帝で、現在のインドでも人気が高い人物です。

皇帝アクバルの即位までの経緯をみてみよう

アクバルは13歳で即位しますが、当時の政権は不安定な状態でした。

父フマーユーンの代で支配下にあったのは、デリー周辺とパンジャーブ地方のみ。祖父バーブルがムガル帝国を建国する際に本拠地としたカーブル含むアフガンの地は、3人の叔父たちが支配していたました。その上彼らは皇位も狙っています。

さらに北インドにある別の王朝の支配者からも狙われて国が一時断絶することもあり、アクバルの皇子時代にはサファヴィー朝の庇護を受けたり人質になったりすることもあるなど相当苦労しながら、父フマーユーンが無事帝国を再興させました。

ところが、その矢先にデリー城内の図書館の階段から転げ落ちてフマーユーンが急死。こうして13歳の若さでアクバルは皇帝に即位したのです。

ムガル帝国を統治する際にアクバルが行ったこととは?

補佐役に恵まれたこともあり、皇帝となった直後は不安定でしたが敵対勢力を討ったり異教徒のラージプート諸侯との和解により北インドを統一したり...と帝国の版図をデカンの一部を含む北インド全域にまで広げました。

版図が広がったこともあってデリーからアグラヘ遷都。

また、アクバルは成長すると摂政や親族の影響力を排除し、権力を自身の手で握るようになっています。

さらに、その他の内政面では

  • 州県制の採用
  • 中央集権的な官僚機構の整備(中央から管理を派遣)
  • 土地の測量と税制の確立
  • 官位に応じた騎兵・騎馬・給与を与えるマンサブダール制を開始

さらに宗教面では

  • ムスリムとヒンズー教の融和を図る
  • ジズヤ(非イスラーム教徒への人頭税)の廃止

などを行います。

北インドで勢力を温存していたヒンドゥー教徒のラージプートの娘との結婚も融和を図るきっかけにし、イスラム教徒以外にも役人に登用していきます。

ラージプートって?

ラージプートとは、5世紀頃に中央アジアからインド北西部(現在のラージャスターン州)を中心に移住しインド化した人々をルーツに持つと言われています。

サンスクリット語で「王子」を意味する言葉が訛ったもので、彼らはクシャトリヤ(政治や軍事に従事)と呼ばれる支配者階級のカースト出身者たちの子孫と自称しているようです。

※バラモン(司祭階級)の協力を得て、大昔の神々に通じる家系を作成していたケースもあったそう。

8〜12世紀にはこのラージプート族が君主になる小王国が乱立していましたが、後にイスラーム政権のデリー=スルタン朝の支配下に。北インドではそうした諸侯達が存続し続けていました。

ヒンドゥー教以外にも、アクバルはキリスト教の宣教師を招いて話を聞くなど宗教対策には特に積極的に取り組みました。

世界の諸宗教が集まっていたインドだったので、アクバルはそうした宗教の折衷を自ら試み、皇帝を首長とするディーネ=イラーヒー(神聖宗教)を創始しますが、うまく根付かず宗教対立解消の目的は果たせないままで終わってしまいました。

それでもアクバルのおよそ半世紀にも渡る治世は、ムガル帝国の支配体制を整えるのに十分なものとなったのでした。

最盛期【ジャハーン=ギール/シャー=ジャハーン】

ジャハーンギール

ジャハーン=ギール

アクバルの息子で第4代皇帝サリームは「世界を征服する者」の意味を持つジャハーン=ギールを自ら名乗っています。

「サリーム」の名は偶然にもオスマン帝国スレイマン1世の父『セリム』1世やスレイマン1世の息子『セリム』2世と同じことに気が付き『ジャハーンギール』を名乗るようになったそうです。

父の代と同様に宗教政策には寛容な治世を保ち、デカン高原方面への支配拡大を目指しました。結果、アクバルが攻略できなかったメーワール王国と講和し、半独立のような形で同盟を組んでいます。

また、アクバル時代で既にヨーロッパが大航海時代に突入。海外進出を積極的に行い始めておりイギリス東インド会社(後述)のムガル帝国内での活動を許可したのもこの頃です。

シャー=ジャハーン
シャー=ジャハーン

その次は後継者争いの末に第5代皇帝シャー=ジャハーン(『世界の皇帝』の意味)が統治しました。ジャハーン=ギールの三男で元の名をフッラムと言います。

彼は父帝や祖父帝と違い、他宗教への寛容さを持ち合わせておらずヒンドゥー教の寺院建築を禁止し、違反した場合は破壊することもありました。徐々に異教徒の不満が高まっていくようになりました。

外交面では、デカンへの遠征によりアフマドナガル王国を滅ぼし、他二つの王国に宗主権を認めさせて支配地域をさらに拡大させますが、中央アジア方面...サファヴィー朝への遠征は失敗し、アフガンの地を奪われています。

プラマイで言うと支配領域は増えたため財政も豊かになると、建築や芸術に注ぎ込み、ムガル帝国では父帝の代と合わせて文化が花開きました。

その反面、支配地域の増加と共にマンサブダールが増え、支出が増大。マンサブダールへの支給額は減少してしまいます。

マンサブダールとは...

インド,ムガル帝国などのムスリム王朝で臣下に与えられた称号。帝国官職保持者。ペルシア語で「役職 (マンサブ) の所有者 (ダール) 」の意。その称号を与えられた者はそれに付随する数だけの騎兵を準備する義務があったとされている。

コトバンク(マンサブダール)より

こうした一連の政策が、ムガル帝国を傾かせる一因となっていったのです。

第6代皇帝、アウラングゼーブ(1658−1707年)

アウラングゼーブ

アウラングゼーブ(wikipedia)より

シャー=ジャハーンの後を継いだのは、父帝を幽閉し、さらに王位継承争いも制したアウラングゼーブでした。彼は政党スンナ派の厳格な信者で不寛容な宗教政策を行うことになります。

アウラングゼーブは、同じイスラーム教のシーア派やヒンドゥー教を弾圧し、アクバルの時代に廃止されていた人頭税・ジズヤを復活させ、多くの異教徒からの反発を招きました。

治世後半にはデカン地方への遠征でビジャプール王国やゴールコンダ王国を滅ぼし、最大版図を築いた一方で、異教徒への圧力をかけた結果(イスラーム教徒はあくまで少数派のため)反発されてしまいます。

ヒンドゥー教を信仰するラージプート諸侯や北インドにいるシク教徒(ヒンドゥー教とイスラームを融合させた宗教)、デカン高原西北部のマラーター族(ヒンドゥー教徒)、さらに地方役人のナワーブなどからの反乱に悩まされ、彼らは独立していくことになります。

長年の戦争や宮廷の浪費、経済政策の失敗が重なって治世末期には崩壊が避けられないほどの状況になっていました。

アウラングゼーブは1707年に享年89歳で死去。晩年には統治の失敗と長生きしすぎたことを悔いていたようです。

ちなみに、アウラングゼーブの代で首都はデリーに戻されています。

その後の皇帝は凡庸なものが続いて立て直すことができないどころか、帝位継承争いや諸侯の離反・独立を止めることができずに衰退のスピードを早めてしまいました。

その後、イラン方面から…更に18世紀半ば頃からはイギリス・フランスからの圧力にも悩まされるようになりました。

イギリス東インド会社(1600年~)とムガル帝国の滅亡

イギリス東インド会社とは、1600年、時の女王エリザベス1世が経済政策の一つとして、インドや東南アジアとの貿易を目的に創設した会社です。

当初は香辛料貿易をメインに行っていましたが、次第にインドに行政組織まで構築し、インドを含みアジア各地の植民地経営にも手を出しはじめます。その過程で、東インド会社は単なる貿易会社ではなく、イギリス政府が会社を統制するようになっていきました。

イギリスは、ムガル帝国の衰退に伴って勢力を拡大。

混乱期でムガル帝国内の争いが続く中、領主たちに軍事支援や財政支援を行うことで徴税権を獲得。反対勢力に対しては軍事的に抑えたりと飴と鞭を交えながら、最終的にはインド全域にまで支配地域を広げていったのです。

勿論、これに反発するインド人は数多くいました。この反発がやがて大反乱シパーヒーの乱(1857年)を起こすことに繋がります。

なお、シパーヒーとはインド人傭兵のことで元々は東インド会社の持っていた独自の軍事力として雇われていた者たちを指しています。ここに地位を失った領主、地主、植民地化で生活が厳しくなった職人、農民なども加わって、かなり大規模な反乱となりました。あまりにも大きな規模のためインド大反乱とも呼ばれています。

ところが、内部分裂が起きたため、規模の大きさの割にあっさりとイギリスに降伏してしまいました。

この時に担ぎ上げられたのが反乱に乗り気でなかった老皇帝バハードゥル・シャー2世

1858年にインド大反乱の裁判が行われると有罪とされ、流刑に処されて廃位され、約500年続いたムガル帝国は完全に幕を閉じました。

一方の東インド会社には「統治能力がない」と本国に判断され解散に追い込まれ、1877年にはイギリス本国が直接統治に乗り出すとインド帝国の成立を宣言。ヴィクトリア女王が皇帝となり、新たな歴史を築いていったのです。

ABOUT ME
歴ブロ・歴ぴよ
歴ブロ・歴ぴよ
歴史好きが高じて日本史・世界史を社会人になってから勉強し始めました。基本的には、自分たちが理解しやすいようにまとめてあります。 日本史を主に歴ぴよが、世界史は歴ぶろが担当し2人体制で運営しています。史実を調べるだけじゃなく、漫画・ゲーム・小説も楽しんでます。 いつか歴史能力検定を受けたいな。 どうぞよろしくお願いします。
スポンサーリンク
記事URLをコピーしました