大政奉還とは?分かりやすく簡単に解説!<1867年10月14日>【幕末】
大政奉還とは、江戸幕府第15代将軍の徳川慶喜(在位1867年1月~1868年1月)が政権を朝廷へ返還した出来事を指しています。
慶喜による政権返上は、約260年続いた江戸幕府の滅亡といった意味だけでなく、約700年近く続いた武家政権が終わりを遂げたことを意味します。歴史の大きな転換となる出来事でした。
今回は、その大政奉還がどんなものなのか?時代背景や目的などを簡単にまとめていきます。
大政奉還前の情勢を見てみよう
嘉永6年(1863年)のペリー来航以降、日本国内では「天皇中心の国体に変えて異国を排除しよう」とする尊攘派と「今のままでは敵わないから異国から学ぼう」とする開国派に分かれていました。
開国派は西洋事情に詳しい上層部に多く、おのずと幕府は開国派に。
それを「弱腰だ」として尊攘派は倒幕と結びついて国内の治安が悪化。その尊攘派の中でも過激派代表が長州藩です。
幕府が過激派を押さえつけると、ますます倒幕に進む悪循環が生じます。尊攘派と幕府の溝が埋まらなくなっていきました。
やがて下関戦争を通じて列強の強さを知った長州藩は、武力を通じての攘夷を諦めます。それどころかイギリスと近づいて知識や技術を取り入れるようになったため、開国派の幕府と基本方針は同じはずだったのですが...
これまでの積み重ねで長州は完全に討幕派が長州の主導権を握り、完全に両者は対立関係に陥っていたのでした。
※この下関戦争で長州は責任を幕府のせいにして損害賠償責任を幕府のせいにしちゃっています
幕府は幕府で、徹底的に長州などの尊攘派を潰そうとする人たちもいる一方で「内戦なんてしている時期ではない」と考える人たちもいて一枚岩ではありません。
雄藩たちが倒幕へ
江戸時代が始まってから商品経済が著しく発展し、年貢を基本とした経済システムを基本としていた幕府も藩も様々な改革を行ってきたものの幕末にはかなりのジリ貧になっていました。
その中で財政改革に成功した代表格が薩摩・長州・土佐・肥前の薩長土肥と呼ばれる藩を中心とした雄藩です。
薩摩の思惑
雄藩の一つ薩摩藩は最初の頃は幕府寄りでしたが、時代の変化と共に幕府に見切りをつけ距離を取り、1866年には薩長同盟を結びました。
この裏には、元々公武合体という「幕府と朝廷が協力し合って政治を行おう」という思想を持っていた薩摩藩主・島津久光の思惑が通らなかったからとも言われています。
公武合体の思想は非常に耳あたりの良いものですが、実際のところ久光が考えていた公武合体とは「雄藩連合中心の公武合体」。「雄藩中心」を良しとしない徳川慶喜の妨害により、久光の考える朝廷改革・幕政改革は上手くいきませんでした。これにより薩摩も倒幕の方向に向かっていったそうです。
ただし、近年、薩長同盟の目的は倒幕ではなく「幕府が攻めてきても加勢しない」程度の約束を木戸孝允が独断で結んでいたものという説も出てきているので、定かではありません。
土佐藩の内情
当時の土佐で最も発言力を持っていたのは「酔えば勤王、覚めれば佐幕」と言われた山内豊信(容堂)。朝廷の政治参加を支持しつつも自身を藩主に押し上げてくれた幕府への恩義から、公武合体派の立ち位置についていました。
山内容堂は第14代将軍を決める際、立場的に一ツ橋派のグループに属していましたが、最終的に第14代将軍が徳川家茂に決まった影響から謹慎を余儀なくされています(謹慎後は養子の豊範が藩主となった)。
この容堂が謹慎中に土佐勤皇党が台頭。その名の通り「勤皇」を掲げ、尊王攘夷思想を持つグループです。坂本龍馬や中岡慎太郎らも加盟していました。
容堂の右腕で土佐藩の革新的改革を行ってきた吉田東洋が土佐勤皇党により暗殺(改革に伴う対立構造が生まれていた)され、藩政は土佐勤皇党の影響を大きく受けるようになります。
そんな中で謹慎を解かれた容堂は活動再開。土佐に帰国後、土佐勤皇党を壊滅状態にし藩政を掌握しました。容堂は吉田東洋の甥・後藤象二郎に藩政を任せ、殖産興業や科学教育振興等の国力増強に努めさせています。
※ちなみに坂本龍馬・中岡慎太郎は吉田東洋暗殺以前に脱藩しています
この後藤象二郎。時代の流れを読むのに長けており、自身のバックにいる容堂と対立していたはずの土佐勤皇党にいた坂本龍馬らとの交流も重ねていたようです。
大政奉還(1867年10月14日)
薩長同盟を結んだ薩摩・長州だけでなく、両者を仲立ちしたのが土佐から脱藩していた坂本龍馬でした。両藩の結びつきが成立するとなると幕府としてはちとツラい。さらに徳川慶喜最大の後ろ盾となっていた孝明天皇が1867年1月30日に崩御。慶喜が即位してからわずか20日後のことで、暗殺疑惑も根強い突然の死でした。
そんな中で元服前の満14歳で明治天皇が践祚。
践祚から間もなく、薩摩藩や一部の公卿たちを中心に朝廷への(武力も用いた)倒幕に向けた裏工作を強めました(幕府側も当然朝廷への工作は仕掛けていました)。
一方で、新たに将軍に即位した慶喜はフランスとの結びつきを強化。
※討幕派にイギリス、幕府にフランスがついたのは偶然ではなく、ヨーロッパ情勢が大きく関係しています
時代の変化と共に少しずつ幕府が追い詰められていく中、山内容堂は薩長への対抗するための妙案はないかと探り、藩命で長崎に行っていた後藤象二郎を京に呼び戻しました。後藤は坂本龍馬らとの話し合いの中で大政奉還の道筋を見出しはじめ、山内容堂にもその案に納得してもらい、大政奉還の建白書を書き上げました。
10月3日、山内容堂を仲介人として老中に『大政奉還の建白書』を提出すると、12日には幕府の老中以下の有志に、翌13日には在京の諸藩の重臣たちを集め大政奉還の決意を表明します。
そして、とうとう10月14日。京都二条城で大政奉還の上表を天皇に上奏したのです。
翌15日に、この上表は勅許され、江戸幕府は長い終わりを遂げたのでした。
大政奉還が行われた裏に隠された理由とは?
慶喜が大政奉還を行った同日、裏ではもう一つ大きな密勅が下されていました。
薩長や岩倉具視らが画策して薩長両藩に倒幕の密勅が下されていたのです。当然、幕府が政権を返上したことで密勅は意味をなさなくなります。薩長は慶喜にまんまと先手を越されてしまったのでした。内戦を危機一髪で避けることができたのです。
また、当時、政権を朝廷に返上したとしても倒幕に動いていたような諸藩士たちの中に天皇が作る政権に(政治的な能力を持っていたとしても)相応しい人材なんてほとんどいません。朝廷も700年近く政治から離れていたのに、(相応の位を持っていたとしても)全国を統治できるような人材が何人もいるわけがありません。
結局のところ、元将軍を引き入れなけらば政治を回せるわけがなく、政権を返上したとしても莫大な財産や領地、さらには人材も豊富な徳川家が政治の中心となるだろうと予測していたため大政奉還を行えたのです。
慶喜の予想通り、大政奉還は受け入れられたものの将軍職辞任の願い入れは勅許が下りず、政務を慶喜に委任する沙汰を出すことになりました。
平和裏に政権交代が行われたはずでしたが、結局、元幕臣たちが中心につくのは変わらなかったため、これを良く思わない勢力が色々と仕掛けることになるのですが、これはまた別の機会にまとめていこうと思います。