なぜ日本は幕末に開国してもアメリカの植民地にならなかったのか??
以前、16世紀の大航海時代になぜ日本は植民地にならなかったのかを書きましたが、今回は少し時代をさかのぼって幕末期の話になります。
上の記事の最後にも、
時が流れ、ペリーが武力を背景に開国を迫ります。
最終的に日本を植民地化しに来たのですが、日本はそれも回避することが出来ました。
と締めくくりましたが、この記事ではその辺を深く掘り下げていきたいと思います。
ペリーが浦賀に来航し開国を迫る
1853年に浦賀沖にペリー率いる黒船の艦隊が来航します。
表向きには日本を開国させ、日本を捕鯨船の補給基地として利用するためでした。また、蒸気船でアメリカから中国へ直行するための中継基地として日本を利用したかったようです。
しかし、アメリカは日本を植民地化しようと言う意図がありました。
それが、一連の不平等条約の締結だったようです。
ペリーは、
「開国を承知しなければ、我々は武力行使をする。日本も抵抗するなら抵抗してください、もし降伏するならこの白旗をあげるからこれを立ててね。」
と江戸幕府に開国を要求しました。
自国船の補給地を作り、最終的には不平等条約を結ばせることでした。不平等条約で、関税を勝手に決め、外国人が国内で犯罪を犯しても裁くことが出来ないと言った日本からしたら到底のめないような条件でした。
しかし、断ったら江戸の町を焼け野原にするぞと言った具合でした。
世界的に見ると先進国が途上国をこのように植民地にしたり不平等条約を押し付ける事は当たり前で、イギリスではアヘン戦争で清から領土を奪っていることから、小国である日本などいつ植民地にされてもおかしくない状況だったと言えます。
しかし、結果的に日本は大日本帝国と言う世界の列強国たちを肩を並べていく事になるのは、黒船来航当時は世界も日本も思ってはいなかったと思います。
西洋列強の植民地政策
ペリーの要求には、絶対服従か徹底抗戦の二つの選択肢がありました。
結果、日本は絶対服従を選びます。世は弱腰だの言うものもありましたが、この決断が歴史を大きく変えました。もし仮に徹底抗戦を選んでいたら日本はどうなっていたのでしょうか??
アヘン戦争はイギリスの横暴に悩まされた清が武力で抵抗した事で起きました。
イギリスは紅茶の茶葉を大量に輸入していたが、清に輸出する商品が無かったので膨大な貿易赤字が続いていました。そこで、イギリスはアヘンを清に密輸し始めたのです。
アヘンとはヘロインの原材料で人を廃人にするほどの中毒性が有ります。アヘンは飛ぶように売れ、清はアヘン中毒者で溢れかえり、イギリスの貿易赤字はみるみる解消していきました。
この事態を重く見た清は、アヘン商人を武力で排除しようとしたことで、イギリスは自国民の保護の観点で大艦隊を派遣。清の艦隊を打倒し、上海などの5港を開港させ、香港を分割させ巨額の賠償金を払わせたのです。
もし日本が徹底抗戦を選んでいたら、清のように圧倒的な軍事力を背景に侵略され、瞬く間に植民地化されていたかもしれなかったという事です。
この清の出来事を江戸幕府は把握しており、アメリカに逆らえば清の二の舞になってしまう事を危惧して、幕府は無駄な抵抗をせずに1854年に下田と函館を開港する日米和親条約。1858年には神奈川や長崎を開港し、貿易の自由化を認める日米通行通商条約を結んだのでした。
その後、明治政府が時間をかけて1911年には不平等条約を改正して、税自主権の完全回復 改正条約満期にともない、関税自主権回復に努めたのでした。
- 新日米通商航海条約調印
- 列国とも改正調印(条約改正の最終的決着を達成)
尊王攘夷運動と大政奉還
幕府がペリーの要求を受け入れた一方で、国内では外国人を排除し強い鎖国体制を作ろうとする攘夷論が持ち上がりました。攘夷派からすれば、幕府が開国しのたは受け入れられなく、外国人に媚を売るように見えたので、このままでは外国人に日本を乗っ取られると言う危機感が生まれました。
こうした感情から始まったのが尊王攘夷論で、天皇中心の国家を作ろうと倒幕を計画するようになります。その中心の人たちが幕末期の薩摩・長州藩の志士で、武力による倒幕運動が激化していくことになります。
しかし、倒幕達成なるかと言う所で坂本龍馬から持ち出されたのが、幕府に自発的に政権を天皇に返還する大政奉還が行われることに…
なぜ、こんなこと事をしのたのかと言うと内乱を避けるためだと言われています。
力ずくで倒幕が達成されても、親幕府派が居なくなるわけではなく、300藩が入り交じる国内の大内戦になる恐れがありました。
この内乱こそが西洋列強(アメリカ)が待ち望んでいた事だったのです。
西洋列強国の植民地化には最初から武力行使は行いません。手始めに開国を迫り国内を混乱させ、内戦に乗じて侵略をするのが常套手段でした。
幕府自らが政権を返上すれば親幕府派もそれに従うはずで、この大政奉還は倒幕後の内戦を防ぐための政治工作だった事がわかります。幕府側も、勝てる見込みのない戦をするよりも穏便に政権を明け渡した方が良いと判断し、大政奉還を決意しました。
実際に大政奉還後に旧幕府軍による戊辰戦争などの内戦がおこりましたが、半年ほどで終結し新政府の体制を揺るがすほどの事態にはなりませんでした。
西洋列強の作戦に付け入るスキを与えずに、幕藩体制から新体制へと移行する明治維新を成し遂げた事こそが、日本が植民地化されなかった理由と言われています。
西洋列強を肌で感じた薩長が維新の原動力に…
明治維新の立役者として中心的役割を果たした薩摩・長州藩は、西洋列強と直接戦ったと言う共通点があります。
1862年に薩摩藩の大名行列にイギリス人が割り込んだ事で、武士に討ち取られる【生麦事件】が発生。翌年には、イギリス艦隊が鹿児島湾に現れ、薩英戦争が勃発しました。鹿児島の街が大火に包まれた一方で、イギリス艦隊一隻が大破するなど両国痛み分けの結果に終わりました。
1863年には長州藩が外国船を打ち払うと言う名目で下関海峡を巡行していた外国船商船を次々と撃破。その後、仏・蘭・米・英の連合艦隊に反撃されて、軍艦と下関の砲台をことごとく破壊されると言う敗北を喫しました。
薩長は経験から、西洋の力がいかに強大かを肌で感じていおり、こうした西洋に対するリアルな危機感が明治維新の原動力となったと考えられます。