フィレンツェの名門メディチ家を詳しく見てみよう【イタリア史】
今回の主役は一商人からフィレンツェの実質的な支配者となり、最終的にはトスカーナ大公国の君主という類稀なる大出世を果たした一族・メディチ家です。
ルネサンス最大の庇護者でもあり、現在のフィレンツェにある美術館の展示品の多くがメディチ家の所有していたコレクションだったとも言われています。
以前、メディチ家について語ったのは
教会が権威失墜を取り戻そうと無茶な弾圧をしている最中に、教皇がメディチ家出身のレオ10世が教皇となって自身の贅沢のために贖宥状(しょくゆうじょう)を乱発。ルターの宗教改革へ繋がった
という、あまり名誉じゃない内容の記事でした。
一商人がローマ教皇という事実からも分かるように、中世イタリアでのメディチ家は非常に大きな力を持っています。勿論、その本拠地であるフィレンツェでの影響力は計り知れません。
ここでは、どういった形で影響力を持つよういなったのかを少し触れていきます。
メディチ家の起源
「メディチ」とはイタリア語で「医師(複数系)」を示す言葉で、13世紀にフィレンツェで薬屋として財産を築いたとされています。
ただし、アルテの一つ医師・薬種商組合(格が高い大アルテとされる)にメディチ家が加盟していた記録はないため実際には何をして成り上がっていたのか?までは確実には分かっていません。一説では元農民という話も出ています。
そこから14世紀に入り、ジョバンニ・ディ・ビッチ・デ・メディチが銀行業を開始、1420年までにローマ、ナポリ、ガエータ、ヴェネツィアなどに支店を作って事業を拡大させていきました。
この銀行業の顧客はフランス国王、神聖ローマ帝国の諸侯達という錚々たる顔ぶればかり。そして大半の収益はローマ教皇庁だったと言われています。
ジョバンニの息子コジモは1434年の45歳の頃にはフィレンツェの実質的な支配を確立。自派の権力が安定した後も官職に付かず、市民に気に入られるように公共事業に私財を投じ、彼の孫・ロレンツォの時代と共にメディチ家で最も繁栄した時代を築きあげました。
同時に私財を投じ過ぎたことがたたってメディチ銀行の経営は巨額の赤字を出してしまっています。
メディチ家とルネサンスの関わりは?
上で紹介したジョバンニ・コジモ・ロレンツォらは芸術家達へ惜しみなく資金を提供した、いわゆるパトロンと呼ばれる存在でした。
なぜメディチ家が芸術や文化を保護するパトロンになったのか?ですが、メディチ家の人間が「キリスト教徒」であり生業を「銀行業」としたことに理由があります。
当時のキリスト教は金儲けを良しとしない教義を持っており、その贖罪のために宗教画の発注や礼拝堂、教会を建てたと言われていますが、当然それだけではなく政治的・経済的な思惑も大きかったようです。
メディチ銀行の最も大きな顧客はローマ教皇庁。収益の半分以上がローマ教皇庁でしたから、個人的に「金儲けに対する贖罪」はローマ教皇庁に対するアピールという一面が大きかったのでは?と思っています。
また、メディチ家は成り上がりのため貴族からはあまり良い目で見られておらず権威づけをする必要がありました。さらに公共事業の一環として礼拝堂や教会を建てることで市民からの人気も得ることができる3つも4つも旨みのある方針だったのではないでしょうか。
当時はペストの恐怖も大きく何かに縋りたい人が多かったことも背景に見え隠れしており、実際にメディチ家は名声を高めてフィレンツェの市政にも関与するようになっています。
反メディチ家の台頭
ジョバンニが銀行業でメディチ家を盛り立て、息子のコジモはフィレンツェでの支配権力を確立。コジモの孫ロレンツォの代でも原則的に共和政を国是としていたフィレンツェにも関わらず実際には市政のトップに立っており、政権は世襲制ではなかったもののメディチ家はフィレンツェでの権力を確実に高めていきました。
政治面でいえばロレンツォの能力はかなり評価されていたようで各国の利害を調整する存在だったそうです。
1492年にはロレンツォの次男ジョバンニが父と当時の教皇の後押しで16歳の若さで枢機卿となり(この次男が後にレオ10世としてローマ教皇になります)、イタリアでのメディチ家の権勢はこれでもかというほどになっていたのですが…
同年にロレンツォが亡くなると、フィレンツェでは反メディチ家を掲げる「共和政のはずなのに今の状態はおかしい!」という派閥が発言権を増すようになっていきました。
イタリア戦争の勃発
反体制勢力が力を増すようになってから2年後の1494年。フランス王シャルル8世によりフィレンツェが攻撃されイタリア戦争が始まると、さらに状況は変わります。
戦争以前の段階でナポリ王国はイベリア半島にあるアラゴン王に征服されましたが、それ以前の段階でフランス王家の傍流が統治していた経緯があったため、アラゴン系統の王が亡くなったのを機に王位継承を主張してフランスがイタリアへ侵攻してきたのです。
その後、別の国王ルイ12世に代替わりするとミラノ公国の継承権も主張して介入...と北イタリアは泥沼化していきました。
フランスはその豊かな経済力を持つ都市国家を支配下に置こうとしたのです。
イタリア戦争でメディチ家が亡命する
メディチ家は...というと最盛期を築いたロレンツォが亡くなって20歳の若さで長男のピエロが家督を相続したけど難局を乗り切るだけの経験も人望も足りませんでした。
ピエロはフランス軍によるナポリ王国への侵攻を黙認し抗戦せずに入城を許し、市民の怒りを買うとメディチ家はフィレンツェを追放されます。また、父の代から怪しかったメディチ銀行も追放と共に破綻へと追い込まれました。
亡命生活を送ったメディチ家。ピエロはアラゴン系イタリア人の傭兵隊長の軍と共に行動している中で戦闘に巻き込まれ逃走中に溺死。その跡を継いでメディチ家の当主となったのは枢機卿となった弟ジョヴァンニです。
イタリア各地を転々とし、最後はローマに落ち着いています。
フィレンツェへの帰還と復権
やがてジョヴァンニはハプスブルク家を味方につけ、1512年にはスペイン軍と共にフィレンツェへ帰還。翌1513年にジョヴァンニは卓越した政治的手腕でレオ10世としてローマ教皇になり、その10年後にはレオ10世の従兄弟のジュリオ枢機卿が教皇クレメンス7世として即位すると、フィレンツェでの権力も回復させていきました。
例の不名誉な記事を引き起こした張本人で、贖宥状を乱発してルネサンス全盛期を支えマルティン・ルターによる宗教改革の原因を作った人物
離婚問題でヘンリー8世とそれを認めた関係者を破門にさせたことで有名。
二度目の追放と復権
メディチ家が順調に復権していくかと思っていたのですが、クレメンス7世がイタリア戦争・宗教改革という政情不安の中でメディチ家の権益を守ることに終始し、情勢の変化と共にフランスへ接近し同盟を締結したことで状況は一変します。
フランスとの同盟にハプスブルク家をトップとする神聖ローマ帝国の怒りを買いました。この時の皇帝はカール5世。彼がまた強すぎた。報復を受けてローマ劫掠(略奪)を招いた上にフィレンツェから追放され、フランスもイタリア攻略は諦めて撤退することになります。
フィレンツェは共和政なのに何度も専制政治のようなことをされては堪りません。メディチ家が追放されている間に前回のように復権されないよう防衛体制を整えました。
が、時はメディチ家に味方したのでしょうか。
ルター(←神聖ローマ帝国出身)から始まった宗教改革のいきすぎ・やりすぎな行動のせいで神聖ローマ帝国の皇帝としてカール5世は対応しなければならず、ローマ教皇の立場にあったクレメンス7世と和解。
メディチ家は皇帝の後ろ盾で軍を動かすことができ、フィレンツェを包囲・降伏させた上で統治者に返り咲きました。
ただし、フィレンツェにはスペイン軍が置かれ、クレメンス7世含むメディチ家もカール5世に従属せざるを得ない状況になっています。
メディチ家が正式な君主となる!
以上のような経緯から教皇クレメンス7世はカール5世に戴冠を決定。1530年には名実ともに正式な皇帝となっています。
その皇帝から1532年、クレメンス7世の息子アレッサンドロがいよいよ「フィレンツェ公」に徐爵されてフィレンツェは君主制のような貴族による寡頭政治のような体制の統治が行われるように。
当初は穏やかな政治を行っていますが、アレッサンドロは父が亡くなると専制政治に走り有力者達を追放しました。彼はカール5世の庶子の娘と結婚してフィレンツェの自立が危ぶまれはじめた頃、理由は分かりませんが1537年悪友に暗殺されています。
その後、協議により後継者となったのがメディチ家傍流の傭兵隊長の息子コジモ1世です。
これに反対したのが前フィレンツェ公のアレッサンドロが追い出した貴族達。フランス国王フランソワ1世の支援を得て復権をかけた戦いを行いますがコジモ1世はこれを撃退。反対勢力を潰し、権力を強化していったコジモ1世はスペインからの影響力を削いでいきました。
やがてコジモ1世はイタリア中部の覇権をめぐって1555年にシエーナ共和国と争い勝利し併合、その後、息子と神聖ローマ皇帝フェルディナント1世の娘ヨハンナと結婚させて更に結びつきを強め足元固めをしていきます。
※カール5世は転戦の無理がたたって体調を崩し、1556年に弟のフェルディナントに神聖ローマ皇帝を譲った
そして、とうとうコジモ1世はスペインに貸していた債権(戦争も挟んだとはいえイタリア北部の経済力はやっぱりすごかった!!)と引き換えに大公位を得ることに成功。以後、フィレンツェはトスカーナ大公国として成立し、コジモの子孫達が代々ついでいきました。
子孫達の中にはフランス王室へ嫁いだマリア=デ=メディチ(仏語だとマリー・ド・メディシス)も。
彼女はブルボン朝のルイ13世を産んだほか、スペイン王フェリペ4世妃やイングランド王チャールズ1世妃となる娘たちも生んでおり、ヨーロッパの王家に血脈が継承されていったのです。
大航海時代へ
やがて大航海時代が始まると、地中海貿易で利益を出していたイタリアの地理的な優位性がスペインやポルトガルに奪われてしまいました。さらにローマ教会の本拠地だったこともイタリアの価値を高めていましたが、宗教改革が本格的になってプロテスタントが増えたことでヨーロッパでの地位は低下。
トスカーナ大公国もイタリアの一小国となり、17世紀初めのレオ11世の即位以後メディチ家の人間が教皇の座につくことはなくなりました。
そして1737年。第7代トスカーナ大公ジャン・ガストーネが子を持たないまま死亡。トスカーナ大公国は欧州列国の協議のみで後の神聖ローマ皇帝フランツ1世(妻はマリア・テレジア)のものとなり、断絶したのでした。