徳川家康を支えた家臣団・徳川十六神将を簡単に予習しよう!!
徳川家の家臣団の中には、徳川十六神将と呼ばれる三河の一大名の頃から仕え、家康の天下統一に力を尽くした家臣達が居ました。
彼らは、特に群雄割拠した戦国時代を武勇で名をはせ、黎明期の徳川江家康を力強く支えました。
その16人の家臣達の中から特に高名な4人を徳川四天王と呼んでいます。
今回の記事では、三河時代から徳川家康を支え江戸幕府設立に大きな功績を残した、徳川十六神将達を紹介していきます。
徳川四天王と徳川十六神将
- 酒井忠次(さかいただつぐ)
- 本多忠勝(ほんだただかつ)
- 榊原康政(さかきばらやすまさ)
- 井伊直政(いいなおまさ)
- 大久保忠世(おおくぼただよ)
- 大久保忠佐(おおくぼただすけ)
- 高木清秀(たかぎきよひで)
- 鳥居元忠(とりいもとただ)
- 鳥居忠広(とりいただひろ)
- 内藤正成(ないとうまさなり)
- 蜂屋貞次(はちやさだつぐ)
- 服部正成(はっとりまさしげ)
- 平岩親吉(ひらいわちかよし)
- 松平康忠(まつだいらやすただ)
- 米津常春(よねづつねはる)
- 渡辺守綱(わたなべもりつな)
徳川四天王と他12名を合わせて十六神将と呼ばれていますが、その理由は定かではありません。江戸時代の東照宮信仰における人気人物として、上記の16人が絵画や錦絵に書かれていることから十六神将と呼ばれるようになったと言われています。
16人と言うのも、仏教で用いられる【十六羅漢】や【十六善神】に関係していると考えられています。徳川家康を権現とし、その仏の守護神である四天王を徳川四天王、それに十二神将を加え【徳川十六神将】とした説があります。
いずれにせよ彼ら16名のほとんどが三河時代の黎明期から徳川家康に仕え、武勇で名をはせる武将たちで、江戸幕府開設に際して尽力した家臣達でした。
では、少し長いですが、徳川十六神将の簡単な概要を書いていきます。
徳川四天王
まずは徳川四天王と呼ばれる酒井忠次/本多忠勝/榊原康政/井伊直政の紹介から。
酒井忠次
1527年に酒井忠親の次男として生まれ、1565年に吉田城主となり家康行く所に必ず白字に主丸の旗印で戦では先方大将として武勇を轟かせました。
1575年の長篠の戦いでは、鳶巣山の奇襲を信長に進言して武田軍の退路を断ち、織田・徳川連合の勝利を確実なものとしました。1588年に家督を家次に譲った後、1596年に70歳でその生涯を閉じました。
本田忠勝
本多忠高の嫡子として1548年に生まれました。
初陣は、1560年の桶狭間の戦いで、忠勝13の時でした。以降、常に家康の旗本に合って軍功を上げて、【家康に過ぎたるものが2つあり鹿の頭に本多平八】と言わしめた。槍術が得意で蜻蛉切りの槍は有名です。
生涯、50度以上の戦で一度も負傷した事がないと言う伝説もあります。
1590年の関東移封では、上総大多喜城主10万石を与えられ、1610年に桑名にて63歳で没しました。
榊原 康政
1548年に上野城で生まれ、13歳より家康の近習として仕えました。
三河の一向一揆が初陣で、三河・遠江の平定戦より小牧・長久手の戦いに至るまで、軍団指揮の武将として大いに活躍しました。小牧・長久手の戦いで秀吉と対立した時に、秀吉の悪逆を非難した檄文を触れ回し、激怒をかったが、その後秀吉は、康政の家康への忠節をほめたたえたという。
関東移封後は上州舘林10万石を与えられ、1606年に59歳で死去しました。
井伊直政
1561年に遠州井伊谷に生まれました。
直政は家康の下で徐々に頭角を見せ始め、武田勝頼との遠江芝原の陣で初陣を飾ります。武田氏滅亡後は武田氏重臣・山県昌景の【赤備え】を譲り受けました。その赤備えの軍団は高遠城への出陣を手始めに、天正12年の小牧長久手戦、 同年の蟹江城攻め、信濃上田城の真田攻め、関ヶ原の合戦などで武功をあげています。
1590年の関東移封の際には上野箕輪12万石を与えられますが、1602年に42歳の若さで死没。
徳川12神将
続いて紹介するのは徳川12神将です。
松平 康忠
松平政忠の長男として1546年に長沢城内に生まれ、家康とは従兄弟関係にあたります。
三河・遠州攻略に軍功を挙げ、長篠の合戦には酒井忠次と鳶巣山奇襲に手柄をたてました。1578年より家康の嫡男・信康の家老として仕えますが、信康自刃後は再び家康に仕えました。1590年に嫡子・康直が武蔵深谷1万石を与えられています。
1618年に73歳で没し、当時としては長命でした。
平岩 親吉
1542年に生まれ、6歳の時より熱田・駿府での家康の人質生活に従い、長じて家康の三河平定後には、徳川信康の後見役も務めました。信康事件では、最も深い衝撃を受けたと言われています。
1582年には甲斐国郡代となり、1590年に関東で上野国厩橋3万3千石を領しました。その後は、尾張義直の伝役として犬山城主となり、名古屋城築城に励み1611年に71歳で没すが後継ぎに恵まれず、以降お家が断絶しました。
大久保 忠世
大久保忠員の長男として1532年に生まれる。若いころから徳川家に仕え、1563年の一向一揆には一族を終結して家康を助け、1572年の三方ヶ原敗戦時には犀ヶ淵に武田軍を夜襲して敵の心胆を奪ったことなどが有名です。
関東移封では、小田原4万石を領し、1594年に63歳で死去します。江戸幕府で子孫は、小田原藩7万7千石の大名でした。
大久保 忠佐
大久保忠員の次男で兄弟そろって家康に仕え、15歳の初陣以来、その戦功は数を知らず、特に1575年の長篠の戦いの、めざましい戦いぶりが織田信長の目にとまり、【長篠の髯】とほめそやされました。
その豪勇ぶりは、【白刃矢石の間を馳走して、着するところの武具しばしば斬破らるるといえども、遂に創を被らず】と称され、関ヶ原の合戦後に駿河沼津2万石を領した。 1613年9月77歳で没し、子・忠兼に継がれますがその後は後継ぎがなく、お家断絶となります。
鳥居元忠
1539年に渡城主・鳥居忠吉の子として生まれます。
今川家の人質となった家康に小姓で初めて仕え、姉川・三方原・長篠の戦いなどに戦功をあげ、家康の信頼も厚かった。本能寺の変後は、甲斐を転戦し北条軍を破り、郡代となる。
家康の関東移動後は、下総矢作4万石城主となるが、関ヶ原の合戦では伏見城の留守を預かり、石田三成の猛攻を10日間にわたって食いとめ、800余人の城兵と城を枕に壮絶な戦死を遂げました。
渡辺守綱
豪勇の士で、1562年に赤坂の戦いで、味方に利なく敗戦は必至であったが、守綱1人取って返し戦うこと10度、 功名の槍3度あげ、遂に味方を勝利に導いて【槍の半蔵守綱】と呼ばれるようになりました。
一向一揆では家康と争うこととなりますが終結後は再び家康の家臣となり、足軽100人の大将として活躍。慶長15年、寺部に陣屋をおき1万5千石を領したのでした。
内藤 正成
徳川家臣内でも屈指の強弓で知られ、一向一揆ではその弓によって一揆の隊長を敗走させました。牛窪合戦では 敵騎の鞍を射抜き、勇名を馳せた。また、6本の矢で6人を射倒したり、1矢で2人の敵を貫いたという武勇伝も数多くあります。
関東に移ってからは、武蔵埼玉郡で五千石を所領しますが76歳で病没しました。
高木 清秀
刈谷城主水野氏に仕えていたが、織田氏に属しその後家康の家臣となりました。
姉川・長篠の合戦など常に一番槍の武勇を挙げ世に知られています。参戦参謀としても優れており、家康の関東移封後、武蔵・相模国の5千石を与えられ、1610年86歳で没しています。子孫は河内国丹南藩1万1千石。
服部 正成
徳川家康とほぼ同い年の正成は、1569年の掛川城攻めや高天神攻めに歴戦し、三方原合戦には伊賀者150人を引き連れ活躍しました。
おそらく大河ドラマでも描写があるであろう、1582年の伊賀越えの危機には、伊賀忍者を率いて案内役を務め、家康の危機を救った話は有名である。
関東移封により、与力30騎、同心200人が与えられ、8000石の旗本として江戸城半蔵門の守備に命じられました。今も皇居の半蔵門でその名が残っています。
鳥居 忠広
鳥居元忠の弟と言われていますが、ハッキリした事がわかりません。忠広は兄と共に家康に仕え、軍監として戦場に臨むごとに軍功をあげた武将です。
三方原の戦いでは武田方の武将・土屋右衛門直村の冑を砕いて落馬させますが、自らも討たれ法蔵寺に葬られました。
米津 常春
家康の父・広忠の時より仕え、1549年の安城城攻めをはじめとして、桶狭間、一向一揆戦に功名をあげています。
常春の名は、家康の三河攻略に槍を使っての奮戦ぶりが伝えられているが、以後記録の上から全く姿を消している。他の家臣達より長生きで、1612年に89歳まで生きました。その後の米津家は、常春の弟政信が継ぎ、子孫は出羽国村山郡長瀞藩1万2千石を領しました。
蜂屋 貞次
桶狭間の合戦には、家康の丸根城攻めに従軍します。
西三河の平定に数々の軍功をたてますが、1563年の一向一揆には、家康に反旗を翻し、針崎の勝鬘寺に立てこもり、家康軍を悩ませた。一揆終結後、帰順を許され、東三河の平定戦に活躍。1564年に吉田城攻めに先陣をつとめ奮戦し、26歳の若さで討死します。
どうして徳川家康の周りに有能な家臣達が集まったのか??
家康が松平氏の当主となった頃は、弱小で今川氏に臣従せざる得なかったほど苦境に立たされていました。当然、お家を存続するには、有能な家臣を登用しなければ、滅亡を待つしかなかったのです。
この頃に登用された家臣たちが、家康を支えていくことになるのですが、もし松平氏が三河の有力大名であったならば、これほどの逸材が集まらなかったと言われています。
四天王や十六神将の由来はハッキリしませんが、江戸時代になって四天王に仏教の守護神である十二神将の数を足して十六神将となったのは間違いないようです。
という事は、十六神将と言うより四天王+十二神将と呼んだ方が自然かもしれません。
徳川家には、上記に挙げた16人以外に有能な人材がいなかったわけではありません。
十六神将は、武功派の家臣達が多いが、徳川家を支えた吏僚派家臣の存在も忘れてはいけません。三河を統一したばかりの家康は、高力清長・本多重次・天野康景の3人に民政・訴訟を任せていました。
この3人は【仏高力、鬼作左、どちへんなしの天野三兵】と謡われており、優しい高力清長、厳しい本多重次、公平な天野康景という三者三様の性格で三河一国の統治をおこなっていました。
また、途中で出奔するが三河時代の家老・石川数正や参謀と言えば本多正信の重臣も十六神将には選ばれていませんが、なくてはならない人物です。そんな彼らが選ばれなかったのは、おそらく出奔や子孫が失脚した事で後世の評価が悪かったのが理由ではないかと思われています。