鎌倉時代

足利尊氏(高氏)による六波羅探題攻略

歴ブロ

鎌倉幕府の滅亡のきっかけとなったのが、後醍醐天皇による倒幕計画でした。

天皇の臣下に過ぎない、幕府のさらに臣下の執権が政治実権を握るっていることを良しとしていなかった後醍醐天皇は、天皇による親政を目指して度々政治改革を行い、そのたび幕府の妨害に合っていました。

最初の倒幕計画【正中の変】では六波羅探題に計画が漏れ失敗に終わりましたが、その罪は不問とされました。しかし、再び起こした【元弘の乱】では、廃位後に隠岐へ島流しになりました。

しかし、倒幕の情熱が消えていなかった後醍醐天皇は、わずか一年後に護良親王や楠木正成の倒幕運動に呼応し、隠岐から脱出し西国の御家人に呼びかけ倒幕の為に兵を集めます。

天皇の呼びかけに多くの御家人が集まり、西の朝廷軍と東の幕府軍の対立構造が出来上がりました。この朝廷軍を討伐するために鎌倉より派遣されたのが足利高氏(尊氏)です。

しかし、朝廷軍と対峙した足利高氏は突如反旗を翻し、京都へと兵を進めるのでした。足利尊氏が反旗を翻した衝撃の出来事は京都の六波羅探題を絶望させます。京都にいた幕府軍は鎌倉に落ち延びようと目指しますが、その道中で壮絶な最期を遂げることになるのです。

そこで今回は足利高氏(尊氏)の六波羅探題攻略について書いていきたいと思います。

れきぴよ
れきぴよ

この頃は【高氏】と名乗っていましたが、尊氏の方がわかりやすいのでこちらに統一します。

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足利尊氏の謀反理由

尊氏が倒幕を決意した理由としては、父の法要を満足にできぬまま出兵させられたことが理由と言われています。

元弘の乱の中の笠置山の戦いにも出陣していた足利尊氏は父・貞氏が死亡直後の時期で、喪に服していました。出兵に難色を示していた高氏でしたが、幕府側がその事情を無視して出兵命令を出した事で尊氏にわだかまりが生まれます。

また、足利氏は1250年の閑院代理造営や1275年の六条八幡宮造営などで多額の費用を負担させられており、北条氏による足利氏への経済的要求は他の御家人と比較して突出していました。

こうした理由により2回目の上洛道中には幕府を見限る決意をしていたと言います。

鎌倉より派遣された足利尊氏と名越高家が六波羅探題の頼みの綱とされていたのですが、名越高家は討ち死にし、尊氏は鎌倉幕府に反旗を翻しました。

以上のような経緯で六波羅探題は滅亡に向かっていくのです。

足利尊氏の六波羅探題攻略

1333年6月12日「足利尊氏の行動がおかしい」と言う情報を受け取った六波羅探題は、もしもの時のために光厳天皇と後伏見上皇、花園上皇を六波羅へ避難させます。

六波羅がやられるようなことがあったら「鎌倉へ天皇・上皇を連れて都を移そう」と考えていたようです。ところが、すでに京の西と南は足利尊氏に包囲されたうえに北からも反幕府軍が迫ってきます。幕府軍の逃げ道はすでに東しか残されていませんでしたが、それでも六波羅側は抵抗するために堀や櫓、築地などで防御を固めます。

そして、とうとう近隣の武士を従えた尊氏が丹波国篠村八幡宮に到着。八幡大菩薩は源氏とかかわりの深い神様のため必勝祈願し一本の鏑矢を収めまると、これを見た軍勢は尊氏のマネをして続々と矢を収め、最後には矢が重なって塚のようになったと言われています。

さて。京に付いた尊氏は以前大内裏があった付近に陣を張ると、軍を二つに分けて一つを南の東寺に向けました。大内裏の戦いは始まってすぐには矢合戦が行われていましたが、朝廷軍の設楽五郎左衛門が一騎打ちの声を上げると、幕府軍から一騎当千武士だと矢打ちを辞め見物を始めました。

これに対抗したのが斎藤伊代房玄基でした。一騎打ちは一向に決着が着かず、勝敗は両者相打ち。勝負がついたのを皮切りに戦いが激しくなってきます。

両軍ともに奮戦してどちらが勝ってもおかしくない状況でしたが、最終的に勝敗を決めたのは数に勝ってた尊氏軍で幕府軍は押し負けて六波羅へ退却するのでした。

一方南側では赤松則村の軍勢が激戦を繰り広げていたのですが、こちらは朝廷軍が勝利します。その勢いで、朝廷軍は六波羅を囲みこみます。

この時、尊氏はわざと東側を開けておきました。逃げ道をふさいでしまうと、決死の覚悟で守りに徹するのでたやすく攻め落とすことが出来ないと考えての戦略だったようです。

この作戦が上手くいき、朝廷軍に囲まれて精神共に限界を迎えつつあった幕府軍は、闇夜に紛れて我先にと東へと逃げていきました。

六波羅探題の滅亡

この時、六波羅探題を任されていた北条仲時と時益は、ここまで軍勢が減ってしまっては守り切れないとし、天皇・上皇をつれて東へ落ち延びていくのでした。

こうして、六波羅軍は東へ落ち延びていくのですが、山科へ行く途中で北条時益が矢にあたり死亡。しかし、夜襲の暗闇で迎え撃つことのできずにそのまま東へと兵を進めました。

残った北条仲時は、天皇・上皇らとさらに東へと目指します。

道中、盗賊などの襲撃もありながらも、滋賀県の篠原あたりまでたどり着きます。

すでにこの時、六波羅が陥落したと言う噂は知れ渡っており、道中盗賊や物ハギなどの襲撃が多くなっていました。こうして一行は、滋賀県と岐阜県の県境あたりまで到着すると、大軍の盗賊たちが待ち構えていました。

大勢の軍勢に愕然とした一行は、殿(しんがり)の到着を待ち進むべきか鎌倉の援軍を待つかを決めることにしました。しかし、その武将は、すでに北条仲時が討ち死にしたと言う噂を信じてしまい、足利軍に降伏をしていました。

待っても一向に現れない後方部隊に、進んでも引き返しても生きて帰ることが出来ないと悟り、仲時は付いてきた者たちにこう言いました。

北条氏の命運が尽きてしまってもよくここまで付いてきてくれた。

私は今、どうすればお前たちに報いることが出来るか考えた。

これから私は、自刃するからこの首を持って足利へと渡すのだ!!そうすれば、北条仲時を討ち取った者として、多くの所領を与えられるだろう。

こうして、北条仲時は自刃したのでした。

これを見た家臣の糟屋宗秋が「あの世でも仲時様の先払いをすべきだった」として自刃。糟屋の自刃を皮切りに、ここまで付き従っていた432名が同時の腹を切るのでした。

こうして六波羅探題の滅亡し、千早城を攻めていた軍勢は退却します。中には逃げ延びたものもいたようですが、追っ手に捕まり討ち取られているようです。

京都での幕府の拠点を失った鎌倉幕府。これだけでは終わりませんでした。

なんと六波羅探題滅亡のわずか数日で鎌倉の街が新田義貞の軍勢に攻められてしまうのです。

六波羅探題の設置と滅亡をしっかりと

後鳥羽上皇

六波羅探題の設置目的や崩壊の流れを知るのは歴史を学ぶ上では必要ですが、二人の天皇(上皇)がとても紛らわしいので注意しましょう。

後鳥羽上皇は、倒幕と言うより鎌倉幕府の執権・北条義時に討伐の兵を上げたに対して、後醍醐天皇は幕府自体を倒そうと行動していました。どちらも、隠岐島へ流されているので混同しやすいのです。

  • 後鳥羽上皇:承久の乱 ⇒ 六波羅探題設置
  • 後醍醐天皇:正中の変・元弘の乱 ⇒ 六波羅探題滅亡 ⇒ 建武親政
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歴ブロ・歴ぴよ
歴ブロ・歴ぴよ
歴史好きが高じて日本史・世界史を社会人になってから勉強し始めました。基本的には、自分たちが理解しやすいようにまとめてあります。 日本史を主に歴ぴよが、世界史は歴ぶろが担当し2人体制で運営しています。史実を調べるだけじゃなく、漫画・ゲーム・小説も楽しんでます。 いつか歴史能力検定を受けたいな。 どうぞよろしくお願いします。
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