比企氏と将軍家の関係とわかりやす比企能員の乱(変)
比企能員は鎌倉幕府の御家人の一人で、本拠地は武蔵国比企郡を拠点として下野と武蔵の国司だった藤原秀郷の末裔と称しています。
1159年に源頼朝が伊豆へ流刑になった際、能員の養父・比企掃部允が妻・比企の尼と共に京都から比企郡に入りました。源頼朝が生まれた際に比企の尼が乳母を務めた縁で、自分たちの領地から得た収入の一部を約20年間頼朝に仕送りをしたとあります。
比企の尼とその子供たち
上記の家系図のように比企の尼には3人の娘と甥の比企能員がおり、長女・丹後内侍は惟宗広言との間に島津氏の祖・島津忠久を産んでいます。その後、安達盛長と結婚すると、その娘が源野範頼に嫁ぎました。
次女の川越尼は川越重頼の正室で源頼家の乳母も務め(複数いる模様)、娘の郷御前が源義経に嫁いでいます。
三女は伊藤祐清に嫁ぎましたが、死別後に平賀義信と再婚し朝雅を設けると、次女と共に頼家の乳母を務めました。
このように、比企氏は源頼朝と頼家と密接な関係を築いていきますが、丹後内侍を産んだ島津忠久は自身を「源頼朝の落胤だ」と唱えています。
一方で、比企掃部允には男子が居なかったため、比企の尼の妹の生んだ甥の能員に比企氏の家督を継がせることにしています。
比企能員と将軍家の関係
鎌倉の比企能員の館(大蔵幕府の東御門)は京都からの使者の宿舎にもなっており、1182年8月12日にはその館にて北条政子が嫡男・頼家を出産しています。
さらに頼家と比企家の縁は深く、比企の尼の次女・川越重頼の正室が最初の乳母となりました。これにより能員は頼家の乳母父となり、将軍家との関係を密接にしていきます。加えて三女や能員の自身の娘も頼家の乳母となっています。
補足として1192年には比企朝宗の娘が北条義時と結婚し、のちに次男・朝時と三男・重時を産んでいます。この娘が鎌倉殿の13人で出てきた比奈とされています。
ドラマでは義時は八重に猛烈アプローチをしていましたが、史実では比奈にアプローチを続けて振られていたようです。長男・泰時も彼女が生んだともされています。
話を戻して1198年には、源頼家の妻妾となっていた比企能員の娘・若狭局が長男・一幡を産みました。
その翌年に源頼朝が死去したことで二代目・鎌倉殿頼家が誕生。しかし、就任3か月で将軍独裁が停止され、更に側近・梶原景時が失脚。有能な後ろ盾を失った頼家をその後支えたのが頼家の義父にあたる比企能員でした。
阿野全成の処刑と比企能員の乱(変)
そんな中、全成に謀反の疑いが噴出します。
頼家の命で全成の妻・阿波局を保護していた政子に対して比企能員が身柄を引き渡すように要求しますが断ります。結果、全成は流刑となるのですが、一転して、頼家の命により八田知家の手で処刑されることになりました。
この一軒で一幡の母の実家である比企氏と頼家の母の実家・北条時政・政子との対立が深まる中、源頼家が危篤状態に陥ったのです。次期将軍をめぐり事態は混迷を極めていきます。
次期将軍に「一幡を」という比企氏と「頼家の弟・実朝を将軍に」という北条氏との争いの火ぶたが切って落とされたのでした。
吾妻鑑によると、
日本国総守護と関東28か国の守護・地頭職
伊勢・鈴鹿の関から西の関西38か国の守護・地頭権
を与えるという分割相続が発表された事で比企能員が反発。そこで能員は若狭局を通じて病床の頼家に北条時政討伐の承諾を得る事に…
しかし、北条政子が障子の影から立ち聞きして父・時政に知らせたので時政は大江広元を味方につけて先手を打つことにしました。
1203年9月2日、薬師如来像の供養会として比企能員を名越の北条時政邸(名越亭)におびき出すと、待ち構えていた天野遠景・仁田忠常が能員を誅殺しました。この時の総大将が北条義時だったそうです。
慈円の書いた【愚管抄】によると、能員は分割相続の決定には満足しており、安心して何も疑いもせずに平服で時政の誘いを受けたと書いてあります。
能員による時政暗殺に触れたと今回紹介した『吾妻鑑』は北条氏得宗よりに書かれた書物です。
おそらく、このままでは一幡が3代目将軍となり比企氏が叔父として権力を持つことを北条時政は良しとしなかったのでしょう。
比企氏の乱で、能員の子である三郎・時員・五郎・河原田次郎などの親戚一同が一幡の屋敷に籠城しましたが、北条政子これを謀反として軍勢を差し向けます。
北条義時を大将に、泰時、畠山重忠、三浦義村、和田義盛、天野遠景・仁田忠常等の御家人たちが館を襲撃しました。混戦しましたが、畠山重忠が火を放つと6歳の一幡らと自刃して果てました。
能員の嫡男は、女装して逃走を図りますが追っ手によって討ち取られています。
また、舅や正室の実家の人間も誅殺されています。
比企の乱の戦後処理
乱後は、小笠原長経、中野能成らが拘束され、島津忠久が連座して大隅・薩摩・日向国の守護を没収されます。
一方で病床の床にあった頼家は数日後に比企氏と一幡の事実を知ると、堀親家を使いに仁田忠常と和田義盛に北条時政討伐の密書を送ります。ところが、和田義盛が時政に密書を渡したため、使いの堀親家は殺害されました。
こうして、比企能員の乱は幕引きするかと思われましたがこれでは収まりません。
比企能員の死から5日後には北条政子の命で源頼家の出家が決定し、3代目鎌倉殿が決定的となった実朝は北条時政の館に移りました。
しかし、阿波局(実朝の乳母)が牧の方の悪事を政子に告げると、政子は実朝の身の危険を案じて時政から実朝を取り返し自身で養育すると告げています。
9月15日には源実朝に征夷大将軍が宣下され、北条時政と大江広元によって頼家は鎌倉追放となり、伊豆修禅寺にて謹慎処分となりました。ところが、1204年7月18日に頼家は修禅時にて襲撃されて死去しています。
なお、北条義時の正室・比奈(姫の前)は離縁していたようで、離縁後は上洛して公家の源具親に嫁いでいったようです。
唯一、比企一族で残ったのが末子の能本。和田義盛に預けられ安房国へ流刑となり比企谷寺を建立しています。
吾妻鑑以外の比企氏の乱
当時、天台宗のトップ慈円は、自身が耳にした比企の乱を『愚管抄』に記しています。
そこには北条政子が障子越しに時政討伐を聞いたと言う記述がなく、頼家は一幡の世継ぎが確かなものとなり安心して出家したとされています。先述しましたが、比企能員は相続の決定に満足のようで、北条時政を討伐しようとは考えてもいなかったようです。
また、比企邸で一幡が焼死したのではなく、北条義時が逃げた一幡を追いかけて殺害したとも書かれています。このように、京の都では比企の乱ではなく実朝を将軍に立てようと、北条氏が画策してたクーデターと考えているようでした。