徳川四天王の筆頭・酒井忠次は信康切腹のきっかけを作ってしまった!?
徳川家康の父の代から仕える最古参で、徳川四天王筆頭だったのが酒井忠次。
いくつもの合戦で知勇を奮っただけではなく、徳川家臣団を束ねるムードメーカでもありました。長篠の戦いでは、献策して織田信長に採用され味方を大勝利に導いています。
今回は、そんな酒井忠次について紹介しましょう。
酒井忠次の簡単な概要
1527年に三河国の酒井忠親の次男として生まれました。
松平広忠に仕えており、嫡男・竹千代が今川義元の人質になる際には同行しました。この時、忠次は23歳で家康より15歳年上でした。
今川方として織田と戦いった際には、岡崎に攻めて来た柴田勝家を負傷させる活躍をします。これ以降、家康は戦の際に酒井忠次を先鋒にすることを常としました。
今川義元が桶狭間でやられて徳川家康が独立すると、家康をサポートして三河一向一揆などの危機を一緒に乗り越えていきます。家康が浜松に移動すると、東三河衆の旗頭として常に前線に立ち、今川と武田氏との戦いで奮戦します。
外交能力にも長けて、信長や北条氏政などの取次役も務め、数々な場面で活躍します。
長篠の戦いの軍議で信長を怒らせるが…
家康の叔母を妻としていた酒井忠次は、徳川家最古参の忠臣です。
徳川四天王の筆頭として、癖の強い重臣たちを上手くまとめ、頼れる中年・忠次は様々な場面で家康を助けています。
1573年の三方ヶ原の戦いでは、徳川軍は武田信玄に完膚なきまでにやられ浜松城まで逃げ帰りました。この時に忠次は、櫓に登って暗闇に逃げてくる味方を誘導して、太鼓を打ち鳴らしました。
太鼓は大きな音がすることから、味方だけではなく敵にも聞こえてきますが、この音に武田軍は罠だと深読みして兵を引き上げたと言います。結果的に、この忠次の太鼓のおかげで家康の命拾いしたのです。
1575年の長篠の軍議では「長篠城を包囲する武田兵を先に倒したら?」進言しますが、信長がブチぎれて軍議が解散する事態に…
ところが、忠次がその場を去ろうとすると、信長は小さな声で「さっきはスパイを警戒して切れたけど、この作戦とっても良いからやってみてよ」と酒井忠次に言いました。
そんなツンデレな信長のお墨付きをもらった忠次は、別動隊を連れて武田軍が待つ鳶巣山砦を奇襲し、長篠城を包囲する武田兵を見事に蹴散らしました。
一方で信長・家康の本隊は、鉄砲を上手く使い武田騎馬隊を迎え撃ち壊滅させています。
敗走する武田兵の退路を酒井忠次が封鎖した事によって、武田軍はほぼ全滅しました。
長篠の戦いでの酒井忠次の働きに、信長は皆の前で褒めちぎったそうです。
酒井忠次がキッカケで信康が切腹した!?
1579年の築山・信康事件では家康に命じられ、忠次が信長に弁明役※として安土へ向かっています。
※弁明役がどうかはハッキリしませんが、何らかの理由で安土には行っていたようです。
信長に事の真偽を問われた忠次は、おおむねイエスと回答。
こうして、証拠不十分ながら信康と築山殿の謀反が認められました。
信長は、これ以上追及はせずに処分を家康に一任します。こうして、徳川家康は究極の選択を迫られることになり、嫡男・信康が切腹し築山殿が処刑されることになりました。
晩年、酒井忠次は息子・家次の俸禄が安い事を家康に頼んだところ「お前でも自分の息子は可愛いのか…」とチクリと言われたそうで、この言葉に忠次は何も言えずに引き下がったと言います。
徳川家存続のためとはいえ、この信康事件は忠次と家康の間に大きなしこりを残した事件だったのでしょう。実際に、晩年の酒井忠次は家康に遠ざけられたとも言われています。
本能寺の変後の酒井忠次
本能寺の変後は、武田家の空白地である信濃・甲斐の掌握を図りますが、諏訪氏や小笠原氏の離反により失敗します。
1584年の小牧・長久手の戦いでは、森長可を敗走させるなどの活躍を見せています。
翌年に同じ宿老の石川数正が秀吉の元へ出奔すると酒井忠次は第一の重臣となり、秀吉からは従四位下・左衛門督に叙任されています。しかし、よる年月には勝てず持病が悪化し、1588年に嫡男・家次に家督を譲り隠居しました。
隠居後は、京都におり眼病を患いほとんど目が見えなくなっていました。人材マニアの秀吉にも何かと目をかけてもらっており、京都桜井の屋敷と世話人と在京料として1000石が与えられました。
そして、1596年10月28日に京都桜井屋敷で死去。享年70歳の生涯でした。
酒井忠次の人物像
どうする家康でもありましたが、忠次は宴会を盛り上げる頼れる中年で、すべらない宴会芸【海老すくい】で爆笑をさらっていました。
武田家との長篠決戦前夜に、武田軍の強さを知る徳川兵は恐怖に打ちひしがれていたと言います。そこで忠次は、家康に頼まれ慣れた手つきでサッと布をかぶり、滑稽な腰つきで奇妙な踊りを始めました。
それが【海老すくい】で、一同は笑いのツボに入りたちまち大爆笑をさらいました。
さっきまで不安な表情を見せていた徳川兵は、一瞬にして笑顔が戻り翌日の長篠の勝利に繋がりました。
こうして、徳川家名物の忠次の海老すくいは、北条氏政との同盟の席でも披露され、北条氏の重臣たちも大爆笑だったそうです。