今川家を独立した徳川家康はどのようにして今川氏真を攻めたのか??
今川家の人質として幼少期を過ごしてきた徳川家康ですが、桶狭間の戦いで今川義元が討ち取られると人生の歯車が変わり始めます。
今川義元の死をきっかけに、主家の権威は揺らぎ始め、信長の影響力も高まり、今川家を見限り家康も離反を決意。そして、三河の統治を果たした後に、今川家を継いだ氏真を攻め滅亡させます。
そこで今回は、家康がどのようにして今川家を滅亡させたのかを紹介します。
武田信玄との密約
徳川家康の三河平定後の1568年に遠江侵攻のチャンスが訪れます。
武田信玄が駿河の今川領に侵攻を開始したのです。
武田家と今川家は北条氏との間に三国同盟を結んでいたのですが、以下の流れをたどり駿河侵攻に踏み切ったとされています。
- 今川・武田・北条氏はそれぞれ三国同盟を結んでいた
- 信長と信玄が同盟を結んだことにより武田と今川間に緊張が走る
- 今川氏真は密かに上杉謙信と通じていた
- 信玄の子・義信が廃嫡となり死没する
- 今川・武田間の婚姻が解消され同盟破棄される
- 今川と上杉の密約が信玄に知られる
- 信長は上洛、信玄は駿河侵攻と両家の利害が一致する
このような流れで武田信玄は駿河侵攻を始めるのですが、これに呼応する形で家康も遠江に向けて軍事行動を起こしています。
これには、事前に家康と信玄との間で、武田は駿河、家康は遠江を切り取り次第に領有する密約があったからだと言われています。史実はハッキリしませんが、その後の展開はほぼ噂通りに事が運んでいます。
武田信玄が今川を攻めると、北条が援軍を派遣する事は想定できたので、信玄は信長を通じて家康と接触し、上記のような密約を交わした可能性は極めて高いでしょう。
駿府陥落と遠江侵攻の開始
では、実際に両軍の今川攻めの動きを箇条書きしてみます。
- 1568年12月6日…武田信玄・甲府を出発
- 12日…武田軍・駿河に侵入。小田原から北条氏が今川へ向け援軍。家康も井伊谷の三人衆を調略し知行を安堵する
- 13日…信玄が駿府を攻める。今川氏真は掛川城へ敗走。
- 15日…徳川家康が遠江井伊谷へ到着。
- 18日…徳川軍が引馬城に入城する。武田の別動隊が徳川軍と小競り合い。
- 19日…家康、天竜川に橋を建設
- 20日…掛川城付近に到着。同時に、国衆・匂坂吉政の知行を安堵。
- 22日…信玄が掛川攻めを要請。18日の武田軍の進行に家康は抗議。
- 26日…家康が二俣城の鵜殿氏長を調略して知行を安堵。
- 27日…家康が掛川城を包囲。
信玄が駿府を占領したのを確認すると家康もすぐに軍事行動を起こしました。
そこで家康は、井伊谷三人衆・菅沼忠久、近藤康用、鈴木重時の3人を調略した後に、彼らを道案内として15日には井伊谷を制圧。その後は、今川方を次々と調略し臣従させていきました。
武田信玄の密約違反も!?
18日に秋山信友率いる武田軍の別動隊が遠江に侵入して徳川軍と交戦する事態が起こっています。これは明らかに信玄が意図的に攻め込んだと言う見方が有力になっています。
家康は22日に抗議の書状を送ったが、すれ違いで同日に信玄から掛川城攻めの要請が書かれた書状が届きました。
一方で氏真は、掛川城に敗走してきた直後の27日に包囲を開始しています。
本格的に掛川城を攻撃するのは正月以降となり、その間も犬居城の天野藤秀や高天神城の小笠原氏助などの多くの今川家臣団を帰順させていくことになります。
一方で密約違反をして抗議を入れていた武田信玄とは、1569年の正月早々に弁明の書状が届き「秋山信友率いる武田兵を遠江から撤退する」旨の書状が届きました。
また、両家の改善修復のために信玄の求めで両家の間で起請文を取り交わされたようです。しかし、家康は信玄に対する疑心感は消えることはなく、この頃から家康は上杉謙信や北条氏政との連携を模索するようになります。
この頃の信玄は、家康だけではなく今川との同盟解消によって北条氏政も敵に回しており、北条軍に退路を封鎖されて駿府に閉じ込められると言う窮地に立たされていました。
今川氏真の立てこもる掛川城の攻防
1569年1月、徳川家康は駿府から掛川城に逃れていた今川氏真を攻撃。城の周りに砦を築き、遠江攻めで調略された小笠原氏や久野氏を先鋒にして攻めようとしたのだ。
しかし、久野氏の中には主人・宗能に裏切りを進め、家康を討とうとする輩も出たようですが、当の本人は【一度、今川氏真を裏切り、弓をひくのさえ、侍の義理を違えたと赤面しているのだ。そうであるのに、家康を裏切れば、人は後ろ指をさすだろう。私は家康に従う】と誘いを拒否したと言います。
しかし、宗茂と宗政は納得がいかず、徳川離反の不穏な動きを見せる。
そこで、家康に依頼し、援軍を差し向けると謀反は起こらず、不穏分子の両名は処分されることになります。それを見て、家康自ら、掛川に出陣し天王山に陣を敷く。各所に砦を築くが、掛川城から今川勢が討って出てくることもあり、激しい戦が展開されることに。
三河武士たちの活躍にも関わらず、猛攻をによく耐えていた掛川城はなかなか落ちませんでした。
一方で駿河侵攻で、北条氏から手痛いしっぺ返しを受け、駿河に閉じ込められていた武田信玄は、織田信長を頼ることにしました。
信長を通じて、足利義昭に働きかけて上杉謙信と和睦を結ぼうとしました。
雪解けになり上杉氏が信濃方面に進出してくることを信玄は未然に防ごうとしたのです。こうして、2月には将軍・足利義昭により武田・上杉氏に和睦を命じました。
こうして信玄は駿府を退き、甲府に戻っていったのでした。
一方で家康は、氏真を攻めあぐねており、和解の道を模索していた。
5月上旬に開城し氏真は北条氏を頼ることになります。こうして大名・今川氏は滅亡しました。
甲府に無事帰った武田信玄は、徳川と今川の和睦に不満をあらわにし、信長に不満を漏らしていたようです。この和睦が成立すると進言の立場が危うくなるのは自身が一番よく知っていました。
こうして掛川城を手に入れた徳川家康は、その後22年の間遠江の国を統治することなります。一方武田氏とはこの件で険悪となり、1581年の高天神城陥落まで13年にも及ぶ争いが続きます。
どうして家康は氏真を殺さなかったのか??
今川氏真は掛川城陥落後、北条氏を頼りその後は家康の庇護に入ります。
晩年、氏真は品川に屋敷が与えられました。
江戸時代には、今川氏は高家として幕府に仕えることになり、秀吉に追放されていた織田信雄も庇護しお伽衆の一人として養っていました。
幼馴染みであり、義理の従兄でもある今川氏真は、徳川家康にとって身近で失いたくない存在だったかもしれません。また、武田信玄を疑っていた徳川家康にとって、今川氏真は切り札でもありました。
北条氏と戦っている間に、信玄の攻撃を受けたら家康は負けてしまいますが、逆に言い換えれば、今川氏真と和解し、武田信玄から今川氏真を守れば、徳川家康は北条氏の支援を受けられる可能性があります。
こうした理由から、家康は氏真を討つことはしなかったようです。
この時、徳川家康は25歳でしたがすでに狸おやじの片りんを見せていたのですね。