ペロポネソス戦争とヘレニズム時代
ペルシア戦争後、微妙な空気になったアテナイとスパルタ。ギリシア世界は、民主政が広まったポリスを中心とするアテナイ陣営(デロス同盟)と貴族政を保ったままのポリスを中心とするスパルタ陣営(ペロポネソス同盟)に分かれて争うことに。
それまで対ペルシアで表面上まとまっていたはずのギリシアが二分し、本格的な争いを始めてしまったのです。この裏にはペルシア戦争以降、直接手を出さなくなっていたアケメネス朝ペルシアの影がチラホラ見えてきます。
今回は、そんなアテナイとスパルタで起こった諍いとギリシアのポリス間の諍いを煽った感のあるペルシアがどうなったのかを見ていこうと思います。
ギリシアの変革
ペルシア戦争を機に経済面での優位だけでなく、スパルタが優位だったはずの軍事面でもアテナイが力をつけると大きな脅威となり、無視しきれないものとなりました。
やがて、紀元前431年に両者はぶつかってしまいます。いわゆるペロポネソス戦争です。
ペロポネソス戦争はどんな戦いだったのか?
ペロポネソス戦争はアテナイ・スパルタ両者の諍いだけでなく、それぞれの勢力を支持するポリスも巻き込んでの戦いでした。民主政が広がっている現状なんて、貴族政を営んでいるポリスからすれば「とんでもない」話ですからね。
民主政の広がりに対して危機感を持っていたポリスは多く、アテナイはじめデロス同盟を警戒するポリスはスパルタだけではありませんでした。
というか、スパルタは危機感を抱いてはいたものの…どちらかと言えば静観派(スパルタの軍事力は元々国内の反乱対策として築いているものなので当然と言えば当然)で、戦争に広げようとしたのはスパルタ以外のポリスです。
※ペルシア戦争(紀元前500~紀元前449)でギリシアが優位に立つとポリスの足並みが揃わなくなり、小規模な戦争が既にペロポネソス同盟(紀元前6世紀~スパルタ・コリントスなど)とデロス同盟(紀元前478年~アテナイ中心)間で勃発(第一次ペロポネソス戦争)します。
※ペルシア戦争(紀元前500~紀元前449)でギリシアが優位に立つとポリスの足並みが揃わなくなり、小規模な戦争が既にペロポネソス同盟(紀元前6世紀~スパルタ・コリントスなど)とデロス同盟(紀元前478年~アテナイ中心)間で勃発(第一次ペロポネソス戦争)します。この時点でペルシア戦争が完全に終結してないため、両者引き分け、30年の和平条約を結んで終結させました。ということで、ペロポネソス同盟とデロス同盟の不和は結構前の段階で表面化しています
前哨戦
コリントス人により建設されたのがギリシア北西部の島にあるケルキュラ。このケルキュラが植民化したのが、ケルキュラから更に北西にあるエピダムノスです。
紀元前435年のエピダムノスでは党争が続き、周辺民族も侵入すると、エピダムノスはケルキュラに内紛の仲裁と兵の援助を依頼することにしました。
ところが、ケルキュラは救援要請を無視。理由までは定かではありませんが、困窮するエピダムノスにとって救援拒否は致命的となる出来事でした。
そこでエピダムノスは次の一手として『コリントスへ救援要請』したのです。
ケルキュラ VS. コリントス
この一連の行動にケルキュラは激昂し、エピダムノスに侵攻。他のコリントス植民都市に対する略奪行為も繰り返し行い、ケルキュラとコリントスの仲は険悪になりました。
ちなみに・・・
コリントスはスパルタ盟主のペロポネソス同盟を結んでいます。経済的にイマイチなスパルタを金銭的に支えたのがコリントスだったとも言われているほど、ペロポネソス同盟の重要な地位にいたポリスです。
それだけ力のあるコリントスに喧嘩を売ったわけで、ケルキュラは報復を恐れてアテナイに援助を求めることにします。
アテナイの参戦
アテナイ側としては第一次ペロポネソス戦争で和平条約を結んでいたとは言え、関係悪化しているペロポネソス同盟に対抗するため軍事力を増やしたいところ。ケルキュラの救援要請を承諾し、コリントスとの対決を選びます。
こうして始まったのが紀元前433年のシュボタの海戦。植民市による代理戦争のような形で長い戦いに突入します。この時のシュボタの海戦では引き分けとなり、翌年のポティダイアの戦いに再戦。この時点でスパルタは和平派だったようですが・・・
スパルタ vs. アテナイ
結局、ペロポネソス同盟の会議で和平案は通らず「アテナイが(第一次ペロポネソス戦争後に締結した)和平条約を破棄した」と見做して開戦が議決されます。
そして、とうとう紀元前431年にスパルタがアテナイのあるアッティカ地方に侵攻したのです。
ここに本格的な『スパルタ率いるペロポネソス同盟vs. アテナイ率いるデロス同盟』の構図が出来上がりました。以降30年近い戦争がギリシア全土で行われていきます。
強い海軍を中心にはじめ優勢だったアテナイでしたが、エジプトやリビア、エーゲ海東部などで流行していた疫病により指導者が死亡したのを機に政治が混乱。
戦争が優勢だったこともあり、和平条約を提案されても戦争を継続したい市民たち。ある程度のところでアテナイに有利な和平条約を結べば良かったものの、有力な指導者不在で好戦的な市民を止めることができません。その後ぺロポネソス同盟側が立て直し、アテナイ側が劣勢となっていきました。
元々和平派であったスパルタでしたから、アテナイ側が和平に傾いたことで紀元前421年に和平案『ニキアスの和平』が成立。・・・ところが、互いに領地返還を行わず形だけの和平となり結局戦争が再開されてしまいます。
和平後の戦いは、どちらかというとペロポネソス同盟有利に進みます。その裏にはアケメネス朝ペルシアの影が・・・スパルタがペルシアと結んでいたのです。
ギリシアのポリス同士で戦うとなると、地形を考えると海上が多い。そうなると海軍メインのアテナイが盟主のデロス同盟が優位です。ペロポネソス同盟でメインの軍隊といえばスパルタの陸軍で、海の戦いではどうしても上手くいきません。ペロポネソス同盟には海に面した他の都市だってありますが、アテナイのように強くありません。
おそらく、そんな理由でペルシアと結ぶことにしたのでしょう。
ペルシア側からすれば、ギリシアのポリス同士で戦って戦力を削ぐのは国益になります。そのうえ、ペルシア戦争で苦労して勝ち取った
ペルシア側からすれば、ギリシアのポリス同士で戦って戦力を削ぐのは国益になります。そのうえ、ペルシア戦争で苦労して勝ち取ったイオニア諸国の保護権をペルシアに譲渡する
という条件までもスパルタ側はつけています。ペルシアに断る理由はありませんでした。
そんな裏事情もあってアケメネス朝ペルシアの援助を受けたペロポネソス同盟側が、紀元前404年、ペロポネソス戦争に勝利しました。
ギリシア世界の変化
戦争中の変化
戦争が続いてポリスでは土地を失う者が増え、市民の身分から転落する者が増えていきます。その転落した者達がお金で雇われて傭兵として働くようになりました。
傭兵として他所のポリスから多くの者が働くことになると、これまで軍事を担っていた市民団の団結力は失われていきました。こうしてポリス社会は徐々に変容していきます。
戦後の変化
紀元前431年から紀元前404年までの長い間ギリシア全土で行われていた戦争が続き、ギリシア全体が衰退しました。
勝利したはずのペロポネソス同盟の中でも主力だったスパルタの疲弊は激しく、スパルタは元の内向き志向の軍事国家に戻っています。
4世紀はスパルタに変わって(ギリシアの)テーベというポリスが一時主導権を握るまでになった一方、敗戦国のアテナイは民主政を頑なに守り続け、勢力を回復させています。
ペロポネソス戦争でギリシアへの影響力を増やしたペルシアはギリシア人同士を争い合うように暗躍。このペルシアの動きを分かっている人は分かっていて、後々ペルシアは手痛いしっぺ返しされてしまいます。手痛いしっぺ返しについては次にお話ししましょう。
ヘレニズム時代
古代オリエントとギリシアの文化が混じるようになった時代をヘレニズム時代と呼び、その文化をヘレニズム文化と呼んでいます。
ヘレニズム時代が生まれた経緯を見てみよう
ギリシアの地理について少し思い出してください。ギリシアでは南部の土壌が痩せていて、北部に行くほど豊かな土地が広がっています。近くに先進国があったことから南部に進出、交易で食い繋ぎ、ここまで大きな勢力にまで拡大させました。
山がちな南部と違って平野もありましたから、ギリシア北部ではポリスを作らない一派もあった訳です。その一派の一つがマケドニア。
マケドニアは紀元前4世紀後半になると、フィリッポス2世(在位:紀元前359~紀元前336年)の元で軍事力を強め、紀元前338年にはカイロネイアの戦いでテーベとアテナイの連合軍を破るまでに成長しています(この時、スパルタは参戦していません)。
こうしてマケドニアはスパルタ除くギリシアの大部分を掌握、コリントス同盟を結んで実質支配下においています。
マケドニア王国(ウィキペディア)を改変
フィリッポス2世の治世下ではギリシア内で完結していて、古代オリエントの文化を含むペルシアとの絡みが全く出てきませんが、フィリッポス2世の息子の代になると一気にペルシアと絡むように。
その息子の名はアレクサンドロス3世です。その功績の凄さからアレクサンドロス大王とも呼ばれています。
このアレクサンドロス大王が、ギリシアがあれだけ苦戦を強いられていたアケメネス朝ペルシアを滅ぼしました。滅ぼした理由は、ペルシアによるギリシア諸国に対する干渉が原因。
紀元前334年に東方遠征を開始し、翌年ペルシア王ダレイオス3世を打ち破りました。自国の実質支配下にちょっかいかけられたため攻め込んだのです。
最終的にアレクサンドロス大王が作った帝国は、エジプト・ギリシア・シリア・アナトリア半島・イラン・インドと中央アジアの一部と非常に広範囲です。
こうして古代オリエントとギリシアの文化が混じりあっていくことになります。
アレクサンドロス大王の統治以降
父の代を継いだ後の怒涛の勢いは長くは続きませんでした。アレクサンドロス大王は実力主義で叩き上げた将軍たちがいたからこそ功績を残してきたため、後継者も実力で決めようと後継者を指名せずに死去します。
詳説世界史B(山川出版社)より
これが原因で複数の後継者(ディアドコイ)が立ち上がり
- アンティゴノス朝マケドニア
- セレウコス朝シリア
- アッタロス朝ペルガモン
- グレコ・バクトリア
- グリーク朝インド王国
- プトレマイオス朝エジプト
などの諸国に分裂。こういった国々も如実にヘレニズム文化を受け継いでいました。最後まで残ったプトレマイオス朝エジプトがローマに併合されるまでの約300年をヘレニズム時代と呼んでいます。
ヘレニズム時代にはギリシア風の都市がオリエントやその周辺にも多数建設されており、こういった都市を中心にギリシアの文化は広がっていきました。特にエジプトのアレクサンドリアでは経済・文化の中心地として発展を遂げています。
ポリスの独立性はマケドニア支配以降弱まりましたが、広い範囲でギリシア文化は長い間伝わり大きな影響を与え続けたのです。