後醍醐天皇による建武の新政と室町幕府成立
源頼朝が作り上げた鎌倉幕府は将軍と御家人たちとの御恩と奉公で成り立っています。将軍は先祖から受け継ぐ領地を保証する【領土安堵】と新たな所領を与える【新恩の支給】を行う代わりに御家人たちは将軍に従う関係を築いたのです。
しかし、元寇で『元』という異国が攻め込んできたため新たな土地を獲得することができないため活躍に応じた恩賞を与えられず問題が発生。御家人たちは困窮していきました。
そのため、幕府と御家人たちとの信頼関係が悪化し、度々反乱が起こるようになり、かなり危うい状況となっています。その中で鎌倉時代末期に後醍醐天皇が即位したことで、幕府や朝廷、統治体制などが大きく変わっていきます。
今回はそんな後醍醐天皇の即位で時代が大きく変化した鎌倉末期~南北朝までを紹介していきたいと思います。
後醍醐天皇の生い立ち
後醍醐天皇は鎌倉末期から南北朝初期の天皇で、大覚寺統・後宇多天皇の第2皇子でした。元寇があった鎌倉末期の天皇は両統迭立※(りょうとうてつりつ)となっており、【持明院統】と【大覚寺統】家系から交互に天皇を即位させていました。
※天皇の家系が2つ分裂しており、それぞれの家系から交互に即位させる事で、【迭】とは、交互にという意味を持ちます。
後醍醐天皇の異母兄である、後二条天皇は、第94代天皇となっていましたが、1308年に24歳で急死して、持明院統の花園天皇がわずか12歳で即位します。当然、まだ若いので、同じ家系の伏見上皇や兄の後伏見上皇が院政を行いました。
院政については『藤原氏による摂関政治の衰退と院政開始』の記事で詳しく書いたので省略させていただきます。
この頃、両統迭立で天皇を即位させていましたが、その在位期間を10年と話し合いで決められていました。そのため、すぐに皇太子が決められていました。
本来、この時点での大覚寺統の皇位継承者は亡くなった後二条天皇の第一皇子・邦良親王でしたが、まだ幼少だったので、後宇多天皇の第2皇子尊治親王(後醍醐天皇)に繋ぎで皇位継承権がめぐってきます。
こうして、1318年に大覚寺統の後醍醐天皇が第96代天皇となりました。
しかし、父である後宇多天皇が院政をはじめてしまい、後醍醐天皇は名ばかり天皇に。さらに、後醍醐天皇は邦良親王が成人するまでの繋ぎであったので実子である護良親王に皇位継承権がないことに不満を持っていました。
この皇位継承権を承諾するのが鎌倉幕府の執権・北条氏でした。
後醍醐天皇は鎌倉幕府の将軍が自分の家系からではなく、もう一つの系統である持明院統の家系から出ていることも好ましく思わなかったようで、幕府討幕の考えがよぎるようになります。
1321年、後醍醐天皇は父の後宇多天皇の院政を停止して、天皇による親政を復活させました。
吉田定房、北畠親房を登用して政治の中心機関「記録所」(きろくしょ)を再興し、政治改革を行いました。しかし、親政が上手くいかず、その原因が鎌倉幕府にあることを痛感して、日野資朝・日野俊基らと討幕の計画を立てます。
1324年にこの企てが六波羅探題に露見して、持明院統の量仁親王が幕府指名で時期の天皇に立てられ、後醍醐天皇はピンチになります。
元弘の乱と鎌倉幕府滅亡
討幕計画が露見したことにより、1331年に六波羅探題の軍が御所内部にも侵入して、後醍醐天皇は三種の神器を持ち、女装して京都を脱出し、笠置山に入り挙兵します。
この時、後醍醐天皇の皇子・護良親王や楠木正成も呼応しましたが、足利尊氏・新田義貞ら鎌倉幕府の軍勢に敗れて後醍醐天皇は捕縛されました。この騒動で謀反人となった後醍醐天皇は、天皇の座を奪われ、1332年に隠岐島へ流罪となります。
しかし、護良親王と楠木正成は潜伏して再び挙兵して、六波羅探題を撃破しました。
この楠木正成の快挙の知らせは日本各地に伝わって後醍醐天皇は隠岐島から脱出すると、伯耆・船上山にて討幕の綸旨を天下へ発しました。
これを討伐するために鎌倉幕府から足利尊氏が派遣されましたが、丹波で反旗を翻して六波羅探題を攻め落とし、京都を制圧します。そこで、光厳天皇、後伏見上皇、花園上皇ら持明院統の皇族を捕えました。
直後に上野国で挙兵した新田義貞が幕府に不満を持つ御家人を増やし、小手指ヶ原の戦い、分倍河原の戦いで勝利します。
そして、ついに鎌倉を陥落することに成功。執権北条高時らが自害し鎌倉幕府は滅びました。
建武の新政と室町幕府成立
鎌倉幕府を滅ぼすことに成功した後醍醐天皇は、親政である建武の新政を開始します。
しかし、討幕で大活躍した御家人たちは論功行賞で不遇な扱いを受けてしまいます。幕府側を裏切って後醍醐天皇についてくれた足利尊氏に関しても、その実力と名声を恐れて親政の中枢から遠ざけ、北畠顕家と義良親王を奥州に派遣し、関東の足利勢をけん制します。
この態度が決定打となり、足利尊氏が離反し室町幕府の成立に繋がっていきます。
1335年に足利尊氏が鎌倉で離反が分かると、後醍醐天皇は新田義貞に討伐を命じます。
足柄峠付近の【箱根・竹之下の戦い】で勝利した尊氏でしたが、北畠顕家に敗れて一度九州へ落ち延びます。その中で、赤間関の少弐頼尚や、宗像大社の宗像氏範の支援をた足利勢は、京へ向けて反撃を開始します。
1336年に新田義貞と楠木正成が足利軍を迎え撃ちますが、湊川の戦で楠木正成が討死し敗北します。後醍醐天皇は比叡山へのがれて抵抗しますが、三種の神器を差し出して吉野へと落ち延びていきます。
後醍醐天皇との戦いに勝利した足利尊氏は、建武式目を制定して、持明院統から光明天皇を擁立します。また、自分は鎌倉幕府の正当な後継者として、1338年には征夷大将軍に任命されて室町幕府を開きました。
南北朝時代の始まり
一方、吉野へ逃れた後醍醐天皇は自身が正当な天皇だとして吉野に朝廷を開き【南朝】ができることになりました。足利尊氏の息のかかった【北朝】との【南北朝時代】が56年間続くことになります。
こうして持明院統と大覚寺統の対立が決定的な状態となりましたが、後醍醐天皇は各地に自らの皇子を派遣して協力を要請しました。しかし、名和長年、結城親光、千種忠顕、北畠顕家、新田義貞らが討死にし、1339年には後醍醐天皇も崩御します。
勢力を弱めた南朝・北畠親房は、籠城した常陸・小田原にて南朝の正当性を示す『神皇正統記』を執筆し関東の武士を味方につけますが、懐良親王、北畠顕能、宗良親王らも亡くなり、1392年に南朝は降伏しています。
南北朝時代の56年間は天皇が2人いたということになりますが、明治44年に南朝の天皇が正統と定められたので、足利尊氏が擁立した光明天皇などの北朝の天皇は歴代天皇にカウントされていないそうです。
鎌倉幕府滅亡から南北朝時代は、人間関係も室町幕府成立と建武の新政などたくさんのイベントがあり分かりにくいのでまとめてみました。
簡単に流れを書くと…
後醍醐天皇が鎌倉幕府を有力御家人たちを一緒に倒した
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後醍醐天皇による政治【建武の新政】を始めるが、武士の不満が溜まり失敗
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御家人たちを束ねた足利尊氏との戦いに敗れる
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室町幕府が成立し尊氏は、光明天皇を擁立(北朝)
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こりない後醍醐天皇は、自分が天皇だと【吉野】で朝廷を作る(南朝)