色々な歴史

日本での最も古い国技・相撲の歴史について

歴ブロ

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わが国での相撲と言う競技は【国技】となっていますが、今のような土俵上で行われる形式が日本独自であることからそう呼ばれているそうです。

相撲のように人が組合い、力比べすると言う意味では、人間の本能的なものですから、日本だけではなく【相撲のようなもの】は、世界的にみてもたくさんあるようです。

今から5000年前にあったバビロニアの遺跡には、ましみたいなものを締めた男が四つに組んでいる青銅の人形が出土しています。また、エジプトの壁画にも相撲を取っている図が確認されています。

古代のヨーロッパだけではなく、東洋に目を向けてみても、法華経安楽行品あんらくぎょうほん)には『相撲』の記載があり、涅槃経ねはんぎょう)には『力士』と書かれています。高句麗時代の古墳の壁画にも、相撲の図が描かれているようです。

 

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相撲の語源

そもそも、すもうと言う言葉の起源は、【角力】や【角觝】と言う文字に由来しています。

日本語としては、

【すまヰ】⇒【すまひ】⇒【すまふ】⇒【すもう】となまって現在の言葉になったとされています。

日本における相撲の最古の記録は【古事記】にありました。

古事記によると、神代に建御雷神たけみかづちのかみ)と建御名方神たけみなかたのかみ)が出雲の伊那佐の小浜(おばま)で力くらべしたという記録があります。

お互いに手を取り合い、投げ合う形であることから相撲を取ることを手合い】や【手乞いと呼んだということにそれが伝わっています。神前で相撲をとり、その勝敗で神の意志を推し量るという、占いの側面を持っていることが感じられます。

 

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弥生時代から古墳時代の相撲

神ではなく人間同士の相撲の起源は、【日本書紀】にその記述があります。

野見宿禰のみのすくね)と當麻蹶速たいまのけはや)です。この二人は、相撲の神様としてまつられています。

この二人は、互いに競り合った末に、野見宿禰が當麻蹶速を倒して、腰の骨を踏み折ったそうです。今の相撲よりより格闘技性が高かったようです。

この競り合いに勝った野見宿禰は、土器の制作を生業としていて大和朝廷に仕えた土師(はじ)氏の祖とされていて、のちの菅原道真の菅原氏が誕生します。この菅原氏からさらに分家をした五条家は、代々朝廷主催の相撲大会において、【相撲司】として取り仕切っていたそうです。

ちなみに【力士】と言う文字が日本で初めて登場したのは、古事記で『ちからひ』や『すまひひと』と読まれていたそうです。

古墳時代になると、雄略天皇が身辺の世話をする女官たちを集めて、犢鼻(とうさぎ)と呼ばれる回し締めさせて相撲を取らせたと言う記録が日本書紀にあります。またこの時に初めて【相撲】と言う文字が記録されたとされています。

 

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奈良時代~平安時代の相撲

奈良時代になると、聖武天皇734年7月7日相撲節会を開くようになります。日にちを見てもらえればわかるようにこれ以降相撲節会は、七夕の頃に行われるようになります。この相撲節会は、中国から七夕と言う年中行事が行われる前から行われていたと言います。

平安時代になると、宇多天皇が在原業平と相撲を取り投げられて、高欄を折ったと言う記述が『大鏡※』にあります。

歴ぴよ
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大鏡(おおかがみ)とは、平安時代後期に書かれた紀伝体の歴史物語。

院政時代には、堀川天皇が夜な夜な家臣たちに相撲を取らせたと言われています。これが展覧相撲の走りで、律令体制の元でしだいに整備されていきます。

しかし、高倉天皇の時代の1174年の7月25日に行われた展覧相撲が最後で廃絶されてしまいます。

 

鎌倉時代~室町・戦国期の相撲

これまで国営で運営されていた相撲節会は、律令制と密接な関係を持っていました。しかし、武士の世になると民間で行われていた野相撲や宮相撲が武士たちに取り入れられるようになります。

当時のいくさでは、組打ちを主としてたため、相撲を取ると言うのが武技の鍛錬に繋がると言うわけです。鎌倉幕府の御家人たちは、神社の祭日などに好んで相撲の会を開催して、将軍様もそれを観覧していたようです。

 

室町初期頃には、相撲は武士のたしなみとして取る人が多かったようです。

これまでの節会相撲や野相撲・宮相撲には土俵はありませんでした。この土俵が壇上するのが戦国時代になります。

織田信長が1570年3月3日と1578年に近江国の相撲取り300人を集めて相撲の会を開いたと言う記録が残っています。野相撲ではまだ土俵は作られなかったものの、興行的な相撲では土俵が作られていました。【角力旧記】によると、天正年間から作られるようになったのではないかとされています。

また、行司(行事)と言う言葉も使われ始めたのはこの頃からとされています。

 

江戸時代の相撲

この時代になると、寺院の建設や修繕のための費用を奉納させるための興行相撲の横行を防ぐために、幕府や奉行所に届け出を出すように徹底されます。

御免を蒙』った状態でなければ興行相撲ができなかったそうです。その影響で今でも

番付の中央に大きく蒙御免と書かれていたり、相撲場の近くに御免札を立てたりと当時の面影が残っています。

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このような興行相撲を勧進相撲と言い、1624年に明石志賀之助が江戸の四谷塩町で行ったことが始まりとされています。この勧進相撲自体は、それ以前の時代でも確立されているモノでしたが、場所と名前がはっきりわかっているのはこれがはじめとされています。

また、江戸幕府は相撲興行において喧嘩騒ぎが絶えなかったことから、何度も勧進相撲の禁令を発しています。

この頃から、初期の番付制度が始まったとされています。

相撲の興行は江戸だけではなく京都や大阪でも盛んに行われており、大阪での興行が一番盛り上がったそうです。

1751年~1764年以降の江戸の相撲は、3月、10月を定期場所として本場所を年2回と定めていました。そのほかにも、江戸中で興行相撲を行っていました。

驚くことに、相撲協会の前身である【相撲会所】がこの頃に成立して、相撲のしきたりが整えられていきます。これにより、【横綱】が誕生することになります。

 

明治時代に相撲が無くっていたかも!?

江戸・京都・大阪で栄えた相撲ですが、明治の初めに東京で相撲はいらないのでは?と言う声が出てきました。

この風潮は、東京府が出した一連の裸体禁止令が関係していました。

裸体は外国人から見た時にみっともなく、国の体面を汚す

と言うのがこの法律の根拠でした。

そして、1872年(明治5年)にふんどし一丁、上半身裸、下半身裸を取しまる違式詿違条例を出しました。この法律で、【相撲だけ裸体が許されるのはいかがなものか?】と言う論議が本格化したのです。また、【相撲は野蛮で文明開化の妨げになる】ということから禁止令を出すと言う意見もあったようです。

これに対して、相撲会所と東京相撲力士消防団を作り、相撲が大切であるということを示して生き残りを図ります。

その結果、1878年(明治11年)東京警視庁が相撲関係者に鑑札を発行して管理下に置くことで決着が付きました。要するに、東京警視庁に公認されたということです。

その後、明治期に7回の展覧相撲が行われた影響もあり、東京相撲は人気を取り戻すことができました。1909年(明治42年)には、国技館を建設するなどして、その人気を不動のものとしました。

この国技館と言う名前が【相撲が唯一の国技】と言う認識が一般に広く浸透していくことになります。また、古代より天皇と深いかかわりがあった事も認知されていったのもその理由にあるようです。

日本の相撲を紐解くと神話の時代からあり、日本の文化に深く根ざして人々の中に常にありました。先日、横綱日馬富士による暴行事件で何かと話題の多い日本の相撲ですが、そんな事件の後でも巡業をすれば老若男女みんなが笑顔でおすもうさんを見に来てくれます。

そんな私たちの笑顔を消さないためにも早く事件の解決をしてほしいものです。

 

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歴史好きが高じて日本史・世界史を社会人になってから勉強し始めました。基本的には、自分たちが理解しやすいようにまとめてあります。 日本史を主に歴ぴよが、世界史は歴ぶろが担当し2人体制で運営しています。史実を調べるだけじゃなく、漫画・ゲーム・小説も楽しんでます。 いつか歴史能力検定を受けたいな。 どうぞよろしくお願いします。
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