平安時代

保元の乱が起こった原因とは??

歴ブロ
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平安から鎌倉時代に移行する流れを知るのに避けられない争いが保元の乱平治の乱、そして治承・寿永の乱です。

それぞれを簡単にまとめると

  • 保元の乱後白河天皇崇徳上皇の間に起きた皇位継承問題が摂関家の内部争いと絡んで戦いに発展したもの
  • 平治の乱:戦後の処遇を巡って源氏と平氏が激突し、源氏が敗戦
  • 治承・寿永の乱平氏が政権の中枢部を握ったことで周囲からの不満が募ったために平治の乱の生き残り源頼朝が平家を討ち、鎌倉に幕府を開く 

このような戦いとなっています。

保元の乱は非常にわかりにくい戦いでわかりやすく図解で紹介したいと思います。

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『図解』保元の乱関係図

単なる皇位継承問題というだけでなく摂関家の内紛も絡まっている他、当時台頭していた源氏・平氏、崇徳天皇の前の鳥羽天皇時代からの政治顧問・信西の思惑も加わっていることも分かりにくい原因となっています。

皇位継承争い 後白河天皇(雅仁親王)
信西 が乳母夫
崇徳院
摂関家の争い 藤原忠通 藤原忠実・藤原頼長
平氏内部での争い 平清盛 平忠正
源氏内部での争い 源義朝 源為義
保元の乱関係図

図で表すと上のような感じです。

テストなどは、誰がどっちの派閥についたかを問われることが多いので把握しておきましょう。

保元の乱以前の朝廷内の様子や状況

朝廷内では、第76代の近衛天皇(1139年ー1155年、在位1142-1155年)が崩御した頃

崇徳上皇の子ども重仁親王を天皇に!」というグループ

「守仁親王(後の二条天皇が良いけど、その前に父親の雅仁親王(後の後白河天皇が就くのがふさわしい!!」というグループ

に分かれていました。

結果的に雅仁親王が後白河天皇として即位。負けた側は追い込まれて 保元の乱 を起こすに至ります。その際に摂関家の争いも絡んだのはさっきお話しした通りです。

保元の乱が起こる前の朝廷内の権力事情

この時期の摂関家、実を言うと以前ほど力を持ってはいませんでした。院政が本格的になっていた時期だったためです。

摂関政治から院政へ。権力の変遷イメージ

イラストの矢印より上の方々は実際に政治を行う際に最も影響力を持っていた方々、矢印の下の方々が当時の天皇と退位年。

白河天皇が上皇となった当初は堀河天皇や摂関家との関係も悪くなく院政を敷く意思はなかったのですが、働き盛りの中で堀河天皇を補佐していた人物が急死したことで風向きが変わります。

新たに天皇の補佐役としてついた藤原忠実はまだ年若く、政治的に未熟ということもあって白河院が上皇として天皇の相談役を務めることになったのです。

藤原家的には院政から再度摂関家に力を戻すいい機会だったのですが、上手くいきませんでした。

白河院による院政の開始

天皇の相談役から白河院による政治介入が開始された訳ですが、ここでちょっと問題が起きてきます。

院政と摂関政治の違いは、どちらの場合も実務能力に欠ける天皇を補佐する役割を持っているものの

  • 摂関政治の場合は臣下が天皇の補佐役を務める
  • 院政の場合は天皇OBである上皇が後見を務める

ということで、摂政・関白より院の方が強い権力を持つことになります。

そのため、白河院の政治的関与が強まり院政をしく事態になった時、堀河天皇の興味が趣味に向かってしまったのです。摂政や関白であればパワーバランス的に何とかなっても相手が上皇となると勝手が変わってきた訳です。

その堀河天皇も在位のまま29歳で崩御。5歳の鳥羽天皇が即位し、白河院による院政は続いていったのでした。

この白河天皇...プライベート面では荒れに荒れていました。

元々は摂関家の養女を中宮とし、彼女との間に堀河天皇の他4人の子を儲けています。夫婦仲も非常に良かったのですが…

28歳の若さで中宮が亡くなると食事もとらない程ショックを受け、彼女の死後は奔放な女性関係、男色関係を持つようになりました。時に関係を持った女性を寵臣に下賜したりしたことで御落胤説が度々噂に出回っています。

この女性絡みの信用のなさが白河法皇の孫にあたる鳥羽天皇とひ孫にあたる崇徳天皇との間に微妙な亀裂を入れることに。

 武士が保元の乱に絡んだ理由とは??

保元の乱以前に院政を行った3上皇は全員が仏教を篤く信仰。出家して法皇にまでなっており、六勝寺などの大寺院を造営して盛大な法会を行ったほか、紀伊の熊野詣や高野詣を繰り返しました。

ただでさえ古い土地制度の無理が出てきていた中、費用調達をするのに成功(じょうごう)など位や官を売る者が増え政治の乱れがさらに酷くなっていきました。

政治が乱れると、治安が悪くなるなどの負の面が出てきます。治安が乱れた時に誰が活躍する者と言えば軍事力を持つ者達でした。もちろん、摂関家を抑えるために武士の力を積極的に取り入れていた側面もあったようです。

そんなわけで、朝廷内では平氏や源氏などの武士が存在感を増すようになっていました。武士が保元の乱に関わっていたのは、そんな時代背景もあったようです。

崇徳天皇と周囲の関係

崇徳天皇の前に鳥羽天皇の話をしなければ崇徳天皇については語れません。

鳥羽天皇白河天皇の孫に当たる人物。当初、鳥羽天皇の元には白河天皇の養女・璋子(たまこ)が入内しました。顕仁親王(崇徳天皇)は、そんな二人の間に産まれた親王です。

後三条天皇~近衛天皇までの家系図

実のところ、この璋子には摂関家の長男との間に縁談があがっていたのですが、素行の問題によりお断りされたため、孫の鳥羽天皇璋子を嫁がせたという経緯があったりします。

鳥羽天皇璋子との間には崇徳・後白河天皇を含む五男二女が誕生し、1123年には息子の崇徳天皇が即位するなど順調かのように見えますが、それも白河法皇の後ろ盾があってこそ。1129年、白河法皇の崩御で璋子の状況が一変してしまったのです。

摂関家の状況を見てみよう

上述した璋子の結婚をお断りしたのが藤原忠実。堀河天皇を支えた年若かった補佐役です。忠実はこの一件で白河法皇と関係が悪くなり関白を罷免されています。

そこで白羽の矢が立ったのが息子の藤原忠通。若い頃から関白として様々な政治闘争の場数を踏んでいく事になります。その後、鳥羽院政時代に忠実が政界復帰すると、忠通は名ばかり関白となり父子関係に亀裂が入りました。

保元の乱のキーパーソン?藤原得子

さらに崇徳天皇璋子にとって悪いことは続きます。1134年頃、白河法皇の乳母の孫・・・いわゆる院近臣の身内である藤原得子が鳥羽院の寵を受けるようになりました。

鳥羽上皇得子の間に1139年体仁親王(後の近衛天皇が誕生。体仁親王は生後一か月でまだ子のいなかった崇徳天皇の元に養子に出され、1141年には鳥羽上皇が当時23歳の崇徳天皇に譲位をさせて3歳の近衛天皇を即位させています。この時点では徳上皇にも直系の重仁親王が産まれ、義母にあたる得子の元に養子として出していました。

※ この重仁親王の生誕を巡って崇徳天皇と藤原忠通の関係が悪化。関白忠通の娘との間に子はできず、違う女性との間に重仁親王が誕生したためです。

そんな中で近衛天皇の即位前後から『ある噂』が流れ始めます。「崇徳天皇の父親は白河法皇」「璋子が得子を呪い殺そうとした」というもの。

もちろん当時のことなので崇徳上皇の父親が誰かは知りようがありませんし、事実かどうかも怪しいものです。そのことで母親の璋子が罰せられることもあり得ません。

しかし、もう一つの『呪詛』に関しては当時立派な犯罪。結局璋子は出家するまで追い込まれ、得子の地位は盤石なものとなります。1142年には既に譲位した太上天皇の妻であるにも関わらず、異例の皇后即位となったのです。

崇徳天皇は母が出家まで追い込まれ摂関家との関係も悪化したことで、徐々に孤立を深めていくようになりました。

近衛天皇の即位と後継者争い

崇徳天皇が譲位し近衛天皇が即位する際、ある罠が仕掛けられていました。近衛天皇は『息子』としてではなく『』として即位するようになっていたのです。院政とは直系子孫の後見として政治を行う制度でしたから、仮に鳥羽上皇が引退し上皇崇徳上皇のみとなっても院政を敷くことは出来ない状況になってしまいました。

そうした中で病弱だった近衛天皇は17歳で跡継ぎのないまま崩御。次の天皇を決める事となります。

ここで少し注目してもらいたいのが

1142年に近衛天皇に譲位した時点で鳥羽院はご存命という点です。

崇徳上皇としては「養子に出した重仁親王を天皇に」という意図があっても、(前天皇の第一皇子・重仁親王が天皇の有力候補だったのは間違いないのですが)鳥羽天皇を含めて周りの人間も口説き落としていかなければなりませんでした。

得子だけでなく関白忠通、エリートとはかけ離れていたけど学者の家出身でその博識を武器に鳥羽法皇の政治顧問にまでなった信西などの思惑も入り乱れ、話し合いは縺れてしまいます。

忠通とは重仁親王の出生を巡ってわだかまりが残ったままですし、信西はもう一人の天皇候補・雅仁親王(=後白河天皇)の育て親(妻が雅仁親王の乳母、それが出世の助けにもなっていた)です。そして、得子は因縁の相手。

重仁親王が即位すると、それまでの既得権益層が一掃されるのは目に見えていましたから重仁親王の即位はどうしても阻みたいのが心情でしょう。

結局、政争を長年生き抜いてきた反崇徳派の思惑が通り、雅仁親王後白河天皇として即位しました。

こうして後白河天皇派の人々が政争に勝ったのですが…これらの動きで崇徳上皇は相当追い詰められたのが分かるかと思います。こんな裏事情から保元の乱が起こり、平安時代は終わりの始まりを迎えるようになったのです。

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歴ブロ・歴ぴよ
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歴史好きが高じて日本史・世界史を社会人になってから勉強し始めました。基本的には、自分たちが理解しやすいようにまとめてあります。 日本史を主に歴ぴよが、世界史は歴ぶろが担当し2人体制で運営しています。史実を調べるだけじゃなく、漫画・ゲーム・小説も楽しんでます。 いつか歴史能力検定を受けたいな。 どうぞよろしくお願いします。
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