イラストで分かる日本史の流れ【旧石器・縄文、弥生時代、古墳時代】

歴史の勉強は大まかな流れをつかむと良いと言うことで、日本史の流れをシリーズ化して記事にしていきたいと思います。この記事の他に、奈良・平安・鎌倉時代と順番に読んでいくことで日本史の大まかな流れをつかむことが出来ることでしょう。
第一回目は、旧石器時代から古墳時代までを駆け足で見て行きます。
重要語句や政策・出来事を詳しく知りたい方は、それぞれに記事を作成していますので、リンクに飛んでください。
旧石器時代【人々はどこから日本列島へやってきたの?】

日本列島がシベリア並に寒い気候だった時代。人々は打製石器などを使い、動物を狩ったり植物を採集したりしながら、移動して生活していました。
かつては日本列島に人が住むようになったのは縄文時代と言われていました。
ところが1949年、群馬県の岩宿遺跡で関東ローム層から石器が発見され、縄文時代より前にも人々が暮らしていたことが明らかになります。
その後、日本各地で旧石器時代の遺跡が相次いで発見されました。野尻湖周辺でも、ナウマンゾウなどの大型動物とともに、人類が活動していた痕跡が見つかっています。
旧石器時代の日本列島は、現在とは大きく異なる姿をしていました。
最終氷期の最も寒冷だった約2万年前には、海面が現在より100m以上低く、本州・四国・九州は一続きの大きな陸地となり、北海道もサハリンと陸続きでした。
その後、気候が温暖になるにつれて海面が上昇し、しだいに現在に近い日本列島の姿へと変化していきます。
では、人々はどこから日本列島へ渡ってきたのでしょうか。
実をいうと、人々が日本列島へ渡ってきたルートは一つではありません。
北方では、サハリンを通ってシベリアやアジア北部から北海道へ南下するルートが考えられています。この地域にはマンモスなどの大型動物も生息していました。
このほか、朝鮮半島方面から九州へ渡るルートや、南方から琉球列島を経て北上するルートなども考えられています。
このように、旧石器時代の日本列島には、いくつかの異なるルートから人々が渡ってきたと考えられています。
縄文時代/土器の発明で食生活がグレードアップ?

温暖化が進むと海面が上昇し、日本列島はしだいに現在に近い姿へと変わっていきます。寒い時期に海面が低下していたのとは真逆の変化で、海が内陸まで入り込んだ時期もありました。いわゆる縄文海進と呼ばれています。
温暖化に伴ってマンモスやナウマンゾウなどの大型獣が姿を消し、狩猟だけでなく漁猟やクリ・ドングリなどの植物採集を組み合わせて食料を得るようになりました。また、土器の使用や竪穴住居での定住生活も広がっていきました。
温暖化によって狩猟対象の動物が小型化したものの、栗やドングリなどの植物が豊富になったこともあって、縄文時代半ばに温暖な気候で最大規模で推計20数万人まで増えています。
かつて縄文時代の人々は、小規模な集団を作り、食糧を求めながら移動して生活していたと考えられていました。が、1992年から本格調査に乗り出した三内丸遺跡(さんないまるやまいせき/青森県)での発掘により従来の縄文人のイメージが覆されることになります。
遺跡では、縄文前期から中期にかけて数百人規模の集落が形成され、居住区、広場、墓、ゴミ捨て場なども備えていました。ここから、縄文人が何世代にもわたりその場に定住していたことが分かります。
また、遺跡からは矢じりや刃物の原料となる北海道の黒曜石や岩手県の琥珀、新潟のヒスイも出土していることから、遠方同士の集落の交易があったとされる証拠となります。
縄文人の食生活が飛躍的豊かになったのは【土器】の発明にほかなりません。
土器の発明により、食料の煮炊きが可能になり、それまで食べられなかった固い食べ物が職せるようになり、食の質が格段にアップしました。食生活の安定で定住化が進みそこに技術や文化が生まれたのです。
弥生時代…コメ造りの始まり

稲作に関しても弥生時代から始まったと私たちの世代では習ったものです。
しかし、研究が進みこれらの定説も覆されており、縄文時代の地層からも稲の化石が出土されていることがわかり、一部の地域で稲作※が行われていた事がわかっています。
※この頃は水稲栽培ではなく陸稲栽培だったようです。
コメを大量生産する水稲技術が渡ってきたのが、縄文時代後期から弥生時代にかけてのようで、朝鮮半島ルートで渡ってきたとされています。一説では、中国大陸での戦乱により玉突上に民族移動が起こったことで(寒冷化が一因とも)長江流域の民が日本列島に渡来人としてやってきたと言われています。
やがて稲作は西日本の主な平野に広がり、東日本へ定着しました。寒冷な北東北や北海道地方は気候条件の影響で普及・定着が遅れており、地域差がありました。
収穫したコメは高床式倉庫に貯蔵され、必要な分が脱穀されて玄米や白米に精製され、この時期に作られた弥生式土器で調理され食べられました。
初めて格差社会ができたのも弥生時代
食料調達が狩猟や採取の時代は、その日暮らしで蓄えがなく格差が生じる事もそれを奪い合うこともありませんでした。
しかし、弥生時代になると水田稲作で穀物の余剰ができ、高床式倉庫で貯蔵もできるようになりました。人々は、財産を蓄えることを覚えたのです。
財産が有れば争いの火種を生むのが人間の悲しいサガ…
つまり、稲作技術の向上は人々に豊富な食料と引き換えに【戦争】をもたらしました。
始めは小さな集落(ムラ)だったものが統合や再編を経て大規模な政治的集団(クニ)へと変化、弥生時代晩期には日本国内が内戦状態になります。
こうして、内戦を制した力のあるクニが国家を形成していくことになります。
戦いが繰り返され、集団が大きくなるにつれてその集団のリーダーが誕生します。これには、豊富な食料をもたらしてくれる人がリーダーになりました。
コメ作りには、種まきから収穫まで組織的に行う必要があります。そのため、集落全体の農業計画を立てたり、人々をまとめる能力が求められるために、この時代では農業経営のエキスパートが支配者として君臨していました。
こうして内乱状態が続いた日本国内では、紀元前1世紀ころには100以上の小国が存在していたと言われています。
邪馬台国の卑弥呼
日本は2世紀後半になっても、争いが絶えず内乱状態が続いていたと伝えられています。
しかし、長く続いた内乱を一人の女性・卑弥呼の誕生で平和が訪れることになります。
中国の魏志倭人伝によると以下のように書かれていました。
日本には邪馬台国をはじめとする数十の国があったが、卑弥呼が邪馬台国の女王になると30もの国が協力し邪馬台国連合が誕生した
その邪馬台国の卑弥呼とはどんな人物だったのでしょうか??
女王にとなり、民衆の前にはほとんど顔を出さずに宮殿の奥で従者1000人に囲まれて暮らしていたようです。生涯独身を貫き、その生涯を閉じた時には100人以上が殉葬したと言います。
彼女は、神の意志を聞くことができる巫女だと言われ、神の声を聞いて予言をしたり神に祈って雨を降らせたり、天災が起これば神の怒りを鎮める役割を担っていました。
しかし、卑弥呼はこれに終わらず、魏に外交使者を送り、従属する小国から税金を取り立て、朝鮮半島との交易にも力を入れていました。こうして、卑弥呼は政治・宗教だけではなく、経済を支配していたのです。
古墳時代…最初の統一政権である大和朝廷

卑弥呼没後から5世紀になるまでの日本の記録が著しく乏しいために、4世紀の日本は【空白の4世紀】と呼ばれています。
その空白を埋める数少ない史料【高句麗好太王碑】には、391年頃の条文に倭・百済・新羅をめぐる軍事記事が見られます(読解には諸説あり)。
これだけで4世紀末の日本に完成した統一国家があったと断定はできませんが、少なくともヤマト政権を中心とする勢力が対外関係を持ちうる段階にあった可能性はうかがえます。
この時期に突然、古墳が誕生している事もヤマト政権が形成されていたことがわかります。古墳が作られたのは、3世紀後半~7世紀にかけての事ですが、弥生時代とは明らかにスケールが違うことがわかります。
ヤマト政権がどのようにして生まれたかは謎だらけですが、大王を中心として豪族を従え、勢力を広げていったのは確かな事です。その勢力は、奈良盆地を中心に埼玉県まで達したと言われています。
また豪族が地方を治めるため氏姓制度や国造制(地方の支配権を保証するが、大和政権への奉仕を求めたもの)という制度が整えられます。
仏教が伝来し、有力な豪族でもあった 蘇我氏と物部氏の対立が本格化した結果、祭祀を司っていた物部氏が没落。全国的に仏教が広まり、次第に蘇我氏が政治の実権を持つように。そのことに不満を抱いていた崇峻天皇を蘇我氏が暗殺する事態にまで発展しました。
2026年1月7日 記事更新











