人物伝

いぶし銀な4代将軍・足利義持の魅力に迫る!!

足利義持(wikipedia)より

父親で3代将軍・義満と弟で6代将軍の義教という強烈な方々の間に隠れがちな将軍ですが、地味に良い仕事しているのが足利義持。このお人がいなかったら、もっと早くに戦国時代に突入していたことでしょう。

超個性的な室町幕府の歴代将軍様の中で、地味ながらも長らく安定した政権を築き上げた足利義持の人生がどんなものだったのか見ていこうと思います。

 

足利義持が生きた時代を見てみよう

 

足利義持は3代目将軍・義満と側室の女性との間に1386年に生まれました。

義満が既に室町幕府の将軍として君臨していた時期に当たります。

義満と言えば、

  • 寺社勢力を硬軟織り交ぜながら取り込む
  • 大名同士の抗争や守護大名家の内紛に首を突っ込み敵対する守護大名を挑発して討伐して、幕府の敵対勢力の力を削いでいく
  • 北朝と南朝に分かれて争いあっていた南北朝時代を終わらせる
  • 明との国交回復を図り、義満が民から『日本国王之印』と書かれた金印を受け取り、勘合貿易を幕府の財政を安定させる

などの功績を残しています。

 

それと同時に、義満や幕府に対して

  • 寺社勢力に対する硬軟のうち硬の対応をされた側の勢力
  • 守護大名同士の争いや内紛の末に衰退させられた勢力
  • 義満指導の下、南北朝の動乱に対する講和条約明徳の和約で『両統迭立』などの条件を知らされないまま南朝との和約を結ばれた北朝勢力
  • 義満らと和約を結んだにも関わらず、北朝が両統迭立を守っていないことに対する南朝勢力
  • 日本が明に臣従するような形で国交を結んだことに反発する勢力

など、急激に事を進めたために表立って見えなくとも一部勢力の間で不満が確実に募っている状況にありました。

 

室町幕府4代将軍・足利義持の誕生

 

義満の功績を見て分かるように多少強引ではあるもののやり手政治家なのは間違いありません。第4代将軍が義持に決まった背景にも義満の意向が多分に含まれています。

庶子には兄もいましたが義持が嫡氏として扱われており、1394年の12月に僅か9歳で元服した日に将軍として就任しています。年齢からも分かる通り義持は形だけの将軍で実権は義満が握り続けました。なお、義満は将軍の地位は譲っても家督までは譲ってはおりません。こういった事情は、後々義持義満に溺愛されたとされる義持の弟・義嗣との関係に深い傷を残していきます。

 

足利義持の弟・義嗣と父・義満の関係を見てみよう

 

義持と関係が悪くなった義嗣という弟は、

  • 義満を公家化するのを足掛かりに財政を立て直そうとしていた朝廷側の思惑
  • 権威を高めようとした義満の思惑

が一致したことから、義満に特別扱いされるようになったとも言われています。

※顔もよく、雅な趣味が得意なことから貴族受けしそうなのが義嗣でした。

朝廷側と幕府、両者の間に入ったのが日野康子康子藤原北家の名家で公家の序列としては上から4番目に当たる日野家出身で義満の室に当たります。

日野家は文官職を経てから大納言(太政官の次官に当たる、基本的には8世紀初頭に定められた四等官制に基づきます)の地位にまで就くことが可能な家柄でした。

康子は、当時の朝廷内で起こった出来事が不吉(天皇の在位中に天皇の父母が崩御した)なので准母を立てようとなった時にスポットを浴びたわけです。

 

天皇の生母と同等の地位を与えられた女性。内親王の場合が多く、一般に皇后または女院称号を与えられる。

コトバンク『准母とは』より

 

基本的に義持以外の義満の息子達は寺社勢力の元に送り込まれていました(当時は幕府のほかに寺社勢力も強い影響力を保っていたので内部に息子達を送り込んでパイプを繋ごうとした)が、義嗣は還俗して康子の猶子となります。1406年、義満49歳、義持21歳、義嗣13歳か14歳のことでした。

天皇の准母義満の室であり、間接的にとは言え義満天皇の父に准ずる立場を手に入れました。こうした事情が義満による皇位簒奪説の裏付けなわけですが、それ以外に義満が皇位簒奪を狙っていた明確な言動があった訳ではないので最近では否定されているようです。

義嗣は、そんな康子の猶子の立場となったため義満が優遇させていったのです。准母の猶子がしっかりとした立場を持っていないと権威付けにはなりませんから。

 

その様な状況の中で思い出してほしいのが

『家督は義持に譲っていない』

という事実。周囲から見れば溺愛と捉えられてもおかしくない状況です。義満の狙いを見定めていた者もいたのでしょうが、そうじゃない者も多くいたことでしょう。

そうじゃない者たちの中では

「家督を義嗣に譲るのでは?」
「将軍位を義嗣に継がせる気では??」

なんて話も実しやかに囁かれるようになったわけです。義持は義満存命中は大人しくしていましたが、義持にとって義満義嗣を煙たく思っていても不思議ではありません。実際に、義満義持は不仲だったなんて話も残っています。

 

そのような状況で1408年義嗣の元服が親王と同じ扱いで内裏で行われると、3日後に義満が息を引き取ります。時期が時期、状況が状況だけに暗殺疑惑もある突然の死でした。

 

本当の意味での将軍・義持の誕生

 

4代将軍義持は、父義満が亡くなった時には23歳になっていました。将軍位を継いだものの家督は相続していなかった義持義満が体調を崩した後すぐに危篤状態となったため遺言も何もない状況です。

そこに助け舟を出したのが管領の斯波義将でした。特に公家社会から圧倒的支持を受けていた義嗣でしたが、堅実・着実な手腕がウリの義将は引き続き義持が将軍位に就いたまま家督相続するのを良しとしたようです。

ちなみに、管領に長らく就いていた斯波義将も晩年の義嗣推しやら義満時代に行った(財政的にはプラスだった)勘合貿易を辞めさせるなど反感を買う政策を義持の元で行ったこともあって、義将が亡くなった後の斯波氏は少しずつ衰退していきます。

また、義嗣もこの後しばらくすると若くして亡くなって(享年25)います。

室町時代と言えば京都の室町を本拠地とした将軍のいる幕府だけでなく、関東地方統治のために設けた鎌倉府と呼ばれる統治機関のトップ(鎌倉公方)に足利将軍家の血縁者を送りこみ、補佐役に関東管領をつけるという政治体制を敷いていました。

義嗣が存命中、この鎌倉府はしっかりゴタゴタを起こしてくれました。上杉禅秀の乱です。妾の父親が禅秀という事情と義持による義嗣抑え込み対策に反発したため死に追い込まれてしまったようです。

上杉禅秀の乱を機に有力大名の抑え込みにも成功。混乱の続いていた室町時代に置いて比較的安定した政権を築いていきました。一方で、上杉禅秀の乱に関わった大名に対する処遇を巡り、義持(穏便派)鎌倉公方(処遇厳しめ派)が対立。室町幕府鎌倉府の対立が深刻化していきます。

これらの件からだけでも義持は力を持ちすぎた者を抑え込みながらもやり過ぎないよう気を使っていたと推測できますね。実際に義持協調路線派として評価されています。

義持は性格的には短気と言われていますが、政治手法は父の義満とは真逆。反感を買いにくいタイプの政治家でした。父とは不仲であり反発心から真逆の政治姿勢を貫いた見方もできますが、どちらかと言えば、父親が急激に進めた改革で生まれた歪みを治めるよう動いていたとする方が正しい気がします。

以上のように、義持鎌倉府という火種を残しながらも4代将軍として基盤を築くと5代将軍の義量(義持の息子)に将軍位を譲ります。これが1423年のことでした。

 

時期将軍・義教がくじ引き将軍とされた理由は義持にあった?

 

第4代将軍として執政していた後は息子・義量に将軍位を譲りましたが、将軍位を譲られた義量は生来病弱で享年19歳…現在の年だと17歳の若さで早世してしまいます。ということで、義持義量が亡くなった後も将軍代行として執政することになります。

 

そんな義持、どうやら自身が亡くなる前に

どうせ自分が死ねば勝手に将軍決めるんだから勝手にやれ

と言っていたようで次期後継者を指名していませんでした。これが6代将軍・義教がくじ引き将軍なんて揶揄される理由になってしまったわけです。

 

早死にの多かった義持の子の中で唯一元服した義量ということで義持義量への溺愛っぷりは結構なものだったそうですから、子の死をきっかけに精彩を欠くようになったのかもしれませんね。そんな感じで周囲の大名達の間がギクシャクした中で後継者を決めても、義持の死後、諍いの元になるだろうとも考えていました。つまり

「御神託によって決まったんだから文句言えないだろ」

という裏付けに繋げようとしたわけです。当時は寺社勢力の無理やりな訴えに強く出られないほど宗教の力は強かったわけですから義持の死の直前に就いていた管領も

「それなら石清水八幡宮で出家している、弟四人の名を書いたくじを引いて決めよう」

と賛成に回りました。

 

また、義持自身も信心深い方らしく、息子の義量が亡くなった後に『男児が生まれる夢を見た』のと神社で引いた籤で『男児誕生の結果が出た』のに

『今後男児が生まれない』前提の後継者選びを嫌った

という理由もあったと言われています。

さらに言うと、鎌倉府トップで義持と仲違いするようになっていた鎌倉公方持氏を後継者から完全に排除しようとする狙いもあったようです。一つの要素だけではなく、様々なことを検討した結果、くじ引き将軍が生まれたと言えるでしょう。

 

 

義持の死因は??

 

上記のような籤引きのやり取りが行われたのは1428年1月、義持が44歳の時になります。

新年ということで、神社や当時の管領・畠山氏の屋敷、お寺など出かける機会が多くあった義持は、気の使う仕事相手との酒が毎日続いたからでしょうか?お尻に出来物ができてしまいました。

浴室でその出来物を掻きむしると、その傷口に雑菌が入ったのでしょう。翌日には熱が出てお尻の傷口は腫れあがり座れなくなってしまいます。

結果、お尻の出来物が原因で敗血症となり、出来物をかきむしって10日後には帰らぬ人となってしまいました。

 

最期はあまりに突然であっけないものの、彼の治世は戦が少ないと近年評価されるようになっているそうです。

 

ABOUT ME
miumaga
歴史好きが高じて、日本史・世界史を社会人になってから始めました。史実を調べるのも好きですが、漫画・ゲーム・小説も楽しんでます。いずれ歴史能力検定を受ける予定。どうぞよろしくお願いします。