イギリスvs.フランス!百年戦争の詳細をみてみよう<前半戦>
経緯に関してはものすごく簡易的な説明となりますが...
領土問題を拗らせていた中でフランスのカペー朝が断絶し新たにヴァロワ朝が誕生したため、カペー朝と血縁関係にあるイングランド王エドワード3世が「自分にも継承権がある」と待ったをかけて始まったのが百年戦争です。
※王位継承争いの側面があるのでイギリス vs. フランスのタイトルは語弊があるかもしれません
今回は英仏両国で
- どんな人が活躍したのか?
- どんな経過を辿ったのか?
- その後どうなったのか?
これらの疑問を潰していこうと思います。
なお、百年戦争は100年と名前が付けられてはいるものの常に戦い続けていたわけではなく、幾度かの休戦を挟みながら進んでいきました。
長い期間なだけに両国とも国王も違えば国内情勢も時期によって変わるため、便宜的に1337年11月1日の開戦~ブレティニ・カレー条約で休戦するまでを前半、それ以降を後半として解説していきます。
なお、長くなりそうなので、今回は前半戦(1337~1360年)のみに焦点を当てていきます。
フランドルの反乱
エドワード3世はフランスに宣戦布告したものの...広範囲で大規模な戦争が行われていたわけではありませんでした。
最初の頃はフィリップ6世は応じず他の前線の諸侯達も戦いに乗り気ではなかったようで『親フランスのフランドル伯 vs. 親イギリスのフランドル市民』がぶつかったフランドルの反乱のように限定して発生しています。
イギリスとフランスの関係悪化が決定的になると、百年戦争の一年前にはイギリスはフランドルへ輸出していた羊毛の輸出禁止へ踏み切ったのです。
結果、生活に直接影響を受けたフランドル市民が立ち上がり、親フランスのフランドル伯が追い出される形で終わっています。
スロイスの海戦(1340年)
その後もエドワード3世は神聖ローマ帝国の皇帝とも結んで戦いを仕掛けるようになっていましたが、フィリップ6世はのらりくらりと交わし続けました。
神聖ローマ帝国は当時跳躍選挙の時代で対立王が立てられることも度々あったため、ずっとイギリス側についていたわけではなく勢力によってはフランス側につく者もいたようです。
この時はたまたまエドワード3世側についています。
一方でフィリップ6世は直接対決を避けつつも、制海権を獲るためにイングランド沿岸部を襲ったり海上補給路を断つような作戦を取っていました。勿論、イギリスもこれに対抗します。
これが本格的にぶつかったのが1340年のスロイスの海戦。百年戦争の海戦の中でも主要な海戦とされています。
戦力でいえばイギリス側の方が若干不利でしたが、長弓(ロングボウ)兵の有無が勝敗を決めました。
結果は、イギリスの大勝。フランス側は溺死者、捕囚となった末処刑された者達を多数出したそうです。
ロングボウは13世紀にイングランドがウェールズと戦った際に散々苦しめられた武器で、その後ウェールズがイングランドと和平を結んで統一して以降は自軍に取り入れ装備するようになりました。
この戦いを機に元々フィリップ6世もフランスの諸侯達もエドワード3世が王位継承権を主張しても「何言ってんだ?こいつ」状態だったのが現実味を帯びることになりました。
逆に陸戦でのイギリス軍はパッとせず、同年に今後に向けての戦いのため2年間の休戦条約を結んでいます。なお、この休戦条約の間にフィリップ6世はイギリスを追い込むためにあることを仕掛けていました。
フィリップ6世が仕掛けたこととは?
百年戦争の原因の一つとなったスコットランド王の引き渡し問題。
イギリスを統一したいエドワード3世は百年戦争が始まる前からスコットランドと戦っており、窮地に陥ったスコットランド王がフランスへ逃げ込んでフランス王が匿うという構図が出来上がっていました。
地図を見ると一発で分かりますが...イギリスと関係の悪化していたフランスはスコットランドと自国でイギリスの中心でもあったイングランドを挟撃できる形になることから、スコットランド王の引き渡し要求を断っていたのです。
このスコットランド王をフィリップ6世は休戦中に帰国させており、イギリスは南北への対応を迫られることになりました。
ブルターニュ継承戦争
休戦中にフランスはスコットランド問題を再燃させることに成功させる一方で、イギリスはフランスのブルターニュ公の継承問題に積極的に介入。
ブルターニュはイギリスと地理的にも近く、古代にブリテン島から移住したケルト人が住んでいたことやイングランド王から伯爵位を与えられていたことなどからも非常に近い関係にありました。
この継承問題は戦争に発展。二人のジャン=ド=モンフォール親子とシャルル=ド=ブロワの戦いが始まります。
息子のいなかった前ブルターニュ公は娘婿シャルル=ド=ブロワとの結婚の際に公位継承を約束していたのに、正式に次の後継を指定することなく亡くなったためです。こうしてジャンはシャルルの公位継承に待ったをかけることになりました。
英仏の休戦協定の期限が切れる前にフィリップ6世はこの継承問題に決着をつけたかったのですが間に合わず、エドワード3世の上陸を許すことになります。
1341年から65年と長い間戦いは時折休戦を挟みながら続いていきました。1343年に休戦協定が結ばれましたが、この時点でイギリスは拠点を作り上げることに成功させています。
エドワード黒太子の参戦とフィリップ6世の死
これまでは内戦を煽ってみたり直接対決じゃない戦いが多かった訳ですが...
エドワード3世の息子・エドワード黒太子の参戦により戦況に大きな変化が生まれます。16歳で初陣を果たしたクレシーの戦い(1346年)では負けそうになりながらも劣勢を覆し勝利を飾ったのです。
ここでもイギリス率いる長弓隊が活躍し、重装騎士+弩(おおゆみ)隊で構成されたフランス軍は以後敗戦が続きます。
さらにイギリス側は初めて大砲を使った戦術を用いたと言われています。
こうして英仏間の玄関口となるフランスの港湾都市カレーをエドワード黒太子は占領(1347年)しました。
カレーはイギリスから格段に物資や兵の補給がしやすくする戦争の上で非常に優位となる場所です。
※この辺りの時期にスコットランドもエドワード3世に抑えられています
一方、クレシーの戦いの裏でフランドルはフランス陣営の勝利に終わりイギリス勢力が一掃されましたが、フランス陣営にとってクレシーの戦いの大敗とカレー占領は経済的にも大混乱をもたらす結果となっています。
というわけで、フランス貴族出身でアビニョン捕囚時期のローマ皇帝クレメンス6世が仲介役に立ち休戦協定が結ばれました。
そんな最中、ヨーロッパではペストが広がり始めていきました。あまりに被害が大きくなりつつあったため、休戦を恒久的なものとするか模索され始めたのです。
ペスト(wikipedia)より『中世ヨーロッパにおけるペストの伝播(第二のパンデミック)』を改変
ところが、フィリップ6世はそんな大混乱の最中1350年に亡くなり、後継者に息子のジャン2世がつくことになると状況は変わりました。
ポワティエの戦い
フィリップ6世が亡くなり、ジャン2世が王位についた後も完全に休戦させるための話し合いは続けられました。両者の間で下のような合意がなされようかという時...
最高責任者であるジャン2世がこの合意をひっくり返してしまいます。こうして百年戦争は再開されていくことに。
黒太子は騎行(騎兵による生産拠点である村落への襲撃)を開始、ジャン2世はこれに対抗すると黒太子とポワティエで直接対決に発展しています。
このポワティエの戦いでジャン2世はイギリスに捕まり、64年までイギリスで尊重された捕虜生活を送った末に亡くなっています。
ジャン2世が即位してから5年目で、百年戦争から2代目の国王は表舞台から退場したわけです。
賢明王・シャルル5世の登場
父王であるジャン2世が捕まり、摂政としてフランスの統治を代わりに行ったのがシャルル5世です。彼が摂政となった後、
- ポワティエの戦いでの大敗
- 黒太子の騎行で農村部が荒廃していた
- 傭兵崩れによる治安悪化
- ペストへの社会不安
などから農民反乱ジャック・リーの反乱が起こるほど、フランス情勢は不安定になっていました。
当然、情勢不安があると休戦を...という話も出てくるわけで、ジャック・リーの乱以前から話し合いは続けられています。
この話し合いの中で、捕虜生活中のジャン2世は以前一掃した「イギリスのフランス王位を諦める代わりに領地を認めろ」という休戦条件を認めて「条約を結ぼう」と心変わりしていたのですが、今度はシャルル5世がこれを認めませんでした。
黒太子に騎行を再開され散々挑発されても乗らず、イギリスの軍資金が尽きるのをひたすら待ったうえで、アビニョン捕囚時代の教皇インノケンティウス6世の仲介によって休戦協定・ブレティニー=カレー条約を結んだのでした。