ゲルマン民族の大移動【中世ヨーロッパへの転換期】
ローマ帝国の分裂と滅亡でも軽く書いてありますが、ローマ帝国の分裂に大きな影響を与えたのがゲルマン民族の大移動です。
今回は古ゲルマン社会がどんなものだったのか大移動によってローマ帝国が分裂した後、どんな国が出来たのか?などをまとめていきます。ちなみに下の画像は同時代の世界の国々の様子です。
ヨーロッパの民族
そもそもヨーロッパにはどんな民族の人達が住んでいたのか?ここら辺から整理していこうと思います。
まず、ヨーロッパを活動の舞台としていたのは主にインド=ヨーロッパ語族の人達です。
比較言語学の用語で、共通の祖先から分化したと想定される言語のグループを指す。これらは互いに親戚関係にあるといい(中略)インドヨーロッパ語族、セム語族、ウラル語族、ドラビダ語族など、さまざまな語族が知られる。
語族とはーコトバンクーより
具体的に言うと、紀元前のヨーロッパには
- 地中海世界:ギリシア系(ギリシア人・マケドニア人など)・ラテン系(ローマ人など)
- イベリア半島・アルプス以北:ケルト系(ガリア系・ブリトン人・スコット人など)
- 北方:ゲルマン系(ブルグント人・アングル人・サクソン人・ゴート人・デーン人・ノール人など)
こういった人達が住んでいました(※こちらも言語による分類です)。
そこからローマ帝国が勢力を拡大するにつれ、紀元前後の頃になるとローマ人による征服と同化を受けたケルト系の人々がその活動領域を狭めることとなります(ブリトン人やスコット人はブリトン諸島にも渡っています)。
こうして地中海地方にはラテン系民族、西ヨーロッパのゲルマン系民族、ブリテン諸島とフランスのブリュターニュなどの北西ヨーロッパにケルト人といった分布が出来上がっていきました。
なお、東ヨーロッパにはスラブ系民族が暮らしています。
一方でアジア方面からウラル語系・アルタイ語系民族(アヴァール人・マジャール人・トルコ人など)との関わりも見逃せません。彼らとの接触を繰り返した結果、ハンガリーやフィンランドといった一部ヨーロッパではアジア方面から移住した遊牧民を祖とする言語が残っています。
古ゲルマン民族の生活
このような民族たちが住んでいた古代のヨーロッパでしたが、その世界を一転させたのがゲルマン民族による大移動でした。古代から中世へ時代が移る大きなきっかけとなっています。
そんな民族大移動をする以前のゲルマン人の社会を古ゲルマン社会もしくは原始ゲルマン社会なんて呼んでいます。
この社会を知る史料として残っている代表的なものが
- 『ガリア戦記』 カエサル(前1世紀半ば)
- 『ゲルマニア』 タキトゥス(1世紀末)
となります。
こういった史料から分かっているゲルマン人は
- メインは牧畜と狩猟
- サブで大麦・燕麦などの穀物、エンドウ・カブラといった野菜を栽培
- 土地に廷略して小集落を形成
- 約50もの部族集団(キヴィタス)を築く(←一種の戦士団のようなもの)
- 貴族・平民・奴隷の身分階層性はすでに出来上がっていた
- キヴィタスは貴族から選出された一人の王、または数人の首長を抱いていた
- 最高機関は民会
- 小事は首長たち、大事は人民全体で協議
- 満足しない場合:ざわめきによって拒否
- 賛成の場合:フラメア(投槍)を打ち合わせる 武器を持って賞賛することが最も名誉ある賛成の仕方だった
- 議会は全会一致が建前だったが、実際には貴族主導の決定がなされた
こういった生活を築いていきました。
加えて、古ゲルマン社会では従士制と呼ばれる『有力貴族が平民(または貴族)の子弟からなる従士を私兵として抱えていた』制度でも知られています。
これらの基本は後に作られていったゲルマン諸国などにも影響を与えていきました。
中でも従士制はローマ帝国の恩貸地制度と合わさって封建的主従関係の起源になったと言われており、この封建社会の下で中世ヨーロッパ社会が築き上げられていくこととなります。
キヴィタスといった戦士団のような集団を作り上げた件や武器による賛成表明を最高の名誉とした件からも分かるように、ゲルマン民族は戦闘派・武闘派が名誉とされるような集団でした。
帝政ローマ末期のローマ軍の殆どがゲルマン人傭兵で占められていたのは偶然ではなかったようです。
古ゲルマン社会が信奉した宗教とは?
ローマとのかかわりが深くなったゲルマン民族達は、やがてキリスト教が信奉するようになっていきます。
なお、彼らが信奉していたのはキリスト教の中でもアリウス派と呼ばれた宗派でした。当時はローマから追放された側の異端なキリスト教の教えです。
ローマから追い出されたことで辺境にいるゲルマン人への布教活動が活発になり、主に東ゲルマン諸族に伝わっていくことになっていたのです。
ゲルマン民族の分類
語族の分類としては、東・西・北と分けられることが多いのですが、ゲルマン民族の大移動で主に関わってくるのは東ゲルマン人と西ゲルマン人になります。
- ブルグンド人
- 東ゴート人
- 西ゴート人
- ヴァンダル人
- ランゴバルド(ロンバルド)人
- ゲピーン人 など
- フランク人
- サクソン(ザクセン)人
- スエヴィ人
- アレマン人
- アングル人
- ジュート人 など
ゲルマン民族の大移動
大移動が始まる以前は割と平和的に少数の移住が主でした(略奪を目的にした者達がいたことも確かですが大々的なものではなかった模様)。
少数の移動が続くうちに約50もあった部族集団・キヴィタスが10あまりまで集約されるようになり、そのような変化と共に国王や首長の権力も強化されていきます。
この集約されるようになった大部族はシュタムと呼ばれており、4世紀後半に入ってからの大移動はシュタムを単位として行われていました。
大移動の直接的な原因にはアジア方面からのフン族の侵入があったと言われています。
なぜフン族が移動していたのか詳細は分かっていません。ただ、フン族が侵入を行った大元の原因は似たような時期に起こった寒冷化による食糧不足説が最有力では?と考えられているようです。
『東の方からの異民族の侵入』ということで、最初に影響を受けたのは東ゲルマンの諸民族たちでした。
そんなわけで、西ゲルマンの諸民族たちが大移動を行うようになった頃には、東ゲルマンの諸部族達は既に原住地から遠く離れたハンガリー平原(パンノニア)や黒海北岸のステップ地帯に移住を終えており、原住地付近に残っていた多くの者は西ゲルマン諸部族となります。
ゲルマン民族による国家の成立
既に衰退しはじめていたローマ帝国はゲルマン民族の大移動により完全に分裂。395年には東西に分かれることとなりました。
ちなみにゲルマン民族の大移動が本格的に始まったのは375年。もろに影響を受けてしまったのが分かります。
分裂後のローマ帝国のうち、ゲルマン人に大きな影響を受けたのは西ローマ帝国でした。度重なる侵入に本拠地のイタリア半島の維持さえ困難となり、とうとう476年にはゲルマン人傭兵隊長のオドアケルにより滅ぼされてしまいます。
※詳説世界史研究 山川出版社『5世紀のヨーロッパ』『アングロ=サクソン七王国』を改訂
【ゲルマン民族により作られた諸国家の動向】
東ゴート族がフン族に追われ、下ピート王国の隣のパンノニア(ハンガリー平原)へ移住
西ゴート族がフランス南部~イベリア半島を支配
ヴァンダル族が北アフリカ~地中海を支配
ガリア(←地域名、現フランスの辺り)へ既に侵入していたブルグンド族が本格的に支配開始
ブリトン諸島でアングロ=サクソン人による多数の国家の他、先住していたブリトン人による小国家が覇を争う時代が始まった
ゲルマン人傭兵オドアケルによって皇帝ロムルスが追放された
オドアケルがイタリア半島に王国を立てる
フランク人が作っていた小国家群をサリー人のメロヴィング家が統一。現在のフランス北部を支配した
東ゴート人がオドアケル王国を滅ぼし、東ゴート王国を立てる
大移動の後はこういった複数のゲルマン人による諸国家が誕生していますが、多くは短命政権に終わっています。その中で一線を画した国がフランク王国でした。
フランク王国は後にフランス王国、イタリア王国、神聖ローマ帝国の母体となり、中世ヨーロッパに大きくその存在感を発揮させることとなっていきます。