(元)関東管領が起こしたクーデター上杉禅秀の乱について
室町時代、1416年の関東地方で起こった鎌倉公方と対立する前関東管領・上杉氏憲(禅秀)による反乱です。
武田信玄絡みで甲斐の歴史を紐解いていくと、どうしても避けられないこの戦乱についてまとめていきたいと思います。
上杉禅秀の乱の経緯
1416年前後の状況を少しおさらいしていきます。
室町時代の政治の中心部といえば京都の室町に置かれた幕府です。鎌倉時代から始まった他の武家政権と同様に朝廷の権威も無視できませんでした。他の時代と違うことと言ったら朝廷が二つに分かれていたこと。
それぞれの朝廷(北朝・南朝)が正当性を訴え抗争を続けていました。今回のテーマ『上杉禅秀の乱』前には一応和睦して朝廷は統一されますが、和睦の前提条件を北朝が破っているため後南朝として抵抗活動を続けています。
幕府の本拠地が京でしたから、気の荒い武士の多い関東十か国(正確には関八州+伊豆・甲斐)を統治するにはある程度大きな組織が必要です。その組織が鎌倉府。鎌倉府の長官である鎌倉公方には将軍家の分家の者がつき世襲化させていきました。将軍家の分家ということで重要組織だと分かります。
一方で鎌倉は三浦半島の付け根の西側に位置し南は相模湾で他の三方を山に囲まれた土地で天然の要害で、北には奥州探題・羽州探題といった陸奥国や出羽国を統治するために個別に役職が必要になるほど厄介な地域と隣接しているため、鎌倉府と南朝勢力に結びつかれると対応が困難と幕府は認識していました。
つまりは鎌倉府にも幕府には逆らえないけど統治できるだけの権限を持たせる必要があったのです。ですが、当時の一大権力者の足利氏の分家ですから時代と共に関東での鎌倉府の存在感は幕府が求める以上にどんどん増していくことになります。
なお、少しずつ悪化していく鎌倉府の関係を考えて、幕府側も鎌倉府が権力を持ちすぎないよう鎌倉府の統治範囲(奥州や羽州にまで拡大)を広げつつ奥州探題の任命する人物を厳選したり以前から鎌倉府と対立していた有力国人を直臣にしたりするなど鎌倉府を牽制する動きも見せています。
鎌倉府の実権を掌握しようとした人物
乱の名前から『上杉禅秀』が多大な権限を有していた鎌倉府の実権を掌握しようとして失敗したんだろうと推測できますが、単に上杉禅秀だけが実権を握ろうとしたとは言い切れません。背後には鎌倉公方の座を巡る争いと関東管領の座を巡る争いも見え隠れしてきます。
年代 | 出来事 |
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1409 | 3代鎌倉公方・足利満兼が死去 |
足利持氏が12歳?で鎌倉公方に就任 | |
1410 | 叔父の足利満隆による持氏への謀反の企みが噂に流れ、持氏が関東管領で山内上杉家当主・上杉憲定の元に逃げ込む事件が起こる ※1 |
持氏が元服 | |
1411 | 1410年の事件の影響で上杉憲定が関東管領を辞職 |
犬懸上杉家の上杉禅秀(氏憲)が関東管領に就任 足利満隆とその養子・持仲(持氏の異母弟)に接近 ⇒ 持氏に代わり、鎌倉府の実権を握ろうとする動き = 持氏は禅秀を疎ましく思うようになり、山内上杉家は犬懸上杉家の急速な勢力拡大を警戒するように |
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1415 | 鎌倉公方の持氏と関東管領の上杉禅秀が衝突 ※2 ⇒ 氏憲が関東管領を更迭される |
山内上杉家出身で前々関東管領の憲定の息子・上杉憲基が関東管領に就く | |
1416 | 上杉禅秀の乱が勃発 |
※1.反憲定陣営と足利満隆が結びついたことが原因とされる。憲定の仲介で満隆が謝罪し、持氏の異母弟が満隆の養子となって決着した。ただし、この件が契機となり反憲定陣営の動きが活発化。
※2.上杉禅秀の家臣が出仕しなかったのを理由に所領を没収。これに抗議したため氏憲は罷免された。
上杉禅秀の乱から遡ること7年前、3代目の鎌倉公方が死去し跡を継いだのはまだ幼年の持氏でした。現代の年齢だと10歳か11歳…小学4・5年生の年齢です。
持氏の叔父・足利満隆は幼年の甥を支える方ではなく、乗っ取る方を選びます。反憲定派と結びつき持氏を支えた憲定(その後1413年没)を失脚に追い込んだのです。
関東管領・上杉憲定は、満隆が謀反を企てているという噂が流れて鎌倉公方の持氏が憲定の元に逃げ込んだ事件をきっかけに関東管領の地位を追われています。その後、関東管領の地位を得た犬懸上杉家出身の上杉禅秀(氏憲)。鎌倉府内で一定の地位を築いていた山内上杉家にとっては非常事態に他なりません。
さて、当時の鎌倉府に置ける最高権力者である持氏の視点に移してみましょう。
少なくとも持氏は『満隆による謀反の噂を聞いて関東管領である上杉憲定の元に向かった』事実から両者の間にはある程度の信頼関係が築かれていたと考えられます。
その憲定を失脚に追い込み、明らかに自分の権力を剥奪させようとしている叔父やその味方をしているであろう上杉禅秀。せっかく補佐役の地位を得ても信用できるはずもなく、禅秀よりも憲定の息子・憲基を重用するようになります。禅秀にとっては非常に面白くないはずです。
そんな中で起きた禅秀の家臣の所領没収事件。禅秀が病を理由に出仕拒否したのは、持氏・山内上杉家にとっては待ちわびた事態でもありました。
上杉禅秀は鎌倉府の中での立場は急速に悪化したことで1416年に足利満隆・持仲と共に持氏排除の計画を企てはじめます。
こうして禅秀の娘婿に当たる岩松満純や那須資之、千葉兼胤の3名のほか、関東10ヶ国でも縁の深い者(この中に武田信玄の先祖がいる)や持氏に不満を抱いていた者達、さらに地方の国人衆を加えて持氏への反乱『上杉禅秀の乱』を引き起こしたのです。
上杉禅秀の乱による影響
京都に目を向けてみると、室町幕府は足利義満の子供・第4代の足利義持が将軍を務めていました。
第4代将軍として即位したのは義持ですが、当時の武将や公家の中には義持の他の将軍候補として容姿端麗で頭の切れる(義満の四男または五男の)義嗣という弟の名前が挙がっていました。
足利義満はそんな義嗣を溺愛していたと言われていますが、生前に将軍位をおりて義持にその地位を譲っているのをみると義嗣を将軍位につけようという意図はなかったように思います。
それでも他の兄弟と差をつけた父親からの溺愛ぶりだったり家臣達の時期将軍候補として名前が上がったりしているので、義持は心穏やかではいられなかったでしょう。実際、義持と義嗣の中は険悪でした(義嗣は一度北畠氏と結んで挙兵する騒ぎを起こしています)。
禅秀の話から何故急に室町幕府の話を…?となるかもしれませんが、上に出てきた将軍・義持の弟、義嗣は禅秀の娘を側室としている接点がありました。
反義持派や幕府そのものの反対勢力が上杉禅秀の乱で結集する可能性が出てくるのです。義嗣を担ぐ幕府内の家臣達、さらには後南朝の勢力なども加わると非常に厄介なものとなります。
上杉禅秀の乱が鎌倉府内だけで収まるのであれば幕府としても鎌倉府の力を削げるでしょうし内心歓迎したかもしれませんが、幕府内にも火種がある以上黙って見ることはできませんでした(持氏も持氏で幕府に何か仕掛けようという動きをしていたため、幕府が持氏を支持していたわけではない)。
駿河今川氏、越後上杉氏、信濃守護の小笠原氏、北朝方に属した佐竹氏、鎌倉公方から警戒されていた宇都宮氏といった厳選したメンバーに命をだし、討伐へ。一度は鎌倉府を掌握した禅秀らですが、幕府からも軍を出されるとなると戦力が足りません。結局、禅秀・満隆・持仲は追い込まれ自害しています。
将軍の弟・足利義嗣はこの乱の混乱の最中で出奔する騒ぎを起こして捕らえられ最期は殺害されました。
さらに幕府内の裏切り者として、管領の細川満元、元管領の斯波義教などの超大物の他に畠山氏や赤松氏、土岐氏、山名氏などそうそうたる顔ぶれの守護大名の名前が挙げられ、地位を剥奪されたり謹慎や配流の刑に処せられています。
室町時代の最盛期を築いたとされる足利義満の次の時代ですらこれだけ荒れていたわけで、近い将来戦国時代に移行する片鱗が見える気がします。