第二次世界大戦後の日本の政治史 ②
戦後の日本の歴史は、政治史の流れを見ていけばつかめると思い、第二次世界大戦後の日本の政治について書いていきました。前回は、戦後の5つの時代分類と沖縄返還くらいまでの政治史を書いていきました。
今回は、田中角栄内閣~平成直前くらいまでの政治史を書いていきたいと思います。
稀代の政治家・田中角栄内閣 【1972年~1974年】
田中角栄は、急激な高度成長によってもたらされた過密・過疎・環境破壊・公害を無くし、豊かな国を目指す【日本列島改造論】を国民に提示しました。この田中内閣では日中国交正常化や福祉国家の基礎固めなどを行ったという特徴があります。
当時の外交面では日中国交正常化が最重要課題でした。1972年8月には米国・ニクソン大統領と9月にはヒース英首相と会談し、日中復交について意見交換をし、事前調整を進めていきました。
そして、1972年9月25日に大平外相ともに北京に訪問し、毛沢東主席、周恩来首相と会談を重ね、29日には日中共同声明の調印にこぎつけ、満州事変以来の日中の悪い関係に終止符を打ちました。
福祉国家の基礎作りでは1973年に【福祉元年予算】を編成し、サラリーマンを中心に大幅な減税を行いました。一方で、社会保障関係予算を28%以上増額し、福祉年金の五割引き上げ、厚生年金の増額、拠出制国民年金の5万円年金実現を断行しました。
翌1974年度予算でも、二兆円と言う大減税を行い、社会保障関係予算を38%以上に増やし、厚生年金等の物価スライド制の採用に踏み切るなどの年金制度の改革をしました。
しかし、第二次田中角栄改造内閣を行った直後に田中金脈問題が明るみになり、内閣改造後わずか15日で総辞職しました。
三木武夫内閣~鈴木善幸内閣まで【1974年~1982年】
この頃の政治は、田中角栄の金脈問題発覚後、政治と金の問題が明るみになるようになり、国民の政治不信が大きくなり、政治資金規正法の改正などで政治献金の規制強化を図るようになります。
世界では、ソビエト連邦がアフガニスタンに侵攻し冷戦構図が出来上がり、日米関係の強化が外交の優先事項でした。
三木武夫内閣
田中角栄が金脈問題により総辞職を受け、三木武夫が内閣総理大臣となりました。
前総理が政治と金で辞職した事を受け、三木は【クリーンな政治】を掲げ、その職務に当たりました。政策としては、政治資金規制法の改正を行い企業団体等の政治献金規制強化を行いましたが、自民党内の政治基盤からの資金にメスが入る事になるので党内から強い反発が出ました。
三木自身は、政治献金全面撤廃を模索していましたが、党内の反発が強く個人や企業の政治献金の金額上限を設ける事で決着つきました。この法案で、従来より政治資金が集めにくくなり、政治資金パーティーが発達しより巧妙な手口が現れる事になりました。
福田武夫内閣
1976年に自民党は総選挙で議席の過半数割れを起こす事態に陥るのですが、そんな状況で総裁になったのは福田武夫でした。
この内閣では1977年に王貞治のホームラン記録世界一を受け、国民栄誉賞の創設を行ったほか、1978年には日中平和友好条約を結びました。
当初、福田は2年で大平正芳に総裁を譲るとしましたが「世界が福田を求めている」と掲げ政権譲渡を拒否し総裁に再選すべく大平と一騎打ちになりますが、大差で敗れ辞職しました。
現職の総裁が総裁選で敗れるのは後にも先にも福田武夫だけでした。
大平正芳内閣
大平内閣で行った国内政策では田園都市構想を、外交では環太平洋連帯構想や総合安全保障構想などを提唱しました。
1979年にはソ連のアフガニスタン侵攻を機に新冷戦時代と呼ばれる時代に入り、日本では日米の連携強化を掲げると日本としては初めて同盟国というキーワードを使いました。
1980年のモスクワオリンピックをボイコットし「西側陣営の一員として」対米協力路線を鮮明にし、後の中曽根康弘内閣へと継承されていきました。
鈴木善幸内閣
1980年5月に、社会党提出の大平正芳内閣不信任案が出され、多数の自民党反大平派が欠席したために不信任案が可決されてしまいます。これに対抗し大平は衆議院を解散【ハプニング解散】しますが、総選挙中に大平が急死しますが、選挙の結果は、自民党の圧勝でおわります。
その後の総裁選では、反主流派が総裁候補をださなかった事で、大平派の幹部だった鈴木善幸がそのまま総裁となり首相となりました。鈴木は、片山哲以来の日本社会党在籍経験のある自民党総裁でした。
増税なき財政再建を進めますが、批判を浴び志半ばで退陣します。しかし、鈴木内閣の政策方針は中曽根康弘内閣へ継承されていきます。
長期政権の中曽根康弘内閣【1982年~1987年】
2019年に101歳の長寿で亡くなった中曽根康弘は、1982年に内閣総理大臣に就任すると、様々な改革に着手しました。在任期間1806日の中で多くの功績を残しました。
政権発足は、まだ影響力が強かった田中角栄に翻弄される政権でしたが、1985年に田中角栄倒れると自民党単独政権を目指し総選挙をし、衆・参議院で圧勝し衆議院では300議席を獲得するなどの戦後最大議席を獲得しました。
イギリスのサッチャー政権やアメリカのレーガン政権と共に【小さな政府】を目指し、大規模減税や3公社民営化などの行政改革を勧めました。
これにより国鉄・電電公社・タバコの専売公社が民営化され、JR・NTT・JTといった現在のお馴染みの大企業が誕生しました。
外交では、日米関係が最悪の状態でしたが、アメリカが執心していた防衛費の増加と対米武器技術供与の問題の解決を手土産に訪米を果たし事で、日米の関係が親密になって行きます。
また、防衛費の予算計上額を日本の国民総生産 (GNP) の1%以内にとどめる方針を放棄し、長期計画による防衛費の総額明示方式に切り換えて急速な軍備拡張への新たな歯止めとしました。この決定により、日本政府はより積極的な防衛政策の立案が可能となり、米軍との協力関係はさらに緊密となりました。
しかし、1983年の衆議院総選挙で自民党は過半数をとれず、新自由クラブとの連立内閣が誕生する事になります…
自民党政権の混迷と55年体制の崩壊
中曽根内閣は消費税案を提出しますが廃案となり、後継総裁を指名して中曽根内閣は総辞職しました。次に首相となったのが、消費税の生みの親、竹下登でした。
消費税導入の竹下登内閣と汚職事件
1989年に消費税を導入した竹下内閣ですが、政治家・官僚・業界の癒着体質が次々と明るみとなり、竹下登はリクルート事件で、ロッキード事件では田中角栄が逮捕し起訴されますが、被告人死去により控訴棄却となりました。
リクルート事件では、リクルートの会長が子会社の未公開株を格安で政治家などの有力者に譲渡した事件で、前内閣の官房長官・藤波孝生が起訴され、政官の汚職構造が露呈し、竹下登内閣が倒れる原因となりました。
1990年代に入ると、東京佐川急便事件、ゼネコン汚職事件などが起き、東京佐川急便事件では、会長らが政界に政治献金をバラまいた不正献金事件で、金丸信自民党副総裁などが起訴された。また、ゼネコンと呼ばれる大手総合建築会社が公共事業を誘致・落札するために闇献金を行ったゼネコン汚職事件を発覚し、 中村喜四郎元建設大臣が起訴され、有罪判決が出ました。
その間、竹下登から宇野宗佑に首相が移り変わりますが、宇野内閣はわずか2か月の短命内閣となりました。
終わってみれば長期政権だった海部俊樹政権
1989年~1991年は、海部俊樹内閣が成立した頃は、バブル景気の最中で景気は良かったが、一連の汚職事件で国民の政治不信が強まっていた時代でした。先の参院選では大敗していた事でねじれ国会となっていました。
外交では、1989年に湾岸戦争が起こり、その戦費として130億ドルの資金を多国籍軍に提供しました。この施策に関し、右派からは「金だけだして人出さない」「似非国際貢献」「一国平和主義」と言われ、左派からは「アメリカの言いなりになり無駄金を拠出した」と批判されるなどの左右の知識人から批判を浴びることになりました。
停戦後は、自衛隊創設以来の初の海外実務となる海上自衛隊掃海部隊をペルシャ湾に派遣しました。
しかし、海部をバックアップしていた竹下派と小沢勢力が離反したことにより、総裁選立候補の道が閉ざされてしまい、1991年11月5日に海部は総理大臣を辞職しました。海部政権は、竹下派に手足を縛られ、思い通りの政権運営はままならなかったが、決定的な失政があったわけでもなく、本人のクリーンで爽やかなイメージは根強い国民の支持を得続けてはいました。
在任中の内閣支持率は高い時で64%、退任直前でさえも50%を超えており首相在任日数818日間は、日本国憲法下において衆議院で内閣不信任決議が採決されなかった内閣の首相としては最長日数記録でした。
自民党が野党へ!!細川護熙内閣の発足
1991年~1993年の宮沢喜一内閣では、PKO協力法が成立し、カンボジアに自衛隊が派遣されました。しかし、先述した1992年の佐川急便問題やゼネコン汚職などの自民党議員の政治腐敗が相次いで発覚したことから、1993年6月に宮沢喜一内閣に対する不信任案が可決され、衆議院が解散されました。
解散に伴い、自民党を離党した武村正義らが 「新党さきがけ」 を、羽田孜・小沢一郎グループが 「新生党」 を結成しました。衆議院総選挙では 「 金権腐敗 」 をなくす 「 政治改革 」 が焦点となり、結果、自民党が過半数割れとなり敗退しました。
非自民・共産から成る細川連立政権へ…
1993年8月、細川護熙首相が所属する日本新党の他に、社会党・新生党・公明党・新党さきがけなど8党派から成った細川内閣が発足。これにより、1955年以来38年間続いた自民党の一党優位体制【55年体制】は崩れ、不安定な連立政権の時代を迎えることになりました。
細川内閣でも、1994年に政治資金規正法が改正され、政治家個人への献金を禁止することになりました。また、政党助成法もでき、政党の政治資金を公費で助成するようになったのも細川政権です。
政治とお金の問題にメスを入れた細川政権でしたが、1994年に細川首相の1億円借り入れ疑惑が起き、細川内閣は総辞職しました。やっぱりお金の問題でした。
1994年~羽田孜内閣でも非自民連立内閣は継続していましたが、与党は、新生党・日本新党など5党で、社会党が連立を離脱し、自民党提出の内閣不信任案に社会党が同調し、羽田内閣は総辞職する事になりました。
社会党から首相が誕生!村山富市内閣
1994年に、長年対となっていた自民党と社会党が連立を組むことに!
そして、首相選出から1994年6月に社会党出身の村山富市内閣が発足します。
【与党=社会党、自民党、新党さきがけ】
この時期は、1995年1月には阪神淡路大震災が起き、3月には地下鉄サリン事件が起こり、6月には函館ハイジャック事件などの不幸な事件が相次ぎます。
ところが、1996年1月5日に突然の首相退陣を表明する事になります。その背景については、社会党内の久保書記長と関係悪化、住専問題で国会を乗り切ることへの不安、沖縄の米軍基地使用問題の泥沼化の懸念とも言われていますが、はっきりしていません。
退陣表明後は、自社さ政権協議にて自民党総裁橋本龍太郎を首班とする連立に合意。11日に内閣総辞職し、橋本連立内閣が発足しました。
自民党政権の復活!橋本龍太郎内閣
発足当初は、自民党・社会党・新党さきがけによる連立政権でしたが、その後自民党単独政権となりました。橋本内閣は、行財政改革を掲げ1997年には財政構造改革法を成立させました。
この時期、政界では大きな動きがありました。
1996年1月に社会党が、社会民主党( 社民党 )に党名変更し、9月には鳩山由紀夫・菅直人による旧民主党が旗揚げされました。1998年4月には自民・公明・社民・共産以外の勢力が結集して、民主党が再編されました。
橋本政権下では、1997年の消費税増税、健康保険の自己負担率引き上げ、特別減税廃止など、総額約10兆円の緊縮財政の影響や金融不況の影響もあり、1998年度には名目GDPは、前年度比マイナス2%の503兆円まで約10兆円縮小し、深刻な就職氷河期、デフレーション経済が蔓延する結果になりました。
1998年の参議院議員選挙の敗退の責任を取り橋本内閣は総辞職し、平成オジサンの小渕恵三首相へとつながっていきます…
③へ続く