朝倉義景の文化都市、越前の一乗谷の繁栄と滅亡
応仁の乱後の京都は将軍の権威も失墜し、争いが絶えませんでした。そのため、京の街は荒廃し、政治の中心地であった面影もありませんでした。
こうした時代に、京都よりも栄華を誇り江戸時代の江戸の街や古代ローマのポンペイ、ルネサンス時代のフィレンツェのような文化都市と呼ばれる都市が越前国にありました。
その都市とは越前国・一条谷
戦国大名・朝倉氏の本拠地として知られ、当時は京都以上に京都らしい発展を遂げていた文化都市であった事が分かっています。一乗谷は小京都とも呼ばれ、経済的にも発展し京都の文化を取り入れ、京都の公家たちがたくさん出入りしていました。
なぜ、一乗谷が著しい発展を遂げたのかは、キチンとした理由があります。
朝倉氏の本拠地・越前の一乗谷
一乗谷が朝倉氏の支配下になったのは、1471年以前からとも言われています。
とは言え、越前入りした当初は、まだ越前守護・斯波氏の家臣であったと考えられていますが、ちょうど1471年に斯波氏の混乱に乗じて越前国の権力を奪取し、その支配権を手に入れたとされています。
その後、越前を完全に掌握すると、戦国時代の混乱期でありながら、比較的大きな争いに巻き込まれることなく、一乗谷は栄華を誇るようになりました。そのため、富が集中し経済的に恵まれ、軍事的にも優れ、朝倉宗滴のような優秀な人材も集まり、国の支配が安定しました。
麒麟が来るでも、朝倉義景が明智光秀に『金が要るならくれてやろうぞ!』いった背景には、上記のような国の繁栄があったからなのです。『わしはケチだ!』と言っていた斎藤道三とは大きな違いで、実際に斎藤家と朝倉家の資金力も相当の開きがあったようです。
立地的に京からのアクセスが良かった一乗谷は、都の貴族文化が入って連歌や和歌、蹴鞠、絵画などのお公家様がたしなんでいたものはほとんど一乗谷に揃っていました。それに加え、戦国大名に伝わる兵法や医学と言った実践的な学問も充実してました。
一乗谷発展の背景
冒頭でも書いたように越前の一乗谷は、戦国時代としては比較的平和で裕福な国でした。
他にも、古来より政治・文化の中心地であった京都が応仁の乱で荒れていた事で、街にいた多くの文化人が都を捨て地方へと移り住むようになり、地方の文化レベルが向上していきます。その恩恵を最も受けていたのが越前の一乗谷だったのです。
立地も京都から比較的近い位置にあり、加えて国内が安定している事を考えれば移住の地としては悪くない選択肢だったと言えます。また、朝倉氏が京都の文化を積極的に取り入れていたことも大きな理由です。
歴代の朝倉氏の当主は、文化面でも優れていた人物たちで、京都からの移住者の保護や支援を積極的に行っていました。応仁の乱以前から、朝倉氏自ら文化の普及のために文化人を招いた例もあったようです。
こうした、京都を追われた文化人たちにとって非常に居心地の良い年となった一乗谷は、そこで生涯を終える者も少なくなかったようです。
こうした背景から、一乗谷は文化都市と化していったのです。
100年近くの繁栄後、織田信長の手で滅ぼされる
朝倉氏の支配の下、一乗谷の繁栄は100年近くもの間続いており、戦国時代の背景を考えればその安定感は群を抜いていました。しかし、いずれは終わりが来るもので、栄華を誇った一乗谷も朝倉義景の時代に終わりを告げる事になります。
1533年に朝倉孝景の晩年に生まれた義景は、1548年のわずか16歳で朝倉家を継ぎます。しかし、1556年に名将・朝倉宗滴が死去すると、朝倉家の繁栄に陰りが見え始めます。
義景は、一向一揆との戦に備え足利義昭を迎え入れ積極的に活動はするのですが、義昭の期待に応える事が出来ませんでした。その結果、義昭は越前を出て織田信長の元へ転がり込んでしまいます。その後は、足利義昭を奉じて織田信長が京へ上洛し、信長が政治の実権を握るようになります。
しかし、義昭と信長の不和がささやかれるようになると、朝倉義景と義昭が協力し第一次信長包囲網の中心人物として暗躍します。信長は、義景の動向を警戒し、大軍を率いて越前へ攻め込みますが、同盟中の浅井長政のまさかの離反に返り討ちにあることになります。
この金ヶ崎の戦いで、信長に止めを刺していればよかったのですが、軍事的に歴代当主よりセンスがなかったようで、信長に報復のチャンスを与えてしまうのでした。
辛くも岐阜に戻った信長はすぐさま兵を立て直し、浅井・朝倉両氏を討ちに近江・越前へ出兵。近江では浅井氏を越前の朝倉義景は一乗谷に逃れますが、信長の追撃に合い100年の栄華を誇った一乗谷城もろとも廃墟と化してしまいます。
信長によって、朝倉氏ともども一乗谷も滅ぼされたので、この地は長らく忘れ去られた地になっていました。
しかし、300年余りたった1971年に一乗谷の遺跡が評価され国の特別史跡に指定されると多くの遺構が発見されました。現在は、一乗谷朝倉氏遺跡として整備され、観光地として全国の人々に愛されています。