7万年頃の縄文時代の気候変化
今からおよそ7万年前に、それまでは温暖だった気候が世界的に寒冷化していき、およそ1万年前までヴュルム氷期という氷河期が断続的に続くことになります。私たちが良く氷河期と言う時期はおよそヴユルム氷河期を指していることが多いそうです。
今回の記事では、縄文時代の気候変化と氷河期について書いて見たいと思います。
ヴュルム氷河期(最終氷河期)と日本の気候
この時代、ヨーロッパ北部全域、カナダ、西シベリアが巨大な氷床に覆われていました。
南限は、北アメリカの五大湖周辺や東ヨーロッパのライン川程まで到達していたと言います。南半球でも、チリ南部や東南アジア地域までも山岳氷河に覆われていました。
氷床に覆われた北アメリカでは氷河地域のような気候でした。一方で日本列島では、平均気温が今より7度程低く、シベリア並みの気候帯だったとも言われており、本格的に温暖と感じるようになったのは、1万5千年以上たってから事でした。
氷河期では、陸地にも多くの氷が存在します。近年よく耳にする温暖化による海水面の上昇は、地表の氷が解けて海に流れ出すことが原因です。過去の氷河期から間氷期へ移行する際も同じことが起こっています。
少々強引な言い方ですが、大昔の氷河期だった時期の地上の氷が解けて海水に流入し、増えた海水がその重みによってゆっくり沈降した結果が今現在の海水面とも言えるでしょう。
そんなわけで2万年以上前は、現在よりも100m以上海面が低かったようです。ユーラシア大陸と陸続きだった後の日本列島に大型獣(マンモス、ナウマンゾウ等)を追ってきた人々が到着。 シベリア沿海州から北海道(北方ルート)、朝鮮半島から九州(朝鮮ルート)、小笠原諸島から本州(南洋ルート)、華南から(東シナルート)、台湾や沖縄から(沖縄ルート)来たと考えられています。
出典:wikipedia 約2万年前の氷河期最後の更新世後期の日本の高度地図
縄文文化の誕生
その暖かくなる兆しが見え始めたと同時に、縄文時代と言われるような文化が見られるようになったようです。この気温変化で、旧石器時代に食していた大型獣が徐々に姿を消し始めたためとも考えられています。
それまで頼ってきた食糧獲得方法が通用しなくなり、必要に応じた新しい文化が芽生えていくこととなったのです。その新しい文化こそが土器の使用や、定住生活という旧石器時代とは異なる縄文文化の出現と言えるでしょう。
縄文時代の初めは気候が不安定で寒い時期が続きますが徐々に安定し、今からおよそ7000年前から5000年前にヒプシサーマル(気候最適期)と呼ばれる時期に突入します。縄文時代の全盛期と重なります。この頃は海面が現在よりも2,3m~4mほど高かったようです。
出典:Flood Maps http://flood.firetree.net/ より海抜4mで作成
関東平野の一部や名古屋周辺、大阪府の辺りが水没しているのが見てわかることでしょう。海周辺でのみ採られるはずの貝殻が捨てられてある貝塚が内陸で見つかっているのは今とは地形が違うためです。
さて、4000年前になると寒冷化が徐々に始まり、縄文時代の繁栄にも陰りが見えてきて海岸線は現在の物と変わらないほどに。人口も4000年前には推定約26万1000人で東日本に偏在していたのだが、東から西への人口移動が少しずつ始まっていきます。これは東日本での人口が狩猟・採集経済の許容限度一杯になったためと考えられているようです。
そんな中で、縄文晩期直前の紀元前1159年にアイスランドにあるヘクラ火山で中国でも影響があるほどの大噴火が起こり、その後本格的・世界的に急激な寒冷化が始まりました。元々の寒冷化に拍車がかかるようになったのです。
https://rekisi-daisuki.com/entry/2017-06-22-213114
大陸からの渡来人
中国大陸では気候変化の影響もあって、殷王朝が滅び周王朝が出来ます。この戦乱は特に大きなものですが、殷周革命以前からも様々な内乱が発生していました。そんな動乱を避けるように中原(黄河中下流域の平原)から中国の南部に人々が移動し、元々住んでいた人々が海を渡り様々な地域へと移動したようです。この移動先には当然日本列島に行きつく者達もいます。
日本列島に行き着いた者達は後に渡来人と呼ばれ、稲作や金属器、戦の考え方などを教えることとなります。同時に大陸特有の病なども持ち込まれたようで、寒冷化による植生の変化も相まって人口はおよそ8万人まで激減しました。
寒冷化で食べ物が採れなくなれば、当然別の方法で食料を獲得する必要が出てきますね。この時に取られた方法が渡来人の持ち込んだ稲作であり、弥生時代へ移行する切っ掛けとなったのです。