中国文明と初期王朝の誕生
中国では紀元前6000年ごろまでに黄河流域、長江流域で農耕が始まったと言われています。
今回はそんな大河流域で発生した中国文明から広域的な王朝の成立までの期間に焦点を当ててまとめていきます。
中国文明の発生
中国文明とは、現・中国にある黄河と長江という大河を中心に興った古代文明を総称した文化・文明のこと。
それぞれ黄河文明、長江文明という呼ばれます。
黄河文明とは?
黄河文明は、小麦の他にも黍(きび)や粟(あわ)といった畑作中心に植物を育て始めたことから始まります。黍や粟といった雑穀は『粉にして蒸す』『煮る』などして食べていたそうです。
こうして食料獲得手段が確立して人口が増えていくと、やがて技術も発展し文化が生まれてきます。
そこから生まれた代表的な文化が河南省で発見された 仰韶(ぎょうしょう・ヤンシャオ)文化 (前5000~前3000年頃) です。
仰韶文化の範囲は赤丸で囲まれた部分(河南省・陝西省・山西省・甘粛省辺り)認されており、地図に書かれたBanpoとは仰韶文化を基礎とする陝西省にある集落・半坡(はんぱ)遺跡を指しています。
ここの集落では農業と狩猟を中心とした生活を営んでいたのでは…と推測されています。
この仰韶文化の大きな特徴といえば、彩文土器(=彩陶)です。
赤褐色の地肌に白や赤、黒の幾何学模様や人面、動物の模様が特徴的で、ろくろは使用せず表面はへらで滑らかに磨かれています。地域によって形は異なり、鉢・椀状の器や壺などがよく見つかっています。
ちなみに、昨年度の2020年には40年ぶりに発掘調査が行われたようですね。
▶『仰韶遺跡、40年ぶりの発掘調査始まる 河南省澠池県 写真1枚 国際ニュース:AFPBB News』(外部リンク)
他にも裴李崗(はいりこう)文化【河南省】や北辛文化【山東省】、磁山文化【河北省】、大汶口文化【山東省】など複数の文化が生まれては消えていってます。
『河=黄河』なので、黄河文明の発祥地には河南省や河北省の名前がよく出てきますね。
また、山東省・山西省の山は『太行山脈』を表しています。太行山脈は黄河の蛇行部分の東側に位置した山脈なので、こちらも黄河文明に関連してよく出てくる現代の地名になります。
長江文明とは??
仰韶文化が栄えてきたのと同じ頃、長江の中下流域でも人の手が入った水田施設を有した集落が現われはじめます。
長江下流域には河姆渡文化(前5000~前3300年頃)、良渚文化(前3300~前2200年頃)が、中流域では三星堆文化(前2000年頃)などが生まれました。
河姆渡文化とは?
1973年に見つかった河姆渡遺跡の範囲は赤丸で囲まれた部分になります。
河姆渡文化では水稲が作られてきただけあって、日本でも稲作とセットで覚えた高床式倉庫が多く見つかっています。
また、磨製石器、装飾品の他、黒陶、紅陶、紅灰陶などの陶器も発見されています(黒陶は彩陶に次いだ時期に出現した陶器として知られています)。
河姆渡文化に続いた文化とは…??
更に時代が進んでいくと、今度は黄河と長江間の交流が次第に進んでいくことに。先程の河姆渡文化に代表する黒陶が長江下流域だけではなく黄河下流域・長江の中下流域と広い範囲で見られるようになります。
もちろん河姆渡文化の黒陶がそのまま広がった訳ではなく、ろくろが使用されて作られた痕跡があったり卵殻土器と呼ばれる極薄手の土器が見つかったり…河姆渡文化よりも種類が多岐に渡った発展した黒陶が見つかっています。
こういった黒陶を特徴とする新石器時代後期の前2500年~前2000年頃の文化を竜山(りゅうざん・ロンシャン)文化と呼んでいます。
四川省の文化を見てみよう
竜山文化末期の頃には黄河中流域と長江中流域の間の四川省の辺りで三星堆文化も広がりました。
三星堆文化は長江流域で発生した文化と言われていますが、四川省は地形的に山で囲まれ他の地域と途絶しているため独自の文明として黄河文明や長江文明とは別の枠組みで捉えようとすることもあるようですね。
三星堆文化は、一度目にしたら忘れられない仮面が出土していたりする、かなりの独自路線の文化を歩んでおります。
その一方で、こんな青銅器製の樹木型の青銅神樹と呼ばれる遺物が残っていたり。こちらのオブジェ?は中国神話にまつわる『崇拝の対象』だったのではないかと見られています。
▶『年代幅は5千年、「三星堆遺跡」周辺で新たな遺跡を発見 四川省 』(外部リンク)
こうして中国各地で独自の文化が生まれて地域間交流が盛んになると、諍いも生じ始めました。集団同士の争いは其々の地域で政治的な集団を作ることに繋がっていきます。その中で大量の武器が作られ、土を突き固めた城壁の集落が作られるようになっていきました。
また、支配者層が生まれ、政治権力が集中的になり階層社会が作られていくこととなったのです。
初期王朝の形成
上記のような流れで、黄河中下流域には城壁で囲まれた都市が発達していきました。都市が複数出来始めると、今度はこれらの都市を更に統括する広域的な国が出来上がります。王朝国家の誕生です。
伝説の王朝?夏について
中国では長らく一番最初に出来た国家は殷と呼ばれる国とされてきましたが、それ以前にも国家があったのでは?と疑問視する声もありました。
その王朝が夏(か)王朝です。
夏王朝は『呂氏春秋』(中国の戦国時代末期に編纂された書物、前239年)や『史記』(前漢、司馬遷によって編纂された歴史書)に記述があったのですが、証拠が見つからず長い間実在するか疑問とされてきました。
ところが、1950年代終わりに実在が確認されている殷と同規模の宮殿などが見つかり(二里頭遺跡)、夏王朝の可能性が出てきました。
また、夏王朝の始祖・禹(う)は治水で功があったために中国神話に出てくる君主・舜(しゅん)から位を譲られて夏王朝が始まったとされているのですが、この治水に関しても『約4000年前の夏王朝が始まったとされる時期』に『黄河で大洪水があった』事実まで見つかっています。
▶『黄河に古代の大洪水跡、伝説の王朝が実在? | ナショナルジオグラフィック日本版』
以上のことから、まだ成立時期や実在期間など不明点は多いけれど『夏王朝は実在した』信憑性がかなり高まってきています。
今は『伝説の王朝』という但し書きでしか夏王朝の存在は教科書に載っていませんが、近いうちに『初期王朝=夏』と記述が変わるかもしれませんね。
確認できる最古の王朝『殷』の誕生~終わりまで
紀元前16世紀頃~前11世紀頃にあったとされる、実在が確認されている最古の国・殷(商) は天乙(湯王)が夏の最後の王・桀(けつ)を追放して滅ぼした後に出来た国と言われています。数度の遷都を繰り返し支配権を拡大しました。
なお、桀は殷の紂王(帝辛)、周の厲王と並んで暴君の代名詞となっており、逆に殷の天乙は夏の禹、周の文王・武王と並んで聖王として讃えられています。
殷は河南省の殷墟が発掘されたことで明らかになった国ですが、その大きな特徴といえば甲骨文字です。甲骨文字を使って祭祀や農耕、天候、戦に疾病などの占いの結果を書き記し、その結果によって政治を行う祭政一致の神権政治を行いました。
殷墟では大量の亀甲や獣の骨に刻まれた甲骨文字の他に、複雑な文様の青銅器(祭祀に使う酒器や食器)、多数の人畜が埋葬された王墓や大きな宮殿跡も見つかっています。
占い結果次第では
- 他の部族から多数の人身御供を献上させる
- 祭祀に戦で捕らえた戦争捕虜を生贄にする
ことも多々あり、こういった恐怖政治が他の部族からの反感を買って力を失ってしまったそうです。
※「↑のような説があるよ」程度でハッキリしていませんが、今見つかっている生贄の人骨だけで14000体もあるということなので十分恨みを買いそうに思えます。
こうして紀元前1050年頃の紂王の頃に、周の武王に滅ぼされ殷は滅亡したのです(易姓革命)。
易姓革命とは
儒教の教えに基づいた王朝の交代を正当化する理論のこと。
悪徳の限りを尽くすような徳のない君主は天命で徳のある者に倒されて新しい王朝にとってかわられ、王朝が交替するというものです。
殷も最後の君主・紂王が悪逆を尽くしたため革命が起きたとされています。
殷の政治体制はどんなものだったのか?
共通の祖先をもつという意識を持った氏族集団の連合を基礎とする共同体が、土塁などの壁を巡らせて作った城郭都市を邑と呼び、邑はそれぞれ族長が支配していました。
殷はこの城郭都市が緩やかな連合態勢を取って、豪族や王族の下で従属する形で成り立っています。この邑の中で最も有力だった都市の名が商だったため、殷王朝ではなく商王朝と呼ぶこともあるようです。
城壁がある位ですから、度々別の勢力から攻め込まれたり攻め込んだりという機会が多かったのでしょう。そういった情勢では軍事活動を円滑にするのに強い支配力を持った君主が必要なため、支配者が独断で意思決定できるような体制となっています。
周の誕生
当初の周は、殷に服属していた黄河の支流・渭水流域を本拠地とした有力な邑の一つでしかありませんでした。
元々は賢帝であった紂王が妲己を寵妃として以降、悪政を敷いて国政が混乱する事態に陥った中で、邑(周)のトップについていた武王が革命戦争(牧野の戦い)を起こして殷を滅ぼし、周王朝が誕生したと言われています。
周の政治体制を見てみよう
周は現在の西安付近の鎬京(こうけい)と呼ばれていた都市を首都として華北を支配しました。殷で行っていたような神権政治ではなく、
王族の一族や功臣、土着の首長に領地(封土)を与えて世襲させ、見返りに貢納・軍役を負う
いわゆる封建制により統治をしていきました。
領地を与えられた支配者は諸侯と呼ばれ、その広さや王室との関係により、公・侯・伯・子・男 の爵位が与えられました。
周王の親族や功臣に与えられた封土には、それぞれ下のような国が建国されています。各地の統治を諸侯に任せた訳ですね。
- 武王の弟・周公 = 魯 (ろ・山東省南部)
- 周の軍師でもあった太公望(呂尚) = 斉 (さい・山東省の北東部)
- 召公 = 燕 (えん、初期の詳細は不明、河北省北部・現北京の周辺)
- 唐叔虞 = 晋 (しん、山西省)
- 康叔 = 衛 (河南省の一部) など
↑周の後の時代・春秋戦国時代に出てくる名前もあります
また、王や諸侯には卿(けい)・大夫(たいふ)・士(し)などの世襲の家臣が仕えており、その家臣も諸侯と同様に封土や地位を授かる見返りに貢納と軍役の義務を負いました。
さらに付け加えると、周王朝は父系の同族集団(=宗族)が重視された社会です。親族同士の上下関係や祖先祭祀の仕方を定めた宗法が作られました。
簡単に言うと『長男が財産を相続する』『同じ姓の者同士は結婚できない』『力関係は本家>分家』のような規定が決められていたようです。
宗法に基づいた社会の道徳的秩序は『礼』と呼ばれ、周王室を本家の大元と捉えた上でこの秩序を守ることで国を一つにまとめていました。殷の『祭政一致』に対して、周は『礼政一致』の政治体制と称されています。