日本の城の起源とその進化の歴史
上記の写真のように壮大な石垣に鎮座している天守閣と言った光景を私たちは【城】と思っている事でしょう。しかし、それは城と言う建造物の一部にすぎません。
城には、時代や地域によってその役割は異なります。
今回は、日本での城の起源と進化の歴史を書いてみたいと思います。
城の誕生と起源
城の起源は弥生時代にさかのぼります。
人々が集落を作り、耕地や作物を他者から守るために考えたことから始まります。集落全体を堀で囲んだ【環濠集落】や、丘などの上に集落を作った【高地性集落】がその起源とされています。
ただ、大和朝廷が成立する頃までは城らしい城と呼べるものはありませんでした。
蘇我氏・物部氏の争いには、稲束を積んだ稲城を築いたという記録があります。それは単に稲を積んだのではなく、土や水を混ぜて踏み固めればそれなりに土塁の役割を果たしたのではないかと考えられています。
城の機能として意識された建築物は、天智天皇が白村江の戦いで敗れ、日本が攻め込まれるのを警戒して、北九州や瀬戸内沿岸に大きな石(岩)を山稜や山腹に並べて封鎖した、山城を築いたのが始まりとされています。
とは言うものの、日本では平安末期まで基本的に争いごとはほとんどなく、城と呼ばれる軍事施設の需要はありませんでした。国内で、敵として意識されたのは東北地方の蝦夷で、朝廷は蝦夷討伐のために、拠点を作りながら北上していきます。その拠点が城作と呼ばれるもので、多賀城、秋田城など太平洋と日本海側に存在していました。
これらの古代の城は、のちの時代に影響を与えることになります。
城の進化の歴史
土から成ると書いて城と示す通り日本の城の大半は土で出来ており、石垣に天守がそびえる物は全体の一割にも満たないのです。戦国時代では、このような土の城が各地につくられ、戦国大名同士の陣取り合戦において、敵の侵攻を食い止めるカベの役割を果たした。
このような土の城の多くは山につくられ、地形を利用できる分、平野より山の方が守りやすいのは明白です。敵を防ぐことが目的の城にとって、最も重要だったのが堀で、どれだけ頑丈な建物があっても、敵方が容易に城へ侵入出来たら意味がありません。
その堅固な城とは、堀をどう掘るかによって決まります。堀の幅はだいたい10m前後のものが多く、これは当時の弓矢の射程と関係していたようです。
以上のような城は、その時々で様々な進化を遂げているのが分かります。
それでは時代ごとの城の変化を見ていくことにしましょう。
平安・鎌倉時代の城は館に近いものだった
平安時代後期頃から武士と言う武装した階層が誕生しますが、城が本格的に築かれるのは鎌倉時代になってからだと言われています。武士が登場したころは、荘園の管理者と言う意味合いが強く、それぞれの集落に家単位で独立していました。
その武士たちが平野部に近い丘陵部などに周囲を堀をめぐらした館を作っていました。
一部に砦程度はあったものの、平安時代の争いのほとんどが、管理する土地の境界や相続争いで、戦国時代みたいな城攻めや篭城戦などはあまりありませんでした。
武士の世になり鎌倉幕府が置かれるようになると、その拠点は海岸に向いた平地を自然の丘陵が取り囲む、都市城郭の形をとっていました。
この時代になると、有事の際に使用する山城が次第に作られるようになりますが、規模も小さく戦力的に重要な建築物でありませんでした。
室町時代・戦国期の城は山城がトレンドだった!?
南北朝の騒乱の頃から本格的な武士同士の武力衝突が起こってきます。
その背景から、山城が戦略的優位性が認識されて、各の領主がこぞって山城を築くことになります。少数の兵で大群を退けることができる山城は、それまでの合戦の勝敗を決めるのは兵力と言う概念を打ち崩しました。そのために、できるだけ高く、高くと山城が築かれていきました。
応仁の乱後の戦国時代には、地域を徐々に平定していった戦国大名が現れました。天蓋の要塞だった山城は、生活面の不便さや家臣団や商工業者を近くに置くことが困難なため、領主の城が次第に山間部から平野部に城の築城するようになっていきました。
織田信長が作った安土城は、楽市・楽座の城下町を確保して、城下から権威の象徴として巨大な天守が見えるように築城されました。このころから、城が権威の象徴と言う考え方が始まったっと言われています。
織豊政権下の近代城郭
信長の安土城が城の概念を変えて、城に天守と城下町が必要とされました。
そのあとに政権を取った豊臣秀吉も、大阪の平野部にに巨大な天守・城下町を持ち、石垣で固めた大阪城を築城します。これまでの争いのあった戦国の世から天下泰平の世になった事で、一大名に権力が集中することになり多くの中小大名が大規模な城に統合されていきました。
近世城郭と呼ばれています。
江戸時代~明治維新以降の城
幕府の一国一城令により各藩の築城が制限され、新規築城だけではなく、改修や修復も幕府の許可が必要になります。
この政策により、日本の築城技術は江戸初期で止まってしまいます。
幕末になると、産業革命を果たした欧米諸国がアジアに向けて活発な動きを見せます。これを警戒した幕府は、新たな築城を始めます。蝦夷地の松前城と九州西端の福江城がそれに当たります。いずれの城も、海に向けて大砲を打つことを前提として築城されました。
既に鉄で装甲された軍艦を持っていた欧米諸国に対抗するために、より大砲の効果を上げる必要がありました。
そこで、蝦夷地に函館に本格的な稜保式城郭として五稜郭を築きます。ただ、この方式は日本では初めての試みでしたが、ヨーロッパでは15世紀には確立されたものでした。要するに二番煎じで時代遅れだったのです。
このころすでにそれ以上の近代化を果たしていた欧米では、城壁で利を守るという考え方はすでになく、要塞や塹壕が防衛の役割をしていました。
わが国での最後の築城は、江戸防衛のための五稜郭のように稜保式を意識した大砲を備えるための台場をいくつか作りました。
五稜郭は、今でも北海道の函館に五稜郭跡地が残っており、観光名所になっています。
- 古代の城は、蝦夷制服のために城作が作られたのが始まり
- 平安の城は、武士の館を堀で囲んで住んでいた。
- 鎌倉時代になると、山城が築かれるようになる。
- 南北朝の戦乱以降、山城が合戦に有利とされてたくさん築城される。
- 戦国後期になると、山城からだんだんと平野部に城が移り始める。
- 織豊政権化では、天守と城下町が必要とされる。
- 江戸時代では新たな築城の制限をして、その進化をとめる。
- 幕末には、海防の要地の陣屋を和式の近世城郭として再築
- 日本最後の築城は、江戸湾の台場。