色々な歴史

四面楚歌の【楚】とは、当時の湖北省・武漢地域だった!?

歴ブロ

新型コロナウイルスで聞かない日が無かった中国の武漢市

中国の中部の湖北省の東部に位置する武漢は、長江と支流漢江の合流する地点の都市で人口一千万のメガシティです。日本でいう所の県庁所在地で省都がある武漢は、成田からの直行便もあります。

三国時代から隋・唐…清までは長江流域の好立地から商業都市として発展しましたが、近年ではホンダや日産などのような自動車メーカーを始め半導体などの多くの日本企業が進出し有数の工業地域になりました。

 

武漢市と歴史と何が関係あるのかと言うと、あの有名な中国の故事【四面楚歌】の舞台となっているのは皆さんご存じでしょうか?

そこで今回は、中国の故事【四面楚歌】と武漢の歴史を踏まえながらについて紹介したいと思います。

 

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四面楚歌の発祥の地【武漢】

 

四面楚歌…周囲が全て敵や反対者で孤立し助けが無く、孤立無援の状態の事

で、私たちも学校の漢文の授業で習ったような気がします。

 

劉邦と天下を争う項羽は、垓下(がいか)に砦を築きます。

項羽軍の兵は少なく食料も乏しい状況で、劉邦軍が幾重にも砦を囲んでいました。

ある夜、劉邦軍の兵士が項羽の故郷である楚の歌を歌っているのを聞き、【楚の人間はみんな敵に寝返ってしまったのか…】と落胆しました。

項羽は最後を悟り、別れの盃を交わそうと虞美人と言われる妾と一緒に詩を作り朗読を始めました。その後、劉邦軍を何とか振りぬいて江東の烏江を最後の場所と覚悟を決めます。

その烏江では宿場の長おさが船出の用意をして待っており、項羽にこう申し出ます。

長江の東、江東の地は小さいところではありますが、そうは言っても千里四方の広さがあり、住民の数も数十万を数えます。大王様、どうかここを領地に捲土重来を期してください。急いで向こう岸に渡りましょう。船はこれ一艘のみ、渡ってしまえば劉邦軍はついてはこられません

しかし、項羽は笑って…

天が私を滅ぼそうとしているのだ。今さらこの川を渡ってどうする?江東の若者八千人とここから西に向かって出陣したのだ。その一人とて今生き残ってはおらぬ。その親にどの面下げて会えると言うのか。彼らが文句を言わなかったとしても、私は私を恥じずにはいられない

さらに項羽は続けて…

立派な人物とお見受けする。この馬を見てくれ。この馬に乗って五年、当たるところ敵なしだった。ともに一日に千里を走った。殺すには忍びない。こいつを引き取ってはもらえぬか

そして、項羽は、ついてきた武者全員を馬から下りるよう命じ、それぞれが短い刀剣一つで追ってきた敵と戦いました。項羽ひとりで数百人の敵を倒し、自身も十か所以上の傷を負いました。

激しい戦闘の末、項羽は顔見知りの劉邦軍の騎兵隊長・呂馬童を見て「この首には莫大な賞金が掛けられ、得た者は万戸の諸侯になれると聞く。お前にくれてやろう」と言うや自分で自分の首を切り落としたのでした。

 

この悲壮な物語から生まれた故事成語が「四面楚歌」でした。

楚の人間が楚の歌に囲まれる事から、なぜ周囲がみな敵という意味になるのか不思議なのですが、実際に味方がみな寝返り、敵方に回って自分を包囲しているという話からできた故事成語です。

 

この【四面楚歌】の【】こそ、武漢のある土地なのです。

 

ドラゴンボートの発祥の地でもある楚

 

紀元前343年~278年頃の春秋戦国時代の楚の政治家に屈原と言う人がいました。

秦の張儀の謀略をいち早く見抜き、踊らされようとする懐王を必死で諫めたが受け入れられず、楚の将来に絶望して入水自殺した有能な人物でした。

その屈原をしのび、その遺骸が魚に食べられぬよう、米を投げ入れたものが、端午の節句におけるちまきの由来で、屈原を救おうとして舟を出したことが、ドラゴンボートの由来ともされております。

 

呉の孫権が魏に対抗して物見台を作る

 

中国大陸の南方に位置する湖北省は長江をのぞむ場所で、三国時代ならば、孫氏一族のいた呉の土地にあるのです。

孫堅の跡を継いだ孫策は、盟友・周瑜と手を結び、見る見るうちにその勢力を伸ばし、江東の小覇王と呼ばれていました。しかし、孫策が暗殺され、その跡を継いだ弟・孫権は【赤壁の戦い】で曹操を撃破し、やがて呉を建国します。

三国時代の到来なのですが、この時武漢は、孫権が曹丕を迎え撃つべく備えた場所でもあります。

その城跡に偵察用に築かれたのが「黄鶴楼」。軍事用の施設から、いくつもの漢詩で詠まれる風光明媚な名物観になりました。

 

三国時代以降の楚は…

 

中原が五胡十六国が支配する一方で、江南は六朝の貴族が華やかな文化を繰り広げました。

かつては中原から見ると異質な文化の地とされていた楚も、時代が経つにつれ文化が花開く土地として認識されていきます。科挙成績上位者、合格者数も、楚を含めた江南の比率が高く、文化ならば江南であるという誇りも定着しました。

 

近代以降の武漢

 

1927年には汪兆銘による「武漢政府」が置かれたこともありますが、南京に国民政府が成立すると短期間で消滅しました。かつてはその交通を生かした商業都市でしたが、現在は工業都市としての発展も遂げております。

大型鉄鋼コンビナートが建設され、機械、造船、化学、石油化学、電子、紡績等の工業が建設され、外資系の流通企業も増えており、経済の大動脈としての顔を持つようになっています。

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歴ブロ・歴ぴよ
歴ブロ・歴ぴよ
歴史好きが高じて日本史・世界史を社会人になってから勉強し始めました。基本的には、自分たちが理解しやすいようにまとめてあります。 日本史を主に歴ぴよが、世界史は歴ぶろが担当し2人体制で運営しています。史実を調べるだけじゃなく、漫画・ゲーム・小説も楽しんでます。 いつか歴史能力検定を受けたいな。 どうぞよろしくお願いします。
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