織田信長の才能を見抜いた斎藤道三と信長の正徳寺での会見
1547年、となり同士の美濃と尾張で長年争っていた斎藤家と織田家。
美濃の斎藤道三は、娘・帰蝶を織田信秀の嫡子・信長に嫁がせるために和睦交渉を行います。道三は、当時うつけと評された信長をあわよくば取り込み、尾張を自分のモノにしてしまおうと言う狙いがあったようです。
縁談がまとまり、初顔合わせの会談の際、みすぼらしい服装で会談に臨もうとする信長やその側近を物見に出していた家臣が発見。この報告を聞いた道三は気を抜いて楽な格好で待ち合わせの場所に向い、正装で現れた信長を道三が評価したと言う逸話は誰もが知っていると思います。
今回は、いずれ麒麟がくるでもその場面はあるであろう、斎藤道三と織田信長の会談をめぐるそれぞれの思惑を考察してみましょう。
織田家と斎藤家の縁談が決まった経緯
1543年に朝廷に献金するなど、日の出の勢いだった織田信秀でしたが、1544年の美濃攻略の大敗により、その勢いに陰りが出てきました。この大敗で、尾張国内での支配力にも陰りが見え始め、大垣城が斎藤家に攻められた折に、居城である古渡城が清州の織田信友に攻められてしまいます。
三河の今川氏と美濃の斎藤氏と尾張国内の敵と戦わなくては行かなくなった織田信秀は、三河への戦いを主体にし、後顧の憂いを無くすために美濃国の斎藤道三と和議を結び、その証として嫡男・信長と帰蝶の婚姻が成立しました。
この美濃と尾張の交渉をまとめたのが、信長付きの家老・平手政秀。なお、この婚姻は【形だけの政略結婚】ではなく、織田家側が嫡男の信長を道三の婿に出すと言う信秀側が大幅に譲歩した内容で漕ぎつけたものだとされています。
この内容は、織田家中でも認識されており、信長は美濃から嫁を貰ったのではなく、尾張から婿に行くとされ、事実上の廃嫡を意味していました。そのため、弟の信行が次期織田家の当主と言う風潮が形成され、後のお家騒動に繋がったと考えられています。
斎藤道三の和睦の思惑
この頃の美濃は、土岐頼芸が織田信秀や土岐頼純と連携して斎藤道三と対立していました。
1547年に織田信秀が稲葉山城を攻めた加納口の戦いで敗れると、斎藤家と織田家で和睦が成立しました。この和睦で、尾張からの侵略が無くなり、道三の美濃統一に専念できることになります。
この和睦を機に織田家の支援を受けて道三に反逆していた美濃の豪族たちを滅ぼし、1552年には、守護職・土岐頼芸を尾張へ追放し美濃一国を手にすることが出来ました。
織田信長、斎藤道三の有名な『正徳寺の会見』での両者の思惑
富田の正徳寺と言うのは尾張と美濃の境にあり、寺内町の楽市で賑い裕福な町であったとされています。
また、正徳寺は石山本願寺から直接住職を派遣していたので、この一帯は美濃・尾張守護から税金などを免除されていたようです。そのため、政治的・軍事的中立を保っていたこの地での会見を道三は信長に申し込んだのです。
織田信長の正徳寺の会見での思惑
信長公記の一文では…
信長公の御出の様体は髪はちゃせんに遊ばし、ゆかたびらの袖をはずし、御腰のまわりには、猿つかひの様に、火燧袋、ひょうたん七ツ、八ツ付けさせられ、寄宿の寺へ御着きにて、屏風引き廻し、
一、御ぐし折り曲に、一世の始めにゆわせられ、
一、何染置かれ候知人なきかちの長袴めし、
一、ちいさ刀、是れも人に知らせず拵えをかせられ候を、さゝせられ、御出立を、御家中の衆見申し候て、さては、此の比たわけを態と御作り候よと、肝を消し、各次第貼に斟酌仕り候なり。信長公記より引用
信長公記では、異形の風体でやって来ながら、いざ道三との会見時には、控えで着替えて武士の正装で臨み、居並ぶ美濃の武士たちの度肝を抜き、信長の演出勝ちと言うのが通説となっています。
この会見で信長は【大うつけ者】と世の評価とは違い、自分はまともな武将だと言う事を印象付けたうえで事実上、反故にされていた帰蝶との婚儀を進め斎藤家と織田家の関係を強化し、再度婚姻同盟を結ぶ申し入れを行っています。
両家の関係を強化したのち、東から上洛を目論んでいる今川義元を倒すために共闘のお願いをするために会見を行いました。この要請に、道三は快く応じていることから、両家の会談は上手くまとまったと考えてよいでしょう。
斎藤道三の会見時の思惑
同じく信長公記では
斎藤山城道三存分には、実目になき人の由、取沙汰候間、仰天させ候て、笑わせ候はんとの巧にて、古老の者、七、八百、折目高なる肩衣、袴、衣装、公道なる仕立にて、正徳寺御堂の縁に並び居させ、其のまへを上総介御通り候様に構へて、先ず、山城道三は、町末の小家に忍び居りて、信長公の御出様体を見申し候。
信長公記より引用
斎藤道三は、うつけのすることだから異形な姿で現れるだろうと高を括っていたので、正装させた家臣たちを700人~800人くらいを会談場に並べて相手の度肝を抜き笑いものにしてやろうと言う作戦を立てていました。
そして、隙あらばその場で殺してしまおうとも考えていました。殺せないにしても、信長が噂通りのうつけであったなら、娘を利用して尾張略奪もたやすいことだとも考えていたようです。
しかし、その予想は裏切られ、武装した軍を引き連れ、しかも【大うつけ】でない事も証明した信長の戦略的発想にしてやられることになりました。
さらに道三は、
途中、あかなべと申す所にて、猪子兵介、山城道三に申す様は、何と見申し候ても、上総介はたわけにて候。と申し候時、道三申す様に、されば無念なる事に候。山城が子供、たわけが門外に馬を繋ぐべき事、案の内にて候と計り申し候。今より己後、道三が前にて、たわけ人と云ふ事、申す人これなし。
信長公記より引用
道三が信長に対して下した評価が書かれていますが、もう絶賛です。この会見の信長の行動が道三の感銘を受け、信長から要請のあった【那古屋城の留守番出兵】の実施と、約束通り帰蝶を織田家へ送り、婚姻同盟を成立させた理由なのだと考えられています。
そして、この名言「無念だがわしの息子らは、そのうつけの下につくことになるだろう」と信長の器量、そして軍事力を認めました。
斎藤道三が那古野城の留守番を依頼され実行したのか?
1554年に、織田信長は今川へ寝返った村木砦への攻撃を手掛ける際に、斎藤道三へ信長居城の那古野城の留守番として美濃兵出陣を要請しました。婚姻同盟をしているとはいえ、先代は敵対していた隣国の兵に、自分の居城の留守番・守備を依頼するなど、当時の常識では考えられませんでしたが、信長は平然と実行に踏み切ります。
信長の要請に対し、道三は快諾の上、美濃三人衆の一人・安藤守就を大将に兵1000人を派遣し那古野城の留守番をさせました。安藤守就が到着すると、信長は挨拶をし荒れる海を渡海して、知多半島へ上陸し、村木砦の奪還作戦を開始し見事奪還すると、那古野へ帰還します。
その後、安藤守就は、美濃へ帰還し、道三へ顛末を報告すると、道三は、信長の奮戦・知略を褒めたたえて、その傑物ぶりに驚嘆します。
これがきっかけに、織田信長と斎藤道三の同盟が機能し始め、織田家内部や近隣大名に対して、信長と道三の【尾張・美濃姻戚同盟】の存在がアピールされることとなりました。
織田信長はどうして道三を助けに行けなかったのか?
斎藤道三は、織田信長との間に婚姻同盟が成立し、美濃の政権が安定したのを機に嫡男・義龍に家督を譲り鷺山城へ隠居しました。この隠居も本人の意思ではないとも言われていました。
それが原因かどうかは分かりませんが、その後の道三と義龍の関係はうまくゆかず、道三は義龍を廃嫡して次男孫四郎龍重へ家督を譲る陰謀を企てますが、義龍側近の日根野備中守弘龍の進言により明るみに出ます。
義龍は先手を打って、1556年4月1日、道三が出かけた隙に道三の次男三男を討ち果たして、斎藤道三に対するクーデターを宣言します。
この知らせを受けた道三は、驚きながらもすぐさま合戦の準備に領内全域に出陣命令を出します。しかし、この頃には道三のやり方に不満を持っている家臣もいたことから、集まってみれば道三方が2700人に対し義龍側は17000人と兵力差は歴然でした。
この時、明智光秀は道三側に付いたとも言われています。
舅・道三の危機を知った信長は美濃に兵を出しますが、義龍軍にスルーされる形で相手にされる事が無かったようで、信長自身も積極的に合戦に割って入ることもせず、道三軍の敗走する様子を見届けるしかなかったようです。
信長公記では、信長の留守中に岩村の織田方が攻めてきたと言い訳を言っているようですが、実際の所は圧倒的な大軍の前に相手にしてもらえずに、ただ見守るしかなかったのかもしれません。