アーリア人による古代インドへの進出
古代インドの歴史はインダス文明が突如滅亡した約200年後、インド=ヨーロッパ語族に属するアーリア人がインド亜大陸に進出したところから歴史が動きます。
ここではアーリア人がインドに進出したことで、インドがどう変わっていったのかまとめていきます。
アーリア人の進出
紀元前のインドの地図を確認してみますと上の方に『カイバル峠』という地名があるのが分かります。現在のパキスタンとアフガニスタンの間にある峠で、高く険しい山が複数あるこの地域において数少ない西の陸地からの侵入地点であり、アレクサンドロス大王も侵入した地点です。
このカイバル峠から紀元前1500年頃、アーリア人がやってきたと言われています。この時点でアーリア人の中には未だ貧富の差や地位の差は生まれてなかったようです。インド亜大陸に侵入してきた時点では、まだ鉄器の使用もありませんでした。
アーリア人達は雷や火などの自然を崇拝し、様々な祭式が行っています。そのような宗教的知識を収めたのが『リグ=ヴェーダ』です。サンスクリット語の古い形であるヴェーダ語で書かれており、リグは『讃歌』、ヴェーダは『知識』を意味しています。
以前インダス文明とは??で書いた『サラスワティー川』 と呼ばれる大河(ガッガル・ハークラー川では?と言われている川)とその化身『サラスヴァーティー』についての記述(日本には七福神の一柱・弁才天として伝わっている)や主神で雷・雨・豊穣を祀る『ディヤウス』 についての記述などが登場するように、多神教的な世界観が『リグ=ヴェーダ』には残されています。
アーリア人進出による変化とは??
紀元前1000年になるとアーリア人はさらに肥沃なガンジス川上流域へ移動します。彼らは移動先で農業に従事していた先住民に交わりながら農業技術を獲得していきました。
この頃にはアーリア人もオリエントで起こった『前1200年のカタストロフ』と呼ばれたヒッタイトを含む複数の国や地域の崩壊をきっかけに伝播した製鉄技術を獲得しており、森林の開墾に適した鉄器を使用していきます。
ガンジス川上流域はインダス川周辺とは異なり雨量が多めの地域で稲作が可能な地域です。
新天地に移動して農業の種類も変わって新技術も獲得したことで効率的な新しい農具も開発されていきます。鉄の刃先がついた木製の犂を牛にひかせるようになりました。
こうしてアーリア人はそれまでの小麦や大麦がメインの農業から稲の栽培をメインとした農業へと変えていったのです。
効率的な農業が行われるようになると余剰作物も生まれ貧富の差が生まれてきます。また、これまでの生活の中でも自然の物に対する信仰心が生まれていましたが、定住するようになると簡単に場所を離れられなくなり、ますます祈りやら何やらが重視するようになっていきました。さらに他の地域からの侵入が少ないとは言え、インド亜大陸内でのイザコザもない訳ではないでしょう。
余剰作物で生産に余裕ができたこと、食を得る以外の仕事をする余裕も出来てきたことで、王侯・武士・司祭といった農業従事者以外の階層が生まれ、強い権力を有する王が支配するようになっていったのです。
カースト制度の誕生
様々な階層が生まれインド亜大陸でアーリア人と先住民が混じって社会が成立していく中、次第に身分的上下観念が生まれてきました。この観念をヴァルナ制と呼んでいます。
- バラモン(司祭)
- クシャトリヤ(武士)
- ヴァイシャ(農民・牧畜民・商人、後に商人を指すようになる)
- シュードラ(隷属民、後に農民・牧畜民を指すようになる)
複雑な祭祀を正確に執り行うことで神々からの恩恵を受けるとしてバラモン達は自身を最高身分とし、彼らが司る宗教はバラモン教と呼ばれるようになりました。また、これら4ヴァルナの下には被差別民がおり、不可触民として差別されるようになっていきます。
さらに現在まで残っているカースト制度の原型が作られたのもこの頃。『特定の信仰』『ある職業』『そのほかの集団』同士で結婚したり食事をしたりすることで結束を強めるカースト集団が多数生まれています。
ちなみにカーストはポルトガル語由来で『血統』を意味する『カスタ』からきた言葉で、現地インドでは『生まれ』『出自』を意味する『ジャーティ』という言葉が使われます。
そんな生まれもった身分によって上下関係があると考えているヴァルナ制とジャーティーが結びついて長い間形成されたのが現在のカースト制度です。
こういった制度が徐々に出来た紀元前600年頃までの時代は、バラモン教の聖典でもあるヴェーダからヴェーダ時代と呼ばれています。