1812年カディス憲法とは?スペインの絶対王政復活と自由主義革命を解説
1812年、ナポレオンの支配に抵抗していたスペインで、国王の権力を制限するカディス憲法が制定されました。
ところが、そのわずか2年後には憲法が廃止され、絶対王政が復活します。
その後、1820年のスペイン立憲革命によって憲法が復活したものの、今度はフランス軍の介入によって再び絶対王政へと戻りました。
なぜスペインでは、立憲政治と絶対王政が繰り返し入れ替わったのでしょうか。
今回は、カディス憲法が制定された背景からフェルナンド7世の政治まで、19世紀前半のスペインで起きた政治体制の変化を解説します。
ナポレオンの介入とカディス憲法の制定(1808~1814年)
1808年、ナポレオンはスペイン王室の混乱に介入し、兄のジョゼフ=ボナパルトを国王に据えました。これに反発したスペイン各地では反乱が起こり、フランス軍との戦争が始まります。
しかし、スペインが直面した問題は外国軍の侵攻だけではありませんでした。正統な国王とされたフェルナンド7世がフランスに留め置かれたため、誰が国を統治するのかという問題も生じたのです。
そこでスペイン各地に地方評議会が組織され、1808年には中央最高評議会が成立しました。その後、1810年にはカディス近郊でコルテス(議会)が開かれ、国王不在のなかで新たな政治体制を模索することになります。
議会では従来の絶対王政を維持しようとする勢力と改革を求める勢力が対立しましたが、自由主義者たちが主導して1812年にカディス憲法を制定します。
この憲法では、主権が国王ではなく国民に属することを定め、立法・行政・司法の権力を分けました。国王による政治を認めながら、その権力を憲法によって制限する立憲君主制を目指したのです。一方で、カトリックを唯一の宗教と定めるなど、宗教の自由は認められていませんでした。
一方、スペイン領アメリカでも1808年の王政の危機をきっかけに自治を求める動きが広がり、一部では独立運動へと発展していました。
こうしてスペインでは、ナポレオンの支配に抵抗する戦争の最中に絶対王政を改めようとする政治改革が進められたのです。
フェルナンド7世の復位と絶対王政の復活(1814~1820年)
1814年、ナポレオンのスペイン支配が崩れるなか、フランスに留め置かれていたフェルナンド7世が帰国し、国王に復位しました。
ところが、フェルナンド7世はカディス憲法による立憲政治を受け入れようとしませんでした。当時のスペインには、聖職者や貴族、議会の保守派など、従来の絶対王政への復帰を望む人々もいたのです。
こうした勢力の支持を受けたフェルナンド7世は、同年5月に1812年憲法を廃止し、国王が強い権力を持つ絶対王政を復活させました。
その後、自由主義者たちは弾圧され、投獄や国外への亡命を余儀なくされる人々も現れます。しかし、立憲政治を求める動きが消えたわけではなく、軍人らによる反乱も繰り返されました。
一方、ナポレオン戦争後のウィーン体制の成立により、スペイン以外のヨーロッパでも革命以前の君主制や政治秩序を維持しようとする動きが強まっていきました。スペインの絶対王政復活も、こうした復古的な動きと共通するものでした。
一方、フェルナンド7世は、独立運動が広がっていたスペイン領アメリカに軍隊を派遣し、植民地支配の回復を図ります。しかし、独立運動は続き、スペイン本国にも大きな負担となっていきました。
こうして絶対王政が復活したものの、自由主義者との対立は解消されず、1820年には再び政治体制が大きく変わることになります。
スペイン立憲革命と自由主義の3年間(1820~1823年)
1820年1月、スペイン南部で軍人のラファエル・デル・リエゴらが蜂起し、1812年のカディス憲法の復活を要求しました。
このとき蜂起したのは、スペイン領アメリカの独立運動を鎮圧するため、現地への派遣を予定されていた軍隊の一部でした。兵士たちの間には、長期化する遠征準備や海外派兵に対する不満も広がっていました。
当初、リエゴらの反乱は思うように広がりませんでした。しかし、各地で軍人や自由主義者たちが蜂起すると、フェルナンド7世もこれを抑えきれなくなります。
同年3月、国王は1812年憲法を受け入れ、スペインでは再び立憲政治が始まりました。
この一連の政治変動をスペイン立憲革命と呼び、1820年から1823年までの立憲政治の時期は「自由主義の三年間」(トリエニオ・リベラル)として知られています。
自由主義政府はコルテス(議会)を通じて、カディス憲法に基づく政治改革を進めました。従来の封建的な特権や教会の権力を制限する改革も行われます。
ところが、フェルナンド7世は立憲政治に協力的ではなく、絶対王政への復帰を望む勢力も抵抗を続けました。
さらに自由主義者の間でも、国王との協調を重視し、穏やかな改革を進めようとする穏健派と、より積極的な改革を求める急進派が対立。1822年には国王側のクーデター未遂事件も起こり、その後は急進派が政権を担うようになります。
一方、スペイン領アメリカに対しては、軍事的な鎮圧から交渉を重視する方針へと転換しましたが、独立運動を収束させることはできませんでした。
こうして立憲政治は復活したものの、国王や絶対王政派との対立に加え、自由主義勢力内部の分裂も深まり、政治は不安定な状態が続きました。
フランスの介入と絶対王政の再復活(1823~1833年)
1820年代のヨーロッパでは、スペイン立憲革命に続いてナポリやポルトガルでも自由主義革命が起こり、1821年にはギリシア独立戦争が始まりました。

着色部分は各運動に関係する地域を示しており、当時の正確な国境を示したものではありません。
こうした自由主義や民族主義の動きは、従来の君主制や政治秩序を維持しようとするウィーン体制下の列強に警戒されていました。
なかでもスペインの立憲政治を問題視していたのが、ナポレオン失脚後にブルボン朝の復古王政が成立したフランスです。当時の国王はルイ18世で、フランスでも王政を支持する勢力と自由主義者の対立が続いていました。
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フェルナンド7世自身も絶対王政への復帰を望み、ヨーロッパ諸国に支援を求めていました。
1822年、列強はヴェローナ会議でスペイン問題を協議し、オーストリア・ロシア・プロイセンはフランスの介入を支持しました。一方、イギリスは他国の内政への軍事介入に反対します。
ヴェローナ会議は、1822年10~12月にオーストリア支配下の北イタリア・ヴェローナで開かれた国際会議です。
ウィーン会議以降、ヨーロッパの国際秩序を維持するために開かれた一連の国際会議の一つで、この会議ではスペイン立憲革命への対応が主要な議題となりました。
翌1823年、フランス国王ルイ18世は軍隊をスペインへ派遣。フランス軍は各地を進軍し、フェルナンド7世を伴ってカディスへ移っていた立憲政府を追い詰めました。
最終的に立憲政府は崩壊し、フェルナンド7世は再び絶対王政を復活させています。
その後、自由主義者への弾圧が行われ、スペイン立憲革命を主導したリエゴも処刑されました。
1823年からフェルナンド7世が死去する1833年までの時期は、スペインで「忌むべき十年間」(デカダ・オミノサ)と呼ばれています。
しかし、絶対王政の復活によって国内の政治的対立が解消されたわけではありませんでした。自由主義者の抵抗は続き、王政を支持する勢力の内部でも対立が生じていきます。
フェルナンド7世の死と王位継承問題(1830~1833年)
絶対王政が復活したスペインでは、フェルナンド7世の後継者をめぐる問題が新たな政治的対立を生んでいました。
当時のスペインでは男子が優先的に王位を継承する制度があり、男子の後継者がいないフェルナンド7世の弟・カルロスが有力な継承候補とされていました。
ところが1830年、フェルナンド7世は王妃の妊娠を受け、娘にも王位継承を認める国事詔書(プラグマティカ・サンシオン)を公布。同年10月には娘のイサベルが誕生します。
これに対し、絶対王政や伝統的な秩序を重視する保守派はカルロスを支持。一方、イサベルを支持する王妃マリア・クリスティーナの周囲には、自由主義者たちも集まるようになりました。
1833年、フェルナンド7世が死去すると、幼いイサベルがイサベル2世として即位し、母マリア・クリスティーナが摂政となります。
しかし、カルロスも王位継承権を主張し、支持者たちが蜂起。第一次カルリスタ戦争(1833~1840年)が始まりました。
こうして絶対王政と自由主義の対立は、フェルナンド7世の死後も続いていくことになります。




