ルクセンブルク危機とは?ナポレオン3世とプロイセンの対立をわかりやすく解説
ルクセンブルク危機とは、1867年にナポレオン3世がルクセンブルクの獲得を図ったことで、フランスとプロイセンの対立が激化した外交問題です。
最終的にはロンドン条約によって、フランスは獲得を断念し、プロイセン軍もルクセンブルクから撤退しました。

なぜルクセンブルクが外交問題になったのか?
ルクセンブルク危機を理解するには、当時のルクセンブルクがどのような立場にあったのかを知る必要があります。
ルクセンブルクは独自の国家としての地位を持ちながら、オランダ王を君主としていました。その一方で、政治・経済・軍事の各方面でドイツ地域とも深く結びついていました。
この複雑な立場に加え、首都には軍事的に重要な要塞があり、プロイセン軍が駐屯していました。そのため、フランスとオランダ王だけでルクセンブルクの譲渡を決められる状況ではなかったのです。
オランダ王がルクセンブルク大公を兼ねていた
ルクセンブルク大公国は、1815年のウィーン会議によって成立しました。
このとき、オランダ王ウィレム1世がルクセンブルク大公を兼ねることになり、オランダとルクセンブルクは同君連合の関係となっています。
同君連合とは、別々の国が同じ人物を君主としている状態です。
同君連合は国そのものが一つになったわけではありません。
同君連合と言えば、1580~1640年のスペイン王がポルトガル王を兼ねた例や、17世紀初めのイングランドでエリザベス1世の後を継いだスコットランド王ジェームズ6世がイングランド王ジェームズ1世を兼ねた例などが有名です。
1839年にはルクセンブルクの西部がベルギー領となり、残った地域が現在につながるルクセンブルク大公国となりました。
ドイツ地域とも深く結びついていた
一方で、ルクセンブルクはオランダ王との同君連合にありながら、ドイツ連邦にも加盟していました。
さらに、1842年にはプロイセンを中心とするドイツ関税同盟に加わり、経済面でもドイツ地域との結びつきを強めています。
ルクセンブルクの立場を簡単にまとめると、次のようになります。
- 君主
オランダ王がルクセンブルク大公を兼ねる - 政治
1866年までドイツ連邦に加盟 - 経済
ドイツ関税同盟に加盟 - 軍事
ルクセンブルク市の要塞にプロイセン軍が駐屯
政治・経済・軍事のつながりがそれぞれ異なっていたことが、ルクセンブルク問題を複雑にしていました。
ルクセンブルクは1815年に独立した大公国として成立しましたが、実際の自治は、オランダ王の統治とドイツ連邦からの要求によって制限されていたのです。
資料:ルクセンブルク政府広報局『About… the History of Luxembourg』p.17(PDF)
「北のジブラルタル」と呼ばれた要塞都市
ルクセンブルク市は、アルゼット川とペトリュス川がつくる深い谷と、険しい岩山に囲まれた場所に築かれていました。もともと守りに適した地形であり、その上に城壁や砦などが築かれたことで、都市全体がヨーロッパ有数の要塞へと発展します。
ルクセンブルク要塞は1867年以降に大部分が解体されましたが、現在も残る要塞跡と旧市街は世界遺産に登録されています。
ルクセンブルクの防備には、フランス、オーストリア、プロイセンなどが関わり、その時代の軍事技術を取り入れながら要塞を強化しました。
とくにフランスのヴォーバン(ルイ14世につかえた築城の専門家です)が要塞を拡張し、18世紀にはオーストリアがさらに地下施設などを整備したことから、「北のジブラルタル」と呼ばれるようになるほどでした。
フランスとプロイセン領ライン地方の間に位置するため、フランスもプロイセンもこの要塞都市を自国の影響下に置きたくてたまらないわけですね。どちらにとっても相手に取られると安全保障上の問題となる、かなり重要な場所だったのです。
そして、この要塞都市は1815年のウィーン会議後、プロイセンが軍事的な影響力を及ぼすようになっていました。ルクセンブルク市の要塞が、ドイツ連邦を防衛する連邦要塞とされたためです。
ところが、1866年の普墺戦争でドイツ連邦が解体された後でもプロイセン軍の駐屯は続きました。フランスにとっては溜まったものではありません。
ドイツ連邦がなくなったにもかかわらず、なぜプロイセン軍がルクセンブルクに残っているのか。この曖昧な状態が、危機の原因の一つとなりました。
ナポレオン3世はなぜルクセンブルクを求めたのか?
前章で見たように、ルクセンブルクはフランス東部国境に近い重要な要塞都市です。フランスが獲得できれば、プロイセンの台頭に備えて東部国境の安全を強めることができます。
しかし、調べていくと、ナポレオン3世がルクセンブルクを求めた背景には安全保障だけでなく、1866年に起こった普墺戦争後のフランス国内外の事情も見えてきます。
普墺戦争で中立を保ったフランス
普墺戦争でのフランスは直接参戦せずに中立を保ちましたが、この時のフランスが戦争とまったくの無関係だったわけではありません。
プロイセンにとって、オーストリアと戦っている間にフランスが介入しないことは重要なポイントとなっていたからです。そのため、ビスマルクは開戦前からナポレオン3世の意向を探り、フランスの中立を確保しようとしています。
一方のナポレオン3世は、戦争が長引けば、フランスがプロイセンとオーストリアの仲介役となり、戦後のヨーロッパ秩序を決める交渉に関与できると考えていました。その過程で、フランスの国境や国際的な立場を有利にしようとしていたのです。
ところが、プロイセンが予想以上の早さで勝利したことで、ナポレオン3世の描いていた青写真は崩れてしまいます。
普墺戦争後に求めた補償
普墺戦争後にはプロイセンを中心とする北ドイツ連邦の形成が進み、プロイセンは北ドイツで圧倒的な影響力を持つようになりました。その一方で、フランスは戦後処理を主導できず、目に見える領土上の成果も得られていません。
そのうえ、ルクセンブルク危機と同じころにはメキシコ出兵が失敗に終わりつつあり、第二帝政の対外政策に対する不満が強まっていました。
そうしたなかで「目に見える成果」があれば、ナポレオン3世は自らの外交手腕を国民に示すことができます。さらに、フランスが依然としてヨーロッパの国際政治に大きな影響力を持っていると国外に示すことも可能です。
そんなナポレオン3世の思惑をイメージすると――

フランスは普墺戦争で中立を保った。その中立は、プロイセンにとっても価値があったはずだ。
ならば、フランスも何らかの補償を得てよいだろう
こうして「フランスの成果」として候補の一つとなったのが、ルクセンブルクでした。フランスの中立には補償を受けるだけの価値があると考え、ルクセンブルクの獲得を目指したのです。
――ところが

フランスに領土上の補償を認めると正式に約束したわけではないだろう
実際に、両国間に領土上の補償を定めた正式な取り決めはありませんでした。それでも、ビスマルクはフランスの領土要求を明確に拒絶せず、ルクセンブルクをめぐる交渉の余地を残していました。
このように、ナポレオン3世がルクセンブルクの獲得を目指した背景には、安全保障上の不安だけでなく、普墺戦争後の外交上の行き詰まり、列強としての威信、そして国内に成果を示す必要性が重なっていたのです。
フランスはルクセンブルクを購入しようとした
ナポレオン3世が目をつけた頃のルクセンブルクは、オランダ王ウィレム3世が大公を兼ねていました。そこでフランスは、ウィレム3世に代金を支払い、ルクセンブルクに対する権利を譲り受けようとします。
ウィレム3世との交渉
1867年3月、ウィレム3世はフランスへの譲渡に前向きな姿勢を示しました。
ですが、ルクセンブルクにはプロイセン軍が駐屯しています。そのため、ウィレム3世はプロイセンの同意が得られることを譲渡の条件としました。
フランスとオランダ王だけで、ルクセンブルクの帰属を決められる状況ではなかったのです。
国を売買することはできたのか?
現在の感覚では、君主が国を売却しようとすることに違和感があるかもしれませんが、当時のヨーロッパでは、君主が持つ統治権や領土に関する権利が「外交交渉の対象」になることがありました。
もっとも、君主が自由に国を売買できたわけではありません。ルクセンブルクには政府や住民が存在し、その帰属は周辺国の安全保障やヨーロッパの勢力均衡にも関係していました。
実際、購入計画が明らかになると、ヨーロッパ諸国を巻き込む外交問題へと発展します。
なぜプロイセンとドイツ側は反発したのか?
フランスの購入計画に反発したのは、プロイセン政府だけではありませんでした。ルクセンブルクの軍事的重要性に加えて、ドイツ・ナショナリズムの高まりが問題をさらに大きくしていきます。
プロイセン軍が駐屯する土地だった
フランスがルクセンブルクを獲得すれば、プロイセン軍が駐屯する要塞都市がフランス領となる可能性がありました。
プロイセンは軍を撤退させるのか、それともフランスによる獲得を阻止するのか、対応を迫られます。
ドイツ・ナショナリズムが高まった
購入計画が知られると、ドイツの新聞や議会では強い反対の声が上がりました。
ルクセンブルクは1866年までドイツ連邦に属し、経済面でもドイツ関税同盟に加わっていました。そのため、ドイツ側にはルクセンブルクを「ドイツと結びついた土地」と考える人々が多く、フランスへの譲渡は「ドイツの土地を奪われること」と受け止められたのです。
もっとも、ルクセンブルクはプロイセン領でも、統一されたドイツ国家の領土でもありませんでした。こうした反発は、ルクセンブルクの複雑な立場をドイツ・ナショナリズムの視点から捉えたものでした。
ビスマルクは最初から罠を仕掛けていたのか?
ビスマルクは、当初からフランスへの譲渡に反対していたわけではありません。普墺戦争後には、ルクセンブルクをめぐる妥協の可能性を残していました。
しかし、購入計画が公になると、ドイツ世論の反発が高まります。ビスマルクも1867年4月には曖昧な態度を改め、譲渡に反対する姿勢を示しました。
この経過から、ビスマルクが初めからナポレオン3世を罠にはめようとしていたと説明されることがあります。
しかし、ビスマルクは最初から決められた計画に沿って動いたというより、フランスとの関係やドイツ世論、北ドイツ連邦と南ドイツ諸国の動きを見ながら方針を変えていたと考えられています。
フランスとプロイセンは戦争寸前になった
フランスはルクセンブルクの獲得を断念する代わりに、プロイセン軍の撤退を求めました。一方のプロイセンも、フランスの圧力に屈して軍を引き揚げたと見られることを避けようとします。
フランスによる獲得計画、プロイセン軍の駐屯、ドイツ世論、両国政府の威信が関係し、どちらも簡単には譲歩できなくなりました。
一時は軍事衝突の可能性も考えられましたが、この段階でフランスとプロイセンが開戦を決定していたわけではありません。
両国は対立を深めながらも、戦争を回避する方法を探っていました。
ロンドン会議で危機は収束した
フランスとプロイセンの対立を収めるため、ヨーロッパ諸国が仲介に動きました。最終的にはロンドンで国際会議が開かれ、双方が受け入れられる妥協案がまとめられます。
ルクセンブルクも参加したロンドン会議
1867年5月に開かれたロンドン会議では、ルクセンブルク問題がヨーロッパ全体の勢力均衡に関わる問題として扱われました。
1815年のウィーン会議でルクセンブルク大公国の地位が定められたときや、1839年のロンドン条約で国土がベルギーと分けられたときには、ルクセンブルク自身の代表がいないまま交渉が進められていました。
対して、1867年の会議では、ルクセンブルク側の代表も条約に署名しています。
自国の地位に関わる国際条約にルクセンブルクの代表者が署名したことは、国際社会における立場を強める重要な一歩となりました。
ロンドン条約の内容
1867年5月11日、ロンドン条約が結ばれました。条約の主な内容は次の通りです。
- オランダ王とルクセンブルクの同君連合を維持する
- ルクセンブルクを永世中立国とする
- 条約に加わった列強が、ルクセンブルクの中立を共同で保障する
- プロイセン軍がルクセンブルクから撤退する
- ルクセンブルク市の要塞を解体し、将来も再建しない
これにともない、フランスはルクセンブルクの獲得を断念しました。
一方、プロイセン軍も撤退したため、プロイセンだけが要求を通したわけではありません。
ルクセンブルクはプロイセン軍の撤退によってドイツとの軍事的な結びつきを解消しましたが、経済面では引き続きドイツ関税同盟にとどまりました。オランダとの同君連合も1890年まで続いています。
ルクセンブルク危機は普仏戦争の原因だったのか?
ルクセンブルク危機は、1870年の普仏戦争を直接引き起こした事件ではありません。
危機はロンドン条約によって外交的に解決され、フランスとプロイセンは戦争を回避しました。フランスがルクセンブルクの獲得を断念する一方、プロイセン軍も撤退するという妥協が成立しています。
しかし、この事件によって、普墺戦争後の両国が抱えていた問題が表面化しました。
プロイセンが北ドイツで勢力を拡大する一方、フランスはその台頭に不安を抱いていました。さらに、フランス国内の外交的不満やドイツ・ナショナリズム、両国間の相互不信も強まります。新聞や議会などの世論も政府の外交判断に影響を与えました。
その一方で、ルクセンブルク危機は、両国の対立が深まっても国際会議によって戦争を回避できた例でもあります。この時点で普仏戦争が避けられなくなったわけではありません。
ルクセンブルク危機は、あくまで普墺戦争後に生まれた「フランスとプロイセンの対立が、大きく表面化した外交危機」だったのです。
この危機から約3年後、フランスとプロイセンはスペイン王位継承問題をめぐって再び対立します。
今度はエムス電報事件を経て、1870年の普仏戦争開戦へとつながっていくことになるのです。