三月事件と十月事件の原因と背景
1930年(昭和5年)に陸軍軍人たちによって、日本の軍事国家化と翼賛議会体制への国家改造を目指して、桜会と言われる軍閥組織が誕生しました。
その桜会の急進的なグループは、大川周明らと結すび、1931年(昭和6年)にクーデター未遂事件である三月事件と十月事件を起こします。
軍部による政権奪取が行われる可能性があったこのクーデター計画は、戦前の軍部が暴走していく要因となりました。
三月事件とは?
この三月事件の首謀者は、陸軍の中堅幹部で構成されていた、桜会構成メンバーと右翼団体の大川周明と清水行乃助でした。
クーデターの目的は、民衆を扇動して議会を封鎖し、浜口雄幸内閣を倒し、陸軍大臣である宇垣一成を首相にすることでした。結果的には、陸軍内部で意見が割れたのと首相に担ぎ上げられた宇垣の同意が得られなかったためクーデター実行までには至りませんでした。
クーデター計画が明るみに出て、軍規に照らし適切な処分が行われるのが正しいのですが、軍部の首脳陣が計画に関与していた事もあり適切な処分は行われませんでした。このクーデター未遂事件が起こった事により、後の十月事件や二・二六事件などに繋がる事になります。
三月事件が起こった背景
三月事件に関わらず、十月事件、二・二六事件などの一連の事件が起きた背景には、度重なる恐慌で民衆たちの暮らしが困窮した事から始まります。
また、軍縮で軍部の力が一時的に低下していた頃でしたが、その一方で政党政治の行き詰まりなどの様々な要因が後の軍部台頭を招いていきます。
政党政治の失敗と度重なる恐慌
【国家の主権の活動の基本的目標は政治上人民にあるべし】と民本主義を唱えた吉野作造の言葉を背景に、国民の政治意識が高まった大正デモクラシーの中で、1925年に施行された普通選挙法により選挙権の拡大が行われ、政党政治が変わった時代でした。
しかし、第一次世界大戦後に輸出が減少した事で日本は恐慌を迎えていました。さらに、輪をかけて1923年に関東大震災が起き、復興の中で手形の焦げ付きがおき、金融恐慌となり日本経済はどん底まで冷え込みました。
追い打ちをかけたのが、1929年の世界恐慌で日本の経済は止めを刺されました。
負の連鎖は続き、浜口内閣が実行した金解禁が昭和恐慌を生み、全国的な凶作も相まって人々の貧困が進み、身売りなどの社会問題が生じます。一方で、日本をどげんかせんといけん政府は、政党政治内で汚職がはびこり、政党同士が足を引っ張り合い、政局が停滞していました。
いつの時代にも、政党同士の足の引っ張り合いがあるもので、国民の不平不満が爆発するのも無理がありません。
軍縮による陸軍の不平不満
第一次世界大戦後は、世界的に軍縮の流れが生まれていました。1921年から1922年にかけて締結されたワシントン海軍軍縮条約を機に海軍の軍縮は進みます。
帝国議会の要求や海軍の手前もあるので、陸軍はそのままと言うわけにも行かなく、軍縮を着手する事になります。
1922年と1923年に陸軍初の軍縮である山梨軍縮が行われ、1925年には関東大震災後の災害復興費の工面と軍の再編を目的とした宇垣軍縮が行われます。この宇垣軍縮と言うのが、三月事件で首相候補として担ぎ上げられた宇垣一成陸軍大臣によって行われたことからその名が付きました。
上記の通り、政党政治の不信感がある中での軍縮だったので、陸軍内部でも様々な反発が生じていました。
桜会の結成
冒頭でも書きまいしたが、三月事件の中心となる桜会が1930年9月に結成されました。
陸軍大学校出身のエリート将校が中心の秘密結社として、政党政治の打倒と軍部独裁政権樹立を目的として暗躍することになります。
内部では破壊派・建設派・中間派で分かれていましたが、その中でも急進的な中心としたグループが台頭します。
その急進派が右翼団体の代表だった大川周明らと結びつき、国家転覆を計画する事になるのです。
三月事件の経過
三月事件は、軍部クーデターの未遂事件ですから、計画自体は未遂に終わっています。
この計画は、桜会の陸軍中堅幹部と大川周明や清水行之助によって計画されました。また、参謀本部の少将や中将らの上層部の賛同もあったそうです。
三月事件の計画内容
清水が代表である右翼団体の大行社が警視庁を襲撃し、大川と清水により参謀本部の橋本中将から借り受けた擬砲弾300発を使用して東京で動乱を起こすと言う計画でした。
そして、社会民主党の亀井貫一郎・赤松克麿らによって大衆を動員し、開催中の帝国議会へ群集を押しかけさせるとともに、陸軍将校が議会封鎖して議会保護を理由として浜口内閣を辞任させ、宇垣一成陸相を首相とする計画でした。
しかし、軍部の中でも時期が早すぎると反対するも多く、事件を起こさなくても浜口首相が辞任する方が早いのでは?と言う見方もあったようそうです。
また、このような大層な事件を起こそうとしている割には、綿密な計画性もなく実行自体が困難でした。そのため、計画実行の前日に撤回されることになりました。
三月事件のその後の影響
三月事件後は、日本は少しずつ戦争への歩みを始め、軍部が台頭し始めます。
また、首相として担ぎあげられる予定であった宇垣一成はその後朝鮮総督となり、1937年に組閣の大命降下がおりますが、軍部大臣現役武官制によって組閣流産となり、最終的には総理大臣となる事なく終えます。
国家の安全を脅かすクーデター計画は、厳正な処分が必要でしたが、陸軍幹部クラスが関与していたこともあり、事件が隠蔽されることになりました。
この三月事件をきっかけとして様々なクーデター事件が昭和前期で計画され、同じ年の10月には十月事件に続きます。
十月事件の発生
桜会の影響は、三月事件後も強い影響力を持っていました。
このような状況で1931年9月には柳条湖事件が発生して満州事変が起こります。
この時の政府の方針としては一連の事件を大きくせずに不拡大方針としましたが、陸軍の急進派はこの決定を不服として、三月事件に関与した大川周明や社会主義者の北一輝が結託しクーデターが計画されます。
これが十月事件です。
その計画内容は、軍部を動員し、首相らを暗殺。そして現内閣を倒閣し、荒木中将を首相とした軍事政権の樹立でした。しかし、陸軍省・参謀本部の中枢部に情報が洩れ、計画の中心事物が検挙されたことで、この計画も未遂に終わります。
その結果、桜会は解体されることになりますが、十月事件においても責任追及があやふやになり、その刑罰も謹慎や転勤程度の甘いものとなりました。
結果的に倒閣は達成され、若槻内閣から犬養内閣へと変わりました。
そして、陸軍士官学校事件を経て、それらの集大成ともいうべき二・二六事件が生じる事となり、犬養毅首相の暗殺事件へと進んでいき、軍部の暴走が始まり日本は戦争への階段を進んでいく事となります。