無産政党の歴史と三・一五事件の背景

当時、主に農民をしている労働者を【無産者】と呼んでいました。
タイトルにある無産政党とは、これらの人達からなる政党のことです。主に農民の利害のための政党と言えます。現在の社会主義政党の立ち位置にあると考えられておりますが、日本共産党とは違うようです。
この時代、社会主義思想自体が取り締りの対象だったので、治安維持法(1925年制定)に触れないよう【無産】という言葉を使ったとされています。
無産政党の表現は第二次大戦後には使われなくなりましたが、1920年~1940年くらいまでは【労働農民党】【社会大衆党】と言われる無産主義者により立ち上げられた地方的無産政党が30以上ありました。
無産政党の歴史
無産政党とは戦前の労働者(無産者・生産手段を持たない者)のための合法政党の事を指し、様々な政党が結党されていました。
社会民主党
日本での本格的無産政党の走りとして結党されたのが社会民主党(現在の社民党とは異なります)で1901年に結党されています。
党則第一条に掲げたのは「我党は社会主義を実行するを以て目的とす」で、社会民主党の党則第一条として、テスト等に出てくることがあるようです。
具体的に党が掲げた以下の8項を【社会党民主宣言書】と言います。
社会党民主宣言書
- 人類同胞主義
- 軍備全廃
- 階級制度全廃
- 土地・資本の公有
- 交通機関の公有
- 公平な財府分配
- 参政権の平等
- 教育の公費負担
これが新聞に取り上げられた二日後には、内務大臣より政党として「禁止」されました。また、各メディアの発禁も徹底されました。この思想はのちに日本で、非戦論を中核として結成された社会主義結社、平民社に引き継がれていきました。
大逆事件~幸徳事件~
1908年に「天皇・皇后・皇太子などを狙って危害を加えようとする罪」を大逆罪が施行されました。この法律が施行されれからの有名な大逆事件の一つに【幸徳事件】がありました。
明治天皇の暗殺をくわだてたとして、全国の社会主義者を逮捕、起訴、死刑などに処した事件で1911年に死刑24名、有期刑2名という大きな判決が下されました。
この事件以降、社会主義集団は壊滅状態になりしばらくは活動休止状態が続きました。
しかし、第一次世界大戦後に本格的に日本の資本主義が急速に興ると、資本側と労働側の対立が顕著となってきました。その風潮から再び社会主義思想が再熱し、社会主義者たちが結党しては禁止され、最終的には労働農民党が合法政党として樹立に成功しました。
無産政党【労働農民党】
1926年に創立された無産政党が労働農民党です。よく似た名前の政党に農民労働党という政党もありますが、こちらは前年に結成されたもののすぐに共産主義との関係を指摘されて禁止になっていた政党です。
そこで、農民労働党は共産主義を排除して労働農民党として認められるよう動き実際に政党結成に成功させています。ところが、時間の経過とともに親共産主義と反共産主義が対立し、中間派の離脱が起こると、労働法制定運動などに積極的に参加するようになっていきます。
そんな感じで日本の左派と呼ばれる無産政党から分裂した【合法の政党】として労働農民党はスタートしたのですが...
無産政党と共産党の違い
無産政党と共産党の考え方が似ていることから同じにされることが多いのですが、無産政党は合法的に結成された政党なのに対し、共産党は非合法的に結成された政党であることを抑えておいてください。
無産政党の中でも非合法とされた党もありましたが、合法を目指した政党が労働農民党だったのです。
三・一五事件とその背景
1928年3月15日に無産政党と関係の深い田中義一内閣が全国一斉に共産党員とその支持者を一斉検挙しました。この時検挙された人数はおよそ1500人とされ、うち483人が起訴された三・一五事件が起こりました。
検挙された人数からも想像できますが、全国的な共産党員の全国規模の検挙事件のことを指しています。
この三・一五事件の後の日本では、政治的に新たな動きが生まれました。同年6月に治安維持法が改正され、最高刑に死刑・無期懲役が追加…結社として届け出すると即日禁止された治安維持法は改正で厳罰化がなされたわけですね。
無産政党の一部は非合法の日本共産党と合流しており、労農党から立候補者として出馬する人たちもいるほど深いつながりがあったものですから労働農民党の方も結社禁止処分にされてしまいました。
労働農民党と三・一五事件の関係とは?
三・一五事件は第一回普通選挙の後に起こっています。この第一回普通選挙では無産政党から8人の当選者を出していました。
無産政党である労働農民党は19万票以上の得票数があり、田中内閣は焦りの色を隠せませんでした。いくら合法の政党は言え【天皇反対】の思想が強い労働農民党から議員が出れば穏やかではなかったのです。
この年には、大正天皇の喪が明け、昭和天皇の礼があり、田中内閣はこの即位の礼を成功させなければいけない状況ではなおさらでした。
【天皇反対】思想を支持する者が19万人以上いるという事実に、政府は天皇反対思想を持つ人々を一斉に検挙・逮捕し、治安維持法の死刑に引き上げまでして排除をしました。
当時の時代背景を考えれば、当然のことですが、天皇政権の維持の必要性が集約された事件だったと思います。
治安維持法とは
いくつかの記事で治安維持法というキーワードが出てきているので、少し触れていきます。
大正デモクラシーと真っただ中、1925年に普通選挙法と治安維持法が制定されました。
ポイントは、【天皇制の変革】と【私有財産制の否定を目的とした結社とその運動】を禁止する法律です。共産党の社会変革運動を取り締まりから始まり、段々と政府を批判する言動も取り締まるようになりました。
その結果、天皇制を揺るがす思想のない自由主義者や労働運動までもが取り締まりの対象となりました。田中義一内閣は治安維持法違反者の最高刑を死刑にし、軍部への反対運動や戦争反対の動きも厳しく弾圧していきました。
手段を選ばない悪法と化した治安維持法は、1945年第二次敗戦と共に撤廃されました。
また、戦後無産政党の地方政党が合流したのが、【日本社会党】でした。
日本共産党
1922年に結成された当時の日本には思想・言論・信仰の自由がなかったため、反体制思想である共産党は非合法政党として存在していました。社会主義思想がことごとく淘汰されていった時代に、分裂や解党の危機を乗り越え1945年に再結成され現在の日本共産党として存続しています。
現在、国会に議席を持つ政党としてはもっとも長い歴史を持っており、1946年の国会進出以来、一貫して確かな野党の地位にあり連立・閣外協力も含め与党の地位についたことはありません。
最後に
戦前戦後は、天皇主義の維持が大切だったため、多くの政党の思想家が罰せられ命を落としていました。試験問題などでは、無産政党については触れませんが、どうしてここまで厳しく取り締まらなければいけなかったのかなどの背景を押さえておくとよいでしょう。