ウィーン体制とは?ナポレオン戦争後のヨーロッパ秩序をわかりやすく解説
フランス革命とナポレオン戦争は、ヨーロッパの政治秩序を大きく揺るがしました。
フランスでは絶対王政が倒れ、立憲君主政、共和政、総裁政府、統領政府、第一帝政を経て、最終的には復古王政へと移ります。また、ナポレオンの遠征によって、フランス革命の理念やナポレオン法典はヨーロッパ各地にも広がっていきました。
しかし、ナポレオンが没落すると、ヨーロッパの列強は新たな課題に直面します。
それは、革命と戦争によって乱れたヨーロッパ秩序を、どのように立て直すかという問題でした。
そこで開かれたのが、1814年から1815年にかけてのウィーン会議です。この会議をもとに成立した国際秩序を、ウィーン体制といいます。
今回は、ウィーン体制とは何だったのか、正統主義や勢力均衡、メッテルニヒの役割、そしてウィーン体制がなぜ揺らいでいったのかを見ていきます。
ウィーン会議はなぜ開かれたのか
ウィーン会議は、ナポレオン戦争後のヨーロッパ秩序を再建するために開かれた国際会議です。
フランス革命以前のヨーロッパでは、各地の王朝や君主が、それぞれの国や領土を支配していました。ところが、フランス革命によってブルボン家の王政が倒され、その後ナポレオンがヨーロッパ各地に勢力を広げたことで、従来の王朝秩序は大きく崩れます。
ナポレオンの支配下に置かれた地域では、国境が変更され、政治制度や法制度も変化しました。さらに、自由や平等といったフランス革命の理念も広がっていきます。
ナポレオンを倒したヨーロッパの列強にとって、これは大きな問題でした。
もし革命思想やナショナリズムが各地に広がれば、自国の王政や帝国支配も揺らぎかねません。そこで、ヨーロッパの列強はウィーンに集まり、ナポレオン後の秩序を作り直そうとしました。
このウィーン会議で中心的な役割を果たしたのが、オーストリア外相メッテルニヒです。メッテルニヒは、革命運動やナショナリズムを警戒し、王朝秩序を守る保守的な国際秩序を作ろうとしました。
- 「会議は踊る、されど進まず」とは?
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ウィーン会議では、各国の代表が集まり、舞踏会や社交行事も盛んに行われました。その一方で、領土問題や各国の利害調整は難航します。
その様子を表した言葉が、「会議は踊る、されど進まず」というものです。
かなり難しい会議ではあったものの、最終的には正統主義と勢力均衡にもとづき、ナポレオン後のヨーロッパ秩序が再編されるという決着点に落ち着いています。
正統主義とは何か
ウィーン会議の基本方針の一つが、正統主義です。
正統主義とは、フランス革命やナポレオンによって倒された「正統な王朝」や君主を復活させようとする考え方です。
この考え方を主張した人物として知られるのが、フランス外相のタレーランです。
フランスでは、ナポレオンの没落後、ブルボン家のルイ18世が即位し、復古王政が成立します。
とはいえ、アンシャン=レジームに完全に回帰したかというとそうではありません。フランス革命とナポレオン時代を経たフランスでは、社会や法制度、人々の政治意識がすでに大きく変化しており、身分制社会をそのまま復活させることは難しく、革命前に完全に戻ることは困難でした。
ウィーン体制はよく「昔に戻した体制」と説明されることがありますが、新たな意識が芽生えていたフランスに代表されるようにすべてを水に流すようなことはできませんでした。革命とナポレオン戦争で変化したヨーロッパを前提にしながら、王朝秩序をできるだけ回復しようとした体制だったと考えると理解しやすくなります。
勢力均衡とは何か
ウィーン体制では、正統主義だけでなく、勢力均衡の原則も重視されました。
勢力均衡とは、ヨーロッパの中で一つの国だけが強くなりすぎないように、各国の力のバランスを取る考え方です。
- ポーランド王国の成立(ロシア皇帝を王とする)
- プロイセンはザクセンの一部とライン川左岸地域(ラインラント)を獲得
- オランダは(オーストリアから)ネーデルラント(=現ベルギー)を獲得
- オーストリアは※ロンバルディアとヴェネツィアを併合
- ロシアは(スウェーデンから)フィンランドを割譲される
- スイスは永世中立国に
- ドイツ連邦の成立(墺・普含む39のドイツ諸邦や自由市からなる)など
オーストリアが併合した「ロンバルディア」「ヴェネツィア」はイタリア北部にあります。のちにイタリア統一問題の火種となる地域です。
ナポレオン時代には、フランスがヨーロッパ全体に大きな影響力を持つようになっていました。フランスが強大化した結果、周辺諸国は何度も戦争に巻き込まれ、ヨーロッパ全体が不安定になっています。その反省から、ウィーン会議ではフランスを抑えつつ、ヨーロッパ全体のバランスを保つことが重要視されました。
一方で、ウィーン体制は単に「革命を否定する体制」だけではありませんでした。
もちろん、ウィーン体制は自由主義やナショナリズムを警戒する保守的な体制です。ですが、同時にヨーロッパで一国が突出して強くなりすぎることを防ぎ、大規模な戦争を避けようとする国際秩序としても機能しました。
これまでの話を整理すると…
ウィーン体制=列強が協力してヨーロッパの秩序を守ろうとした体制
ということです。
特にメッテルニヒは、自由主義やナショナリズムの運動を危険視していました。これらの運動が広がれば、オーストリア帝国のような多民族国家では各民族が独立を求める可能性があったからです。
そのため、ウィーン体制は革命運動や民族運動を抑え込もうとする保守反動的な性格を持っていました。
神聖同盟と四国同盟
ウィーン体制を支えた仕組みとして、神聖同盟と四国同盟があります。
神聖同盟は、ロシア皇帝アレクサンドル1世の提唱によって結ばれた同盟です。ロシア、オーストリア、プロイセンが参加し、キリスト教的な理念を掲げながら、君主同士の協調を目指しました。
一方、より現実的にヨーロッパ秩序を支えたのが四国同盟です。
四国同盟は、イギリス、オーストリア、プロイセン、ロシアによる同盟で、フランスの再拡大を警戒し、ウィーン体制を維持することを目的としました。その後、フランスも加わり、五国同盟となります。
※ウィーン体制がその後どう崩れていくかは下の記事に書いてあります。神聖同盟や四国同盟についても軽く触れてあるので気になる方はご覧ください。
ウィーン体制はなぜ揺らいだのか
ウィーン体制は、ナポレオン戦争後のヨーロッパに一定の安定をもたらしました。
一方で、フランス革命によって広がった自由主義やナショナリズムの考え方を完全に消すことはできませんでした。
自由主義とは、憲法や議会、言論の自由などを重視し、個人の権利や政治参加を求める考え方のこと。一方、ナショナリズムとは、共通の言語や文化、歴史を持つ人々が民族としてのまとまりを意識し、自分たちの国家や独立を求める考え方のことです。
ウィーン体制は、こうした自由主義やナショナリズムを抑えようとしましたが、ヨーロッパ各地では自由や独立を求める運動がたびたび起こるようになります。
ウィーン体制にとって最初のほころびの一つとなったのが、ラテンアメリカ諸国の独立やギリシア独立戦争でした。
ラテンアメリカ諸国の独立(1810~1820年代)
ラテンアメリカの独立運動は、ウィーン体制への反発だけで起こったものではありません。そもそもナポレオン戦争期には独立運動が始まっていました。
フランス革命とナポレオン戦争で崩れたヨーロッパの秩序を立て直そうとしたウィーン体制ではあるけど、話し合い前の段階で既に新しい時代へのうねりが始まっていたんですね。
アメリカ独立革命やフランス革命の影響がありました。ヨーロッパの植民地が本国から独立するという前例や、自由・平等といった思想は、スペイン領・ポルトガル領アメリカの人々にも影響を与えます。
ナポレオン戦争によってスペインやポルトガル本国の支配力が揺らいだことも大きなきっかけとなりました。本国の王政が混乱すると、植民地側でも「自分たちは誰に従うのか」という問題が起こります。その中で、各地の独立運動が進んでいきました。
ギリシア独立戦争(1821~29年)
ギリシア独立戦争は、オスマン帝国からの独立を求める民族運動として起こりました。これは、ウィーン体制が抑えようとしたナショナリズムの動きが表面化した例といえます。
ただし、ギリシア独立戦争も民族運動だけで説明できるものではありません。当時のオスマン帝国はかつてほどの力を保てなくなっており、さらにロシアは黒海方面から南へ勢力を広げようとしていました(=南下政策)。ギリシア人の多くがロシアと同じ正教徒であったことも、ロシアが関心を持つ理由になります。
そんな感じで、ギリシア独立戦争は民族独立運動であると同時に、オスマン帝国をめぐる列強の利害が絡んだ問題でもありました。この問題は、のちの東方問題やクリミア戦争にもつながっていきます。
七月革命と二月革命(1830年/1848年)
ウィーン体制をさらに大きく揺るがしたのが、フランスで起こった七月革命と二月革命です。
1830年の七月革命ではブルボン朝の復古王政が倒れ、ルイ=フィリップによる七月王政が成立しました。ルイ=フィリップを推していたのは中産階級、いわゆるブルジョワジーと呼ばれる人々です。
ルイ18世がなくなって跡を継いだのは弟のシャルル10世。彼は絶対王政の復活を目指し反動政治を行っていました。
ルイ=フィリップはブルボン王家の支流出身ではありますが、野党の自由主義者たちに同情的であり、国外追放までされています。また、自身の子女を公立学校に送ったことでも知られ、ブルジョワジーの間で人気となっていました。
これは、ウィーン体制の正統主義によって復活したはずのブルボン家の王政が、再び革命によって倒されたことを意味します。七月革命の影響は周辺にも広がり、ベルギーがオランダから独立しています。
そして1848年には、再びフランスで二月革命が起こりました。七月王政が倒れ、第二共和政が成立します。
この動きはヨーロッパ各地に広がり、オーストリア、プロイセン、イタリア、ハンガリーなどでも革命運動や民族運動が起こります。これを1848年革命といいます。

特に重要なのがオーストリアでメッテルニヒが失脚したこと。メッテルニヒはウィーン体制を支えた中心人物で、彼の失脚はウィーン体制が大きく揺らいだことを示す出来事となっています。
このように、ウィーン体制は革命やナショナリズムを抑えようとしましたが、自由や独立を求める動きを完全に止めることはできませんでした。
ウィーン体制の意義
ウィーン体制は、正統主義によって王朝秩序を回復し、勢力均衡によって一国の突出を防ごうとした体制でした。
しかし、その足元ではラテンアメリカ諸国の独立、ギリシア独立戦争、七月革命、二月革命など、自由主義やナショナリズムにもとづく動きが広がっていきます。
フランス革命が広げた新しい考え方と、それを抑えようとした保守的な秩序。この対立こそが、19世紀ヨーロッパを動かしていく大きな流れになっていったのです。





