啓蒙専制主義とは?フリードリヒ2世・ヨーゼフ2世・エカチェリーナ2世の改革
啓蒙思想というと、アメリカ独立革命やフランス革命のように、自由や権利を求める動きと結びつけて考えられることが多いかもしれません。
実際、アメリカ独立革命では、植民地の人々がイギリス本国に対して自分たちの権利を主張しました。さらに、その後のフランス革命では、絶対王政や身分制そのものが批判されていきます。
しかし、啓蒙思想の影響を受けたのは、民衆や知識人だけではありませんでした。
18世紀ヨーロッパでは、君主自身が啓蒙思想を取り入れ、国家の改革を進めようとする動きも見られました。これが、啓蒙専制主義です。
啓蒙専制主義とは、簡単にいえば、啓蒙思想と絶対王政が結びついた政治のあり方のことです。
“専制”という文字が示している通り、これは国民が政治に参加する民主的な政治ではありません。君主が国家を強くするために、上から合理的な改革を進めた政治でした。
今回は、啓蒙専制主義とは何かを整理しながら、アメリカ独立革命やフランス革命との違いも見ていきます。
啓蒙専制主義とは何か
啓蒙専制主義とは、18世紀ヨーロッパで見られた政治のあり方の一つです。君主が啓蒙思想の考え方を一部取り入れながら、絶対王政の枠内で改革を進めました。
啓蒙思想は、理性にもとづいて社会や政治のあり方を見直そうとする思想で、迷信や古い慣習にとらわれずに合理的に社会を運営しようとする考え方です。
この考え方は、本来なら身分制や絶対王政への批判にもつながるものでしたが、一部の君主たちは啓蒙思想を国家を効率よく運営するための考え方として取り入れました。
たとえば、法制度の整備、教育の重視、宗教的寛容、農業や産業の振興、行政の合理化などです。古い制度を見直し、国家を近代化しようとしています。
ただし、ここでの改革の主導権はあくまで君主にあり、国民が政治に参加する仕組みを作ったわけではありません。君主による国家を強くするために進めた上から改革だったのです。
なぜ君主が啓蒙思想を取り入れたのか
そのため君主たちは、税制や行政を整え、国家をより効率よく運営する必要に迫られていました。啓蒙思想の合理的な考え方は、古い制度や地域ごとのばらつきを見直し、国家を効率よく運営しやすいものだったのです。
ヨーロッパでは、17世紀から戦争や政治的混乱が続き、各国は軍隊の維持や財政の安定に苦しんでいました。18世紀に入っても、各国の外交競争や戦争は続きます。
教会や貴族の特権が強すぎると君主による中央集権化の妨げになる場合もあったため、宗教的寛容を進めたり、貴族や教会の特権を一部見直したりする改革が行われています。
ただし、啓蒙専制主義は改革が「人民のため」を掲げることがあっても政治を実際に決めるのは人民ではなく君主でした。
ここが、のちのアメリカ独立革命やフランス革命との大きな違いになります。
代表的な啓蒙専制君主たち
実際の啓蒙専制君主の代表例としては、プロイセンのフリードリヒ2世、オーストリアのヨーゼフ2世、ロシアのエカチェリーナ2世がよく挙げられます。
フリードリヒ2世――プロイセンを強国にした君主
啓蒙専制君主の代表例としてよく挙げられるのが、プロイセン王国のフリードリヒ2世です。
自らを「国家第一の僕」と考え、宗教的寛容、法制度の整備、行政改革、農業開発、産業振興などに力を入れました。啓蒙思想家ヴォルテールとも交流し、啓蒙専制君主の代表格として知られています。
フリードリヒ2世の政治は、自由や平等を全面的に実現するものではありません。強い軍事国家でもあったプロイセンで農奴制も完全にはなくなりはしませんでした。
ヨーゼフ2世――改革を急ぎすぎた皇帝
神聖ローマ皇帝でもあったヨーゼフ2世は、オーストリアを中心とするハプスブルク家の支配領域で宗教寛容令を出し、農奴制の緩和、修道院改革、行政の中央集権化などを進めました。
彼の改革はかなり急進的で、貴族、教会、地方社会からの強い反発を招きました。特にハンガリーやネーデルラントでは反発が広がり、死後には多くの改革が後退しています。
なお、ヨーゼフ2世はフランス王妃マリー・アントワネットの兄でもありました。マリー・アントワネットは、のちにフランス革命の中で強い批判を浴びる人物です。
同じ18世紀のヨーロッパ王家の中で、一方では君主による「上からの改革」が試みられ、もう一方では王政そのものが批判されていったことになります。
エカチェリーナ2世――啓蒙思想とロシアの現実
ヴォルテールやディドロなどの啓蒙思想家と交流し、法典編纂や教育・文化政策にも関心を示したロシアの啓蒙君主がエカチェリーナ2世です。
ただし、当時のロシアでは農奴制が根強く残っていただけでなく、プガチョフの乱(1773-75年)もありました。この反乱後、エカチェリーナ2世の政治姿勢は、啓蒙思想への関心だけでなく、専制君主として支配体制を守る姿勢も同時に見られました。
代表的な3人の君主を見ると、啓蒙専制主義を取り入れた君主たちはあくまで絶対王政の枠内に留まっていたのが分かるかと思います。
啓蒙専制主義の限界
啓蒙専制主義は、古い制度を一部見直し、国家を合理的に運営しようとした点では非常に重要なきっかけでした。
教育、法制度、行政、宗教政策、産業振興などの面で、近代化につながる改革も行なわれています。
しかし、一方で啓蒙専制主義には大きな限界も見えてきました。
- 政治の主導権は君主にあった
民衆や国民が政治に参加する仕組みを作ったわけではない - 身分制や農奴制が完全に消えたわけではなかった
フリードリヒ2世のプロイセンでも、エカチェリーナ2世のロシアでも農奴制は残った - 改革は君主の意思に大きく左右されていた
君主が強い意思で改革を進めても、死後に後退することも
つまり、啓蒙専制主義は近代化への動きではありましたが、民主主義そのものではありませんでした。
アメリカ独立革命・フランス革命との違い
ここで、アメリカ独立革命やフランス革命との違いも押さえておきましょう。
啓蒙専制主義は、君主が啓蒙思想を取り入れて進めた「上からの改革」だった一方で、アメリカ独立革命では、イギリス本国に従う立場に置かれていた植民地の人々が自分たちの権利を主張しました。
さらにフランス革命では、絶対王政や身分制そのものも批判の対象にされていきます。
つまり、同じ啓蒙思想の影響を受けていても、啓蒙専制主義は君主による改革であり、アメリカ独立革命やフランス革命は、人民の権利や政治参加を求める動きだったのです。


