恐慌の時代とは?昭和金融恐慌から高橋財政まで
昭和初期の日本社会を理解するうえで「恐慌の連鎖」の因果関係を押さえることは欠かせません。1927年の昭和金融恐慌は信用不安が連鎖しやすい構造を露呈させ、1929年の世界恐慌は輸出と需要を冷やして国内景気を直撃しました。
さらに1930〜31年の昭和恐慌では、世界的な不況に加えて金解禁に伴うデフレ圧力が重なり、都市と農村の両面で生活と雇用に深刻な影響が広がります。
この記事では、昭和金融恐慌(1927)→世界恐慌(1929)→昭和恐慌(1930–31)→高橋財政(1931以降)を一本の流れとして整理し、なぜ不況が深刻化し、どこで政策が転換したのかを簡単にまとめていきます。
恐慌が起こる大前提とは何?
恐慌は単なる景気後退ではなく、資金繰り悪化と返済停滞が連鎖して信用を減らしていく点に特徴があります。直前の好況で投資や借り入れが膨らむほど、需要が落ちたときの在庫と返済負担が重くなり、落差が大きくなります。

1914年から1918年の第一次世界大戦では軍需が拡大し、主戦場から離れた日本(+米国)では輸出や海運が伸び、大戦景気と呼ばれる好況が生まれました。好況期には、輸出で得た収益を背景に事業拡大や投資が進み、のちの景気が後退する局面では資金繰りが詰まりやすい条件も蓄積されます。
では、なぜ当時の日本経済は、信用不安が連鎖しやすい状態になっていたのでしょうか。
昭和金融恐慌(1927年)
昭和金融恐慌は、まさに恐慌が起こる条件に当てはまった中で起こりました。
大戦景気の反動で表面化した弱点は、戦時需要を前提に膨らんだ生産・投資の負担に加えて、好況期に増えた融資が景気の冷え込みで回収不能(焦げ付き)になりやすかったことです。まず、日本で起きた流れを図で確認します。


戦後の反動で表面化した弱点
好況期には増産・投資の資金が回りますが、景気が冷え込むと売上が落ち、返済の停滞に直結しやすくなります。ここでは、戦後の景気後退で「産業」と「金融」に何が起きたのかを要点だけ整理します。
産業面
戦時需要を見込んで増産や設備投資を進めた結果、終戦後に需要が落ちると、在庫や作りすぎた設備が負担として残りました。売れ行きが落ちて価格が下がっても、固定費や借入返済は消えません。手元のお金が足りなくなる企業から行き詰まりが出やすくなります。
金融面
好況期に増えた貸し出しも、景気後退で返済の遅れや焦げ付きにつながります。銀行が貸し出しに慎重になるほど、企業に回るお金は減り、支払いが苦しくなる企業が増えます。
結果、「企業の不振」と「銀行の不安」による悪循環によって信用不安が広がりやすい状態ができました。
「不況が起きやすい土台」が残っていた理由
大戦景気の反動で弱点は表面化しても負担の整理は進まず、問題は先送りされました。
企業側の返済負担と、銀行側の貸し出しの慎重さが同時に残ったため、景気後退の局面では資金の流れが細りやすい状態が続きます。こうして、ちょっとした不安や噂でも信用が揺れやすい“土台”ができあがりました。
昭和金融恐慌は、まさにこの条件のもとで信用不安が連鎖した出来事でした。
信用不安はなぜ連鎖したのか
昭和金融恐慌(1927年)は単に景気が悪化したというよりも、預金者の不安が連鎖し、資金の流れが急に細ったことで深刻化した恐慌です。
では、何が引き金になり、なぜ「一部の不安」が全国規模の信用不安へ広がっていったのでしょうか。
何が起きたか
1927年春、銀行や企業の経営不安がくすぶる中で、預金者の間に「危ない銀行があるのでは?」という疑念が広がりました。
疑念が特定の銀行に向かうと預金引き出しが集中し、当該銀行は休業や支払い制限を迫られます。その混乱が報じられると「次は別の銀行かもしれない」という不安が生まれ、取り付けが他行へ波及しました。
さらに取引先企業の不調も不安を強め、銀行不安と企業不安が結びついて信用不安が拡大していきました。昭和金融恐慌は、こうした取り付け騒動として表面化します。
なぜ大きくなったか
信用不安が拡大した要因は、「きっかけ」そのものよりも、連鎖が生まれやすい条件が重なっていた点にあります。ここは三つに分けて押さえると理解が早いです。
- 市場心理:銀行の実態は見えにくく、「念のため引き出す」が広がると連鎖しやすい
- 銀行の仕組み:預金(短期)で融資(長期)を支えるため、不安が広がると資金の流れが細りやすい
- 政策対応:救済策や緊急措置が見えない時間が長いほど、不安が増幅しやすい
取り付けは、起きた銀行の資金繰りを直撃し、その混乱が報じられると他の銀行にも波及します。市場心理と銀行の仕組みが噛み合い、信用不安が連鎖しました。
残った課題
昭和金融恐慌は緊急措置で沈静化しましたが、返済負担を抱える企業と貸し出しに慎重になる銀行が重なり、資金供給が急に細る構造は解消されませんでした。
この状態は景気回復を遅らせ、返済停滞を増やす悪循環にもつながります。1929年の世界恐慌は、こうした国内の脆さの上に外からの需要縮小が重なる形で、日本経済をさらに冷やしていきます。
世界恐慌(1929年)/世界の不況は日本にどう波及したのか
1929年の世界恐慌は、日本の不況を外から深刻化させた原因となりました。ここでは、世界の不況が日本にどう波及したかを要点だけ整理します。

- 米国株価急落で不安が拡大
- 金融不安で資金が回りにくくなる
- 支出抑制で需要が縮む
- 貿易縮小→日本の輸出減(生糸など)→企業収益に打撃
世界恐慌は、金融不安の拡大と支出抑制が重なり、需要と貿易が世界的に縮んだ不況です。輸出に頼る産業ほど影響を受けやすく、日本でもまず輸出の落ち込みが重くのしかかりました。
輸出が減ると企業収益が悪化し、雇用や賃金にも悪影響が及びます。すでに国内では資金が回りにくい状態が続いていたため、企業はさらに資金繰りが難しくなり、不況が深刻化しやすい条件がそろっていきました。
世界の対応がもたらした二次的影響/保護貿易・ブロック化
各国が保護貿易を強めて市場が分断されるほど、輸出は戻りにくくなります。世界恐慌は、日本にとっても「外からの需要縮小」が長引く局面となりました。
昭和恐慌(1930-31年)/国内不況が深刻化したメカニズム
世界恐慌の影響が続く中で、国内要因が重なって不況が深刻化したのが昭和恐慌(1930–31年)です。
とくに国内政策として行われた1930年の金解禁(=金本位制への復帰)は、景気後退の局面では企業の支払いをきつくし、物価や賃金を押し下げる方向(デフレ圧力)に働きやすくました。
ここでは金解禁とデフレの関係を軸に、深刻化の仕組みを要点だけ整理します。
金解禁の狙い/国際信用・為替安定
1930年の金解禁は、金本位制へ復帰して国際信用を回復し、為替の安定を図ることが狙いでした。対外的な信認を優先した政策でしたが、不況期に実施されたため国内景気には逆風になりました。
なぜ景気を冷やしたのか/デフレ圧力
世界的な需要縮小が続く中で、金融を引き締め方向の政策が重なると物価や賃金が下がりやすくなります。
売上が伸びないのに価格が下がれば企業収益は悪化し、雇用や投資も少なくなります。さらに、返済負担は軽くならないため、資金繰りの悪化が倒産や失業を増やし、需要をいっそう冷やす循環に入っていきました。
都市と農村で何が違ったか/失業・農村の困窮
都市では失業や賃下げが生活を直撃し、農村では農産物価格の下落が家計を圧迫しました。都市の不安と農村の困窮が同時に進んだことが、昭和初期の社会不安を強める背景になります。
高橋財政(1931年以降)/恐慌の処方箋は何を変えたのか
昭和恐慌で不況が深刻化する中、1931年以降は政策の方向が大きく転換します。その代表が高橋是清による高橋財政で、資金の流れと需要を回復させることに重点が置かれました。
主要政策(要点)
1931年以降の転機が高橋財政です。金輸出再禁止(事実上の金本位制離脱)で通貨・為替環境を調整しつつ、金融緩和と積極的な財政支出で需要を下支えする方向へ舵を切りました。
景気はなぜ持ち直したのか/ただし次の問題へ
金融と財政の方向転換で資金供給が改善し、需要が下支えされることで、企業収益と雇用に回復の余地が生まれました。
一方で、景気回復の過程では歳出、とくに軍事費が増えやすくなります。恐慌からの回復は、同時に政治と社会の空気が変わっていく入口にもなったのです。
次回は、こうした状況の中で軍部の発言力が増していく過程を整理します。


