【フリードリヒ大王】プロイセンを近代国家へ導いた“啓蒙専制君主”の生涯<人物伝>
プロイセン王国のフリードリヒ2世は、世界史の教科書では「フリードリヒ大王」「啓蒙専制君主」の代表として紹介されます。
軍事に優れた国王でありながら、哲学や文学、音楽にも強い関心を持ち、自分を「国家第一の僕」と位置づけたことで知られます。
一方で、その人生をたどっていくと、冷静な理性だけでは説明しきれない事情がいくつも見えてきます。父との激しい対立、親友の処刑、周辺国の君主たちへの辛辣な発言、晩年の孤独。理性的な統治の理想と、感情的な反発や偏見が同じ人物の中に併存していました。
ここでは、フリードリヒ2世の生涯を、青年期の体験・戦争と政治・啓蒙専制君主としての政策・周辺人物との関係・晩年の姿という流れで見ていきます。
「兵士王」の息子として生まれたフリードリヒ
1712年、フリードリヒ2世はプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム1世の長男として生まれました。父は節約と軍隊の充実を最優先する性格で、「兵士王」と呼ばれます。巨体で粗野な振る舞いをする一方、財政の健全化や常備軍の整備には強い能力を発揮しました。
長身の男こそ強い軍を作る要になると考えていたフリードリヒ・ヴィルヘルム1世は他の人よりも高い給与を払って、あるいは誘拐までして部隊の編成を行っています。他国の軍に入っていた男もつれてきたので外交問題に発展することもあったようです。
そんな背の高い男性を集めたポツダム巨人軍と呼ばれる軍の存在は、フリードリヒ・ヴィルヘルム1世の治めていた当時のプロイセンがどれだけ軍事を優先していたかの象徴として語られています。
対して息子フリードリヒは、幼い頃からフランス語・文学・哲学・音楽を好みました。フルート演奏や作曲にも熱心で、宮廷ではフランス語で会話することを好んだとされています。
しかし、父にとってはこうした趣味は「軍人らしからぬ軟弱さ」と映りました。フリードリヒはたびたび人前で叱責され、暴力的なしつけを受けています。
価値観の差は次第に大きな対立へと発展していきました。父は息子を軍服姿の規律ある王太子に育てようとし、息子は教養と芸術を尊重する王を理想像として抱きます。
この対立が、後の人生を決定づける事件につながっていきます。
逃亡計画の失敗と親友カッテの処刑
17歳のとき、フリードリヒは忠実な友人であり側近でもあったハンス・ヘルマン・フォン・カッテとともに、国外逃亡を図りました。父王の監視と圧力の中で、自由な生活と自分の理想に沿った人生を求めた行動だったと考えられています。
しかし計画は発覚し、フリードリヒは逮捕されて軟禁されます。逃亡は軍務放棄とみなされ、重い処罰の対象となりました。父は息子に厳しい教訓を与えるため、共犯者カッテの処刑を命じます。
フリードリヒは房に入れられていたため、窓から処刑現場を見るよう強制されたと言います。この場面は多くの小説や叙事詩、舞台などで描かれています。
この経験によって、フリードリヒが人間関係に慎重になり、深い不信感を抱くようになったと指摘されることが多いです。
表面上は父に従い、軍務にも戻りますが、周囲との距離をとり、皮肉や辛辣な言葉で自分を守るような言動が増えていったとされます。
のちに彼は王位に就いてからも、身近な人間に対して感情を素直に表すことが少なく、冷たい印象を与える場面がたびたび見られました。青年期の体験は、その背景の一つと見なされています。
即位とシュレジエン奪取――若き王の強硬策
1740年、フリードリヒ2世は父の死によりプロイセン王として即位します。即位直後から彼は、自らの軍事的能力を証明し、領土を拡大する機会を求めていました。
ちょうどその頃、オーストリアのハプスブルク家では、マリア=テレジアが家督を継承したばかりでした。女性の継承を巡って諸国の間で不安定な状況が生まれ、オーストリア継承戦争が始まります。
フリードリヒはこの混乱に乗じて、豊かな工業地帯シュレジエン(シレジア)への侵攻を開始しました。
戦争の結果、プロイセンはシュレジエンの大部分を獲得し、経済的に大きな利益を得ます。この獲得によって、プロイセンはヨーロッパ列強の一員として明確に意識される存在となりました。
しかし、この成功は同時に周辺諸国との緊張を高め、後の大戦争の原因にもなります。
マリア=テレジアはシュレジエン奪回の機会をうかがい続け、プロイセンとオーストリアの対立は長期化していきました。
七年戦争と「奇跡」と呼ばれた生き残り
シュレジエンをめぐる対立は、やがて七年戦争(1756〜1763年)へとつながります。
この戦争では、外交革命と呼ばれる同盟関係の再編が起こり、従来の組み合わせと異なる陣営が生まれました。
フランスとオーストリアが同盟を結び、さらにロシアもプロイセンに敵対する側につきます。
プロイセンは、人口や国力で大きく上回る三大国を同時に相手取ることになりました。
フリードリヒは幾度かの会戦で善戦し、短期間で敵軍を破る作戦によって国土の占領を防ごうとしますが、戦局は必ずしも順調ではありませんでした。度重なる敗北や国土の荒廃により、彼は心身ともに追い詰められ、自殺を考えたと伝えられるほどでした。
転機となったのは、ロシアの女帝エリザヴェータの死と、その後継ピョートル3世の即位です。
ピョートル3世は熱心なプロイセン崇拝者であり、即位するとロシア軍を戦争から撤退させ、プロイセンと単独講和を結びました。
ロシアの離脱により、プロイセンは最悪の状況を脱し、最終的にはシュレジエンの保持に成功します。
この劇的な展開は後世、「ブランデンブルクの奇跡」と呼ばれます。フリードリヒの軍事的能力に加え、偶然の要素や他国の事情が重なった結果の生き残りであったことが分かります。
啓蒙専制君主としての政策と思想
フリードリヒ2世は、しばしば「啓蒙専制君主」として紹介されます。これは、啓蒙思想の影響を受けながらも、権力の集中を維持した絶対王政の君主を指す用語です。
フリードリヒ自身、自分は「国家第一の僕」であると述べ、国王は国家のために職務を果たす存在だと位置づけました。この考え方は、伝統的な王権神授説とは異なり、王の役割を理性的な行政官の延長としてとらえるものです。
実際の政策面でも、啓蒙思想の影響が見られます。
- 司法制度の整備と拷問の制限
- 行政機構の効率化と官僚制の強化
- 宗教に対するある程度の寛容(プロテスタントが多数派の中で、カトリックやユグノーの受け入れを進める姿勢)
- 農業振興や荒地開墾の奨励、ジャガイモ栽培の普及策 など
とくに、農業分野では開墾や灌漑事業を推し進め、農民に対してジャガイモ栽培を奨励しました。ジャガイモは冷涼な気候でも収穫が期待できる作物であり、食糧事情の改善に一定の効果があったとされています。
一方で、農奴制など社会構造の根本的な改革には踏み込んでいません。
合理的な政策と保守的な社会秩序維持が併存している点が、フリードリヒの「啓蒙」と「専制」の両面をよく表しています。
音楽と哲学を愛した王と、周辺人物への辛辣な視線
フリードリヒ2世の知的関心は広く、哲学書や歴史書を好んで読み、みずからもフランス語で著作を残しました。音楽ではフルート演奏に熱心で、作曲も行い、宮廷での演奏会を楽しみにしていたと伝えられています。
啓蒙思想家ヴォルテールとの交流も有名です。
王太子時代からヴォルテールの著作を愛読しており、即位後には招待してサンスーシ宮殿に滞在させました。政治・宗教・哲学について意見を交わしたものの、性格の違いや利害の衝突から関係は悪化し、最終的には対立して別れています。
また、フリードリヒは率直で皮肉な物言いが多く、周辺諸国の指導者に対しても遠慮なく辛辣な評価を口にしました。
フランス王ルイ15世の公妾であるポンパドゥール夫人について、出自を軽んじる発言をしたことはよく知られています。ロシアの女帝エリザヴェータに対しても、生活ぶりや宮廷の雰囲気をあげつらうような言葉を記録に残しています。
さらに、マリア=テレジア、ポンパドゥール夫人、エリザヴェータが結んだ同盟を「ペチコート同盟」と呼んで揶揄したとも伝えられます。
このような発言は、フリードリヒの啓蒙主義が、常に偏見や感情から自由であったわけではないことを示しています。合理性や能力を重視しつつも、性別や出自に対する固定観念から離れきれていなかった点は、彼の限界としても指摘されています。
若い君主たちに与えた影響――ピョートル3世とヨーゼフ2世
その一方で、フリードリヒ2世に強い憧れを抱き、統治の手本とした若い君主たちもいました。
ロシア皇帝ピョートル3世は、プロイセン軍隊とフリードリヒ本人の熱烈な崇拝者でした。エリザヴェータの死後に即位すると、七年戦争においてロシア軍が占領していた地域を無条件で返還し、プロイセンとの講和を急ぎました。
この決断はロシア宮廷内での反発を招き、ピョートル3世の政治的地位を弱める一因にもなります。
また、オーストリアのマリア=テレジアの息子であるヨーゼフ2世も、若い頃からフリードリヒに関心を寄せていました。彼は何度もフリードリヒと会見し、その統治観や行政手法について学ぼうとしたとされます。
ヨーゼフ2世が行った中央集権化や宗教寛容令などの改革には、フリードリヒの影響を指摘する見方もあります。
このように、フリードリヒ2世は敵対国の君主にとっても、一つのモデルとして意識されていました。彼の生き方は、尊敬・反発・模倣・批判といったさまざまな感情を同時に呼び起こしていたことが分かります。
サンスーシ宮殿と晩年の孤独
長い治世の後半になると、フリードリヒ2世は次第に側近や親族との距離を取り、限られた相手とだけ親しく接するようになっていきました。その中で特に心を許した対象として知られているのが、複数の愛犬たちです。
彼が好んで過ごした場所が、ポツダムに建てたサンスーシ宮殿でした。
「Sans souci」はフランス語で「憂いなし」を意味し、政治的な重圧から離れ、音楽や会話を楽しむための離宮として構想されました。フリードリヒは、自分の死後はこのサンスーシ宮殿の庭園に、愛犬たちと一緒に埋葬されることを望みました。
実際には、すぐには希望どおりにならず、長い期間別の場所に葬られていましたが、20世紀後半になってから彼の遺骸はサンスーシ宮殿のテラス近くに移され、現在では愛犬たちの墓と並んで眠っています。
晩年のフリードリヒは、国家運営への責任感を保ちながらも、人間関係の面では限られた相手にしか心を開かなかったとされています。若い頃の体験や長年の政治・戦争の重圧の結果として、感情を表に出しにくくなっていった姿が読み取れます。
フリードリヒ大王の評価と、その複雑さ
フリードリヒ2世は、軍事・行政・外交の面でプロイセンを強化し、のちのドイツ統一へとつながる基盤を整えた君主として高く評価されています。
啓蒙思想を受け入れ、司法や行政を整理し、宗教的寛容を一定程度認めた点も、近代的な国家像への一歩と見ることができます。
一方で、農奴制など社会の根本的な不平等は温存されたままであり、軍隊の役割も大きなままでした(ポツダム巨人軍はフリードリヒ2世の代には既になくなっています)。
後の時代、プロイセンおよびドイツの軍国的なイメージや権威主義的な政治文化の源流の一部としてフリードリヒの統治が議論されることもあります。
理性的で冷静な統治者、音楽と哲学を愛した教養人、辛辣で皮肉な観察者、家族や側近とも距離を置いた孤独な人物。これらの要素が同じ一人の王の中に共存している点が、フリードリヒ2世の特徴です。
教科書では「啓蒙専制君主」「七年戦争」「プロイセンの強国化」といったキーワードで整理されますが、個人の人生として見直してみると、多くの葛藤や矛盾を抱えた人物だったことが分かります。
その複雑さが、現在もフリードリヒ大王を「近代的だが単純ではない君主」として語り継がれる理由になっているのでしょう。







