イギリス

インド帝国の成立ーイギリスによる統治の時代へー<19世紀>

歴ブロ

イギリス東インド会社は、1600年にエリザベス1世からインド以東の貿易独占権を認められて誕生した貿易会社です。これは当時のヨーロッパで「絶対王政」が広まり、重商主義政策のもと国が積極的に海外貿易を進めていた時代の流れと重なります。

そうした政策をとっていた国の中でもイギリスは貿易を通じて莫大な富を蓄積していました。18世紀後半には産業革命が起こります。これにより工場経営者などの産業資本家が台頭し、「自由貿易」を求める声が強まっていきます。その結果、イギリス東インド会社の特権も徐々に縮小されていきました。

そして1857年、インド大反乱(シパーヒーの反乱)が発生。東インド会社の統治責任が問われ、ついにインドの統治権はイギリス本国に移ります。これをきっかけに、インド帝国が正式に成立、イギリスによる直接統治の時代が始まったのです。

今回は、東インド会社による間接支配からイギリス本国による直接支配へと移行したインド帝国の統治と、その背後にあった「分割統治」の実態と経済、高まる民族運動までをまとめていきます。

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イギリス統治下のインドで行われた「分割統治」とは?

1857年のインド大反乱(シパーヒーの反乱)を受けて、イギリスは「東インド会社にはもはや統治能力がない」と判断。翌1858年に東インド会社は解散され、インド統治法(統治改善法)が制定されます。これにより、イギリス本国による直接支配が始まりました。

この後、ヴィクトリア女王がインド皇帝を兼ねる形でインド帝国が成立しますが、インド全体はまだまだ不安定な情勢にありました。

れきぶろ
れきぶろ

インド帝国が成立したイギリスの直接統治下に入ったのが19世紀後半。

フランスではナポレオン戦争(19世紀初期)の混乱を経てナポレオン3世が登場し、第二帝政を築いた時期です。またドイツではプロイセン王国を中心に統一運動が進み、1871年にはドイツ帝国が成立していました。

ちなみに日本は開国し、幕末の動乱が始まる時期に当たります。

インドの重要性とイギリスの思惑

イギリスにとってのインドは単なる植民地ではなく、次のような“経済の要”とされる存在でした。

  • 工業化によって大量に作られた製品の主要な輸出先(人口が多い)
  • 原材料(=綿花)の供給地
  • 官吏の就職先
  • 兵の供出地
  • 税の供給源

上記のように様々な面で存在感を放つインドは、イギリスにとって切っても切り離せない植民地だっただけに、再び反乱が起きることは絶対に避けたいと本国は考えます。

そこで、インドの多民族・他宗教・多文化、そしてカースト間の対立などに目を付け分断をあおる分割統治を取り入れました。

なお、こうした統治法は古代ローマに倣った統治方法です。

分割統治①藩王国を利用した分配統治

イギリスは藩王と呼ばれる地方の王たちに一定の自治を認める代わりに

  • 各藩王国と個別に条約を結び、互いの連携を防止
  • イギリスが間接的に支配する体制を構築
  • 地元支配層を取り込み、支配の正当性を確保

上記のような形でイギリス支配に協力させています。

※藩王とは…ムガル帝国時代末期、アウラングゼーブ(最大領土を築いた皇帝)の死後に分裂した諸領邦のうち、イギリスと同盟関係にあった諸国を藩王国の王を藩王と呼んでいます。

分割統治②宗教対立をあおる「コミュナリズム」

インド帝国以前のムガル帝国で支配者層が信仰していたのはイスラーム教。対して土着宗教のヒンドゥー教も根強く残っていました。

ムガル帝国時代、一時的に融和政策が取られ共存する時期もありましたが、強硬姿勢をとるようになって対立。それでも村落内では共存していたのですが、イギリスが意図的に宗教対立を煽り統治を有利に進めていきました。

なお、イスラーム教と比較して他宗教に寛容なヒンドゥー教はイギリスの文化や教育を受け入れて社会的地位を高めていたことも結果的に両者の対立を激化させる一因となっています。

インドにおける経済活動と植民地化の深化

19世紀のインドは経済面でもイギリス支配に組み込まれていきます。

  • 鉄道網の整備:ロンドンの投資家の資金で整備。植民地経済の根幹に
  • スエズ運河の取得(1875年):ディズレーリが買収し、ヨーロッパとアジアの貿易効率を飛躍的に向上
  • プランテーション農業の拡大:茶、コーヒー、綿花などの商品作物を大量栽培
  • 茶の国産化:中国依存を脱却するため「アッサム種」を商業栽培
  • 綿花ブーム:南北戦争(1861–65年)でアメリカ産綿花が減少→インド産綿花が急騰
れきぶろ
れきぶろ

18世紀後半~19世紀初めにナポレオンが暴れまわっていた頃。対立していたイギリスと比較して海軍力に劣るフランスは、イギリス経済を潰すためより短時間・低負担でアジアとの交易を行おうとエジプト遠征の際に学者を連れて古代の運河などを調べさせていました。

ナポレオンが目をつけ、後に形を変えて作られたのがスエズ運河です。

なお、イギリス経済の中でも重要度の高い“紅茶”に関しては『イギリスの紅茶文化と歴史を簡単に!』の記事が詳しいです。

ガス抜きの失敗と民族運動のはじまり

本国への反発を防ぐための統治を行うとともにイギリスは体制を継続できるだけのインド人エリート層の育成を勧めました(前述のように、教育を比較的スムーズに受け入れられたのがヒンドゥー教徒たちです)

弁護士や技術者、官僚となったインド人エリート層の中から植民地的諸制度における地位を築き上げようとする者たちも出てきます。

ところが、

  • 実際には要職の多くをイギリス人が独占
  • 人種差別も根強く残る

こうした中で民族的な自覚を持つに至りました。

1883年にはインドで最初の反英を掲げた民族運動の組織(=全インド国民協議会)が設立。

さらに、1885年にはインド国民会議が開催され、インドの名士約70名を集めてインド人たちの不満を聞き統治の不満を解消するよう努めました。

当初は穏健だったインド国民会議も次第に自治を求める政治運動の中心へと変化していきます。

中でもベンガルを中心とした地域で盛んになりつつあった民族運動の中核を担い始め、自治要求を掲げる国民議会派として政治運動を率いる団体に変化していきました。

まとめ/インド帝国は「静かな反乱」の時代へ

インド大反乱の後、イギリスは徹底的な分割統治を行うことで支配を強化しました。
しかし、宗教・文化・経済を利用した支配は、やがて民族意識の目覚めという副作用をもたらします。

19世紀末にはすでに、インド各地で「静かな反乱」とも言うべき民族運動が始まっていたのです。この芽吹きは、やがて20世紀の独立運動へとつながっていくことになります。

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歴ブロ・歴ぴよ
歴ブロ・歴ぴよ
歴史好きが高じて日本史・世界史を社会人になってから勉強し始めました。基本的には、自分たちが理解しやすいようにまとめてあります。 日本史を主に歴ぴよが、世界史は歴ぶろが担当し2人体制で運営しています。史実を調べるだけじゃなく、漫画・ゲーム・小説も楽しんでます。 いつか歴史能力検定を受けたいな。 どうぞよろしくお願いします。
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