朝鮮をめぐり日本と清が激突する日清戦争
日本は日朝修好条規の締結で朝鮮を開国させ、大陸進出の足掛かりを得ました。
以降、朝鮮半島は二度にわたる日清代理戦争の舞台となります。
朝鮮半島の二度にわたる武力政変
日本政府は1880年、漢城(現在のソウル)に公使館を設置して貿易を拡大しました。
この頃の朝鮮は、閔氏が政権を握っていました。内政改革を求めていた王妃閔氏を日本は支持をしていました。しかし、宗主国で清国を頼り、近代化に反対する大院君を擁する守旧派が優勢でした。
それでも、政権を握っていた閔氏は、日本人軍事顧問のもと、軍制改革に着手していました。これに反対した守旧派は、1882年に閔氏一派の邸宅と日本公使館を襲撃する事件の壬午軍乱が起こります。
反乱は失敗に終わったものの、閔氏はこれをきっかけに、日本と距離を置くようになり、清国に依存するようになりました。さらに反乱で、日清両軍が出兵したことにより、朝鮮を間にはさみ日清間の対立が深まります。
壬午軍乱の事後処理のため、朝鮮と日本の間で済物浦条約が成立し、日本は賠償金と公使館守備兵の駐屯権を獲得します。その後、朝鮮内部でも清国を宗主国とする閔氏一派の事大党と、改革を図ろうとする金玉均・朴泳孝らの親日改革派が対立を深めていきました。
日本の明治維新に習い、朝鮮の近代化を図ろうとする親日改革派は、1884年に清仏戦争で清国の敗北を好機と見てクーデターを起こしました。朝鮮進出の機会を狙っていた日本はこれを支持します。
このクーデターは甲申事変と呼ばれ、出兵してきた清軍の前に失敗に終わります。
甲申事変により親日派が敗北すると、日本の親朝鮮派の絶望を買うことになり、清国と朝鮮に対する世論が一気に悪くなります。
こうしたなか、1885年に福沢諭吉は【脱亜論】を発表します。アジアの連携を否定し、日本がアジアを脱し、欧米列強の一員となる事を説きます。「欧米強国によってアジアの分断が現実味を増した今こそ、清国と朝鮮を武力をもって対処すべき」と主張しました。
この論説は、日清の軍事的解決の運気を高めることになりました。
甲申事変で日清関係は最悪な状況になり、日清の衝突の危機が高まり両国は衝突を避けるために、天津条約を締結します。これにより、日清両国は朝鮮から撤収をします。
天津条約により当面の争いを回避できた両国でしたが、日本にとっては朝鮮における地位の後退でもありました。また、日本は壬午軍乱により対清国の軍備の必要性を痛感したことから、対外戦争に向けた軍備拡張を進めていきました。
それと同時に外相の陸奥宗光は、対清戦争に必須条件と考えられていたイギリスの支持を取り付けるべく、外交交渉を行っていました。
日清戦争へ
1894年に朝鮮で東学の信徒を中心に減税と日本の排除を要求する農民反乱の【甲午農民戦争】が起こると、鎮圧のため朝鮮政府は清国に出兵要請し、清国が出兵します。
この知らせを受けた日本も合わせて出兵します。反乱軍は短期間で鎮圧されましたが、日清両軍は現地で対立色を強めて交戦状態に突入します。
一方で、日本は日英通商航海条約の調印に成功し、日清戦争に関するイギリス側の支持を得ることが出来ました。こうして、国際情勢が有利となった日本は、清国に宣戦布告をし日清戦争が開幕します。
戦局は、軍隊の訓練・規律、新式兵器の装備などに勝っていた日本側の圧倒的優勢で進んでいました。日本軍は、朝鮮から清国軍を駆逐していき、遼東半島を占領します。
清国の北洋艦隊を黄海海戦でも撃退し、本拠地の威海衛を占領して日本の勝利が決まりました。
戦費は、当時の国家予算の三倍にもなる2億円が費やされ、動員された兵力は17万人にも上りました。
当時の首相・山形有朋は、第一回帝国議会において「国境としての主権線と共に朝鮮を含む利益線の防衛が必要」と説き、日本は利益線を清国から守り抜き、対外進出を推し進めていくのでした。