【現代史の学び直し】ソビエト連邦の崩壊が及ぼした社会主義国家の民主化の動き
世界各国の産業革命によって工業が発展したその裏で、経営者たちによる労働者たちの過酷労働が明るみになり社会問題となりました。労働者たちはこうした低賃金・長時間労働の搾取体制に「農奴制と変わらないのではないか」と声を上げていきます。
こうした社会問題の中で
「社会を富ませるモノを作るための機械などは社会で所有しよう」
「国家の運営は計画経済の元で行おう」
という社会主義思想が生まれました。
※以前、ロシア革命の記事で紹介しています。
このような状況でロシアで起きたのが日露戦争。世界は「大国ロシア帝国が勝つだろう」と思っていたのですが、ロシアは日本に敗北してします。ロシアでは、日露戦争の敗北を機に労働者がますます厳しい状況に追いやられ、社会主義運動などが活発化しました。
こうした運動から、ロシア革命にまで大きくなり1922年にソビエト連邦が成立します。
そのうち、スターリン時代には急速な工業化で著しい経済成長をとげてアメリカと並ぶほどの強大な大国として君臨するようになり、世界初の社会主義国としてユーラシア大陸の広大な大地のを支配していました。
そこで今回の記事では、ソビエト連邦の君臨を背景として成立していった社会主義国が、ソビエト崩壊によってどのように変わっていったのか紹介して行こうと思います。
ソビエト連邦の崩壊とロシア連邦の設立
スターリン死後もフルシチョフによって急速に発展し、人類初の人工衛星の打ち上げや宇宙飛行を成功させました。しかし、1979年のアフガニスタン侵攻を実行すると経済資源が枯渇し始め、ソビエトの発展に陰りが見え始めます。
1980年半ばに最後の指導者ゴルバチョフが就任すると、ペレストロイカと呼ばれる政策で様々な改革を打ち出し、自由で開かれた経済を目指し始めます。ところが、急激な改革はバルト三国をはじめとするソ連内で民族独立運動を引き起こしました。
1991年8月に連邦維持勢力の保守派のクーデターが失敗する事件が起きます。すると、ウクライナやアゼルバイジャンなどのほとんどの「共和国が連邦から脱退する」と宣言。
その結果、連邦を維持していたソ連共産党が解散しました。
1991年12月にエリツィン大統領率いるロシア連邦が11の共和国と共に独立国家共同体【CIS】を結成。こうして、ソビエト連邦が解体されてゴルバチョフが辞任しました。
その後、それぞれの共和国は自立傾向を強めていくのですが、エネルギー資源を持たない国家はロシアに依存するしかありませんでした。そのため、CISの将来が不透明だと言われるようになります。
一方でロシアでは1996年にエリツィンが大統領に再選されますが、市場経済への移行が遅れ政治が不安定に。そして、何も解決策も得ないまま1999年にエリツィンが辞任し、2000年の総選挙でプーチンが大統領になりました。
くわしいソビエト連邦の崩壊はこちらでまとめてあるので参考にしてください。
東欧社会主義国の民主化
この頃、ソビエトの影響下で社会主義の防波堤の役割を担っていた東欧諸国では、1980年にポーランドで、食品の値上げに抗議するデモが起きていました。ワレサを指導者とした自主管理労組【連帯】が組織され、政府に改革を求めていくようになります。
このポーランドの改革運動では東欧の社会主義制度が閉鎖的であることが示されました。また、ソ連の改革が進むにつれて、西側諸国との経済格差や言論活動の制限に不満を持つ東欧諸国の人たちが一斉に行動に出た事からこのような運動が活発化したと言われています。
東西ドイツの統合
東西に分かれていたドイツでは、1989年10月に東ドイツで西側諸国へ脱出者が急増しドイツの書記長が退陣。これが、1989年11月にベルリンの壁の崩壊に繋がり、東西ドイツは自由な行き来が出来るようなりました。
そして、1990年3月の東ドイツで自由選挙が行われ、統一ドイツを掲げる政党が勝利をすると、10月にはアメリカ・イギリス・フランス・ソ連の同意を経て東西ドイツが統合して、統一ドイツが成立しました。
ソ連の衛星国の民主化
この動きに連動してハンガリー、ポーランド、ブルガリア、チェコスロバキアも、社会主義からの脱却を求める民衆運動が起きます。この運動は無血革命として東欧諸国の民主化のきっかけとなりました。
これらの国々も、自由選挙による議会制民主主義と市場主義に変わっていくのでした。
1989年12月にルーマニアではチャウシェスクの独裁体制による反体制運動が起きて、チャウシェスク夫妻が処刑されます。
こうした、東欧圏の国々が民主化の動きによって各国の共産党は解散又は民主主義政党に変わって行くことになりました。こうして社会主義を背景のもとに締結されていたコメコンやワルシャワ条約機構が1991年に消滅します。その結果、東欧の社会主義国家圏は消滅をしました。
ユーゴスラビアの解体
一方で独自の社会主義体制を取っていたユーゴスラビアは、1980年に指導者が亡くなると民主化が加速。ソ連の崩壊後に内戦状態となり、その結果1991年にクロアチアとスロベニアが分離し、その後も旧ユーゴスラビア内の争いは収まりませんでした。
そこで、1999年にはコソボ地域に関する民族対立でNATOが軍事介入する事態までになりました。
現在は、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ、セルビア、モンテネグロ、マケドニアの4国が併存して緊張状態が続いています。
アジアとアフリカの民主化
民主化運動は東欧だけでなく、アジアやアフリカ地域でも起こっています。ここではいくつか紹介していきましょう。
中華人民共和国
1960年代後半から起こったのが文化大革命です。
1971年に毛沢東の後継者とされた林彪が失脚すると、鄧小平など一部復活した旧幹部と文化大革命推進派が対立し、国内の情勢が不安定になりました。
1976年1月に中華人民共和国初代首相・周恩来が、9月には毛沢東国家主席が死去する事態が起こります。次に首相になった華国鋒が、毛沢東夫人や文化大革命推進派を逮捕し、その影響力を削ぐと自身は国家主席を兼任しました。
こうして、1977年に文化大革命が終了しています。
華国鋒は『四つの現代化※』を推進し、文化大革命の犠牲者の名誉の回復を行いました。こうした改革で、中国の立ち遅れを克服していこうとしました。
1981年からは鄧小平を中心とした新指導部が成立し、以下の政策を行いました。
- 人民公社の解体と農業生産の請負制
- 外国資本と技術の導入による開放経済
- 国営企業の独立採算化
- 一連の経済改革(社会主義市場経済)
- ソ連などの周辺国家との関係の改善
しかし、改革が急すぎて社会が混乱した事が理由で、その不満が学生や知識人たちに広がりました。こうして起きたのが、1989年の学生や労働者が天安門広場に集まって民主化を求めた天安門事件です。
結局、政府によって武力鎮圧され、後に江沢民が国家主席の座に就きました。その後、中国では
- 経済改革と開放政策に意味はなかった
- 1990年以降ASEANの国々との関係を正常化した
- 1992年に韓国と国交を結んだ
- 1997年に、イギリスから香港が返還された
- 1997年に鄧小平が亡くなり、江沢民という人が最高指導者になった
- 2002年には胡錦濤総書記などの新指導部が発足して、世代交代が進んだ
こうした事件が起きるたびに経済がすさまじい勢いで成長していくことになります。特に、1992年~2003年の成長率は他国を圧倒していました。
モンゴルの社会主義脱却
モンゴル人民共和国は、ソ連社会主義圏に属していましたが、ペレストロイカやソ連の解体と並行する形で、1990年に自由選挙が行われます。そして、1992年に社会主義体制を終了し国名がモンゴル国になりました。
朝鮮民主主義人民共和国(以下北朝鮮)
現在の朝鮮半島では南の大韓民国と北の北朝鮮があります。その北側に位置する北朝鮮では、現在も社会主義体制を維持しています。ミサイルを撃ちまくり無法者国家のイメージが強いですが、一応1991年には国際連合に加盟しています。
1994年に北朝鮮の祖・金日成がなくなると嫡子の金正日が後継者となりますが、ソ連が崩壊し石油の輸入が激減すると農業生産が低迷し、食糧危機などに直面しました。
1998年頃からは独裁体制のもとで経済が低迷し、冷戦構造の崩壊で国際的にも孤立した状態となっています。そのため、経済支援を引き出すために西側諸国との外交に取り組み、2000年の南北朝鮮の首脳会議が実現しました。
東南アジアの社会主義国家
南北統一後のベトナムは、南部の社会主義化についての混乱や、カンボジアへの介入による経済活動の低迷が起きて、南部から脱出する人々が難民になって国際問題になりました。
しかし、1986年にドイモイ(刷新)政策のもとで、ベトナムは緩やかに市場開放に向かいました。また、原油生産の成功によって経済状況の良くなりました。
カンボジア
カンボジアではポル=ポトが指導した政権・民主カンプチアが、農業を土台に閉鎖的な共産主義社会を目指しますが、これに反対する人々を多く処刑(虐殺)しています。
この政策を批判する反ポル=ポト派を支援したベトナムは、1978年の終わりにカンボジアに軍を派遣しました。その結果、ヘン=サムリンを元首とするカンボジア人民共和国を誕生しました。
民主カンプチアを支持していた中国は、ベトナムの行動を非難して1979年2月にベトナムに対して軍事行動を起こしました。この出来事を中越戦争と言います。
1989年にベトナム軍がカンボジアから撤退すると、1991年に派閥間で和平協定が調印されます。そして、1993年の総選挙で憲法制定議会が成立して新憲法が採択されました。
こうして、シハヌークを王とするカンボジア王国が誕生します。その後、1998年にポル=ポトが死去し派閥が壊滅した事で内戦が終わりました。
【アフリカ大陸】エチオピアの民主化
1974年に軍のクーデターで皇帝専制と貴族制の政治体制が倒されると、社会主義国宣言をしたエチオピア。しかし、この改革には失敗し多くの難民者が出てしまいました。
1991年にエリトリア戦線などの反政府勢力による攻撃で社会主義政権が終りを迎えます。
どれを持って社会主義国とするかの議論はありますが、現在は中国・北朝鮮・ベトナム・ラオス・キューバの5ヶ国が社会主義を自称する国となっています。