ムガル帝国を成立させたバーブルとはどんな人だったの?【人物伝】
ムガル帝国とは、1526年に建国された南アジア(インドの辺り)の近世帝国です。インドのイスラーム王朝としては最も強大な帝国となりました。
ムガル帝国を築いた人物はバーブルといいます。自身の祖先の築いた強大だった頃のティムール帝国復活を目指して内外の敵対勢力と争った末に、インドでの帝国建国となっています。
今回は、このバーブルがムガル帝国を建てるまでの経緯をまとめていきます。
バーブルとはどんな生まれだったのか?
分裂して既に小国となっていたティムール朝のサマルカンド政権に君主となったバーブル。ティムールから数えて5代目の直系子孫です。君主になる以前、どんな足跡を辿ったのかを見てみることにしましょう。
彼は中央アジアのフェルガナ地方(現在のウズベキスタン)で生まれ、11歳で父の急死により家長の地位とフェルガナの統治者となりますが、年齢が年齢のために侮られてしまいました。父方の叔父であり当時のサマルカンド政権の君主を含む親戚たちに領地を狙われてしまいます。
が、祖母と臣下の協力のもと撃退に成功。フェルガナを守り抜いています。
↑関係者のみ描いてあるので、他の兄弟姉妹は省略。
ティムール朝は、モンゴル帝国の継承国家の一つチャガタイ=ハン国が分裂した西側からできた国。東チャガタイ=ハン国は、その名前の通り分裂したもう一つの東側の方の国です。
その後、父方の伯父が亡くなり支配者のいなくなったサマルカンド政権を伯父の息子どちらが継ぐかで派閥争いが発生しました(バーブルにとっては従兄弟に当たります)。
最初は兄が君主だったけど、弟を支持する派閥もあったそう。当初、バーブルは弟の味方について対抗しています。
時期により弟が即位することもあって政権は不安定でした。
バーブルがスルタンになった先で起こったこととは?
この争いに乗じてバーブルはサマルカンドに入城し、自らスルタンに即位しましたが、長くは続きません。故郷で臣下による反乱が起き、その鎮圧のためサマルカンドを離れ帰国せざるを得なくなったのです。
結局、バーブルがサマルカンドを離れている間に君主となったのは従弟の方でした。
ところが、従兄がサマルカンドに置き土産を置いていきます。「内紛に勝つため協力して欲しい」と北方のウズベク族の指導者に協力を申し出ていたため、ウズベク族に付け込む理由を与えてしまっていたのです。
足元見られる行為なのに気が付いたのかは分かりませんが、従兄の方もウズベク族が実際に援軍としてサマルカンドにやってきた時に断り、自分たちだけで内紛に対処しようとしています(この時にバーブルがサマルカンドに入城したわけです)。
従弟の治世下では、結局、このウズベク族のシャイバーン朝により圧力を加え続けられ、最終的にサマルカンドを明け渡すことになりました。
その後、東チャガタイ=ハン国の君主である母方の叔父の協力を得ながらバーブルが再度サマルカンドを取り返したりなんだりしますが、戦いの影響でサマルカンドは食糧が欠乏して飢餓が発生するような状況に。叔父も捕まって東チャガタイ=ハン国へ送り返されています。
そんな経緯の末、サマルカンドはシャイバーン朝に再度奪われました。さらにシャイバーン朝は都だけに留まらず、バーブルの故郷も占領。
故郷を失い、バーブルがアフガニスタン方面への南下を決意した中、ウズベク族に追われた東チャガタイ=ハン国の軍をなしていたモンゴル人たちがバーブルの軍に合流します。そのままカーブルの地へ向かいバーブルたちが包囲すると、領主はバーブルへの臣従を誓い、カーブルの譲渡を申し出たのでした。
こうしてバーブルは、カーブルという本拠地を手に入れたのです。
三度目の正直になるか?サマルカンドの奪還
本拠地を手に入れたバーブルは、サマルカンド政権を手に入れることを諦めませんでした。自力だけでの奪還は無理だと考えたバーブルは、サファヴィー朝への臣従と引き換えに援助を要請します。
その甲斐あって、無事サマルカンドを手に入れることが出来たのですが…
サファヴィー朝は近隣の国と差別化を図り、シャイバーン朝やオスマン帝国が国教としたスンナ派ではなくシーア派の最大宗派十二イマーム派を信仰していました。これが仇となります。
サマルカンドの住民たちの多くはスンナ派を支持しており、シーア派に属するサファヴィー朝、およびそのトップであるイスマーイール1世に抵抗を示したのです。
というわけで、三度目のサマルカンド奪還も失敗に終わってしまいました。
※バーブルがカーブルを本拠地にしたり色々としている間に、ヘラート政権の方もウズベク族に征服されています。
バーブル、インドへ目を向ける
幾度となく旧領奪還に失敗したバーブル。後ろ盾となってもらっていたサファヴィー朝がオスマン帝国に敗れた(チャルディラーンの戦い)のを見て、いよいよサマルカンド奪還が難しいと考えるようになります。
そこで、次に目を向けたのがインドです。1519年以降、バーブルはインドへの侵攻を何度も繰り返していきます。
なお、当時のバーブルが攻め込んだ北インドでは、イスラーム王朝デリー・スルタン朝の最後の王朝ローディー朝が統治していました。
一方の南側ではヒンドゥー教の王朝が残っていたり沿岸部はポルトガルの拠点としてキリスト教布教の中心地となったりで北部とは違う様相を呈しています。
このローディー朝の内紛をきっかけに、バーブルは本格的に遠征に乗り出します。この時、バーブルは鉄砲や大砲という新たな兵器を取り入れていました。
※オスマン帝国とサファヴィー朝の戦いを見て導入したと考えられています。
第一次パーニーパットの戦い(wikipedia)より
数で負けていたバーブルでしたが、1526年の(第一次)パーニーパットの戦いで勝利。火器の導入が勝敗を分けています。
この戦いでローディー朝のスルタンが戦死。王朝は滅亡し、バーブルによるムガル帝国が成立したのでした。