魔将軍・足利義教による恐怖政治
日本史の授業で室町幕府の将軍は、初代・足利尊氏、三代・義満、七代・義政、15代・義昭の4人を覚えてさせられましたね。
今回は、南北朝と戦国時代が重なっているせいで授業で覚えさせられた4人の将軍以外は地味になりがちな室町幕府の将軍たちの中でも後継者となった経緯が『くじ引き』ということで若干ネタ的な意味で知る人ぞ知る存在である足利義教にスポットを当てていきます。
室町将軍15代を紹介した記事を書いた時にくじ引き将軍と紹介した将軍で、決して長命ではありませんでしたが、太く短いその生涯は壮絶でした。
くじ引き将軍・足利義教
足利義教は、3代将軍足利義満が将軍位を退き、8つ年上の兄・義持が9歳で4代目の将軍位に就いた1394年に誕生しています。
義満の子は他に男児が多くおり、幼くして将軍位に就いた兄の他に義満が可愛がっていた異母兄の義嗣もいたため、義教が将軍位に就くことはないだろうと周囲も本人も見ていたのでしょう。義教は10歳で天台宗の寺院に入り(1403年)15歳で出家しています(1408年)。
義教は義円と名乗るようになり、出家した丁度その日に異母兄・義嗣が叙爵。義満の中では義教を将軍位につける意志は皆無のように見えますね。
出家した義円(義教)は、足利将軍家の血縁という強力なバックボーンに加え(その後の幕府内で権力を自分の元に集約させた手腕を見る限り)本人にも資質があったのでしょう。20代後半になると(1419年)天台宗のトップである天台座主と呼ばれる地位にまで登りつめました。
当時の室町幕府の裏事情
兄である4代将軍・義持は、父である義満が亡くなり義教が出家した1408年には23歳になっていました。義満が亡くなったのは義嗣が元服した数日後。将軍位を継いだものの家督は相続していなかった義持でしたが、義満の遺言もなかったため引き続き義持が将軍位に就いたまま家督も相続することになっています。
ちなみに、義嗣は後の6代将軍・義教が義円として天台座主に就いた前年の1418年に25歳の若さで亡くなっています。
関東地方に置かれた鎌倉府と呼ばれる統治機関のトップ・鎌倉公方を足利将軍家から送りこみ、補佐役として関東管領をつけている状況の中、鎌倉府のゴタゴタが原因の上杉禅秀の乱がおこりました。この上杉禅秀という人物は義嗣の妾の父親。さらに義持による義嗣抑え込み対策に反発したため、義嗣は死に追い込まれてしまったのです。
義持は上杉禅秀の乱を機に有力大名の抑え込みにも成功した一方で、上杉禅秀の乱に関わった大名に対する処遇を巡り、義持(穏便派)と鎌倉公方(処遇厳しめ派)が対立していきます。
以上のように、義教の兄は鎌倉府という火種を残しながらも4代将軍として基盤を築くと5代将軍の義量(義持の息子)に将軍位を譲ります。これが1423年のこと。義教(義円)が31歳の頃の話になります。
ところが将軍位を譲られた義量は享年19歳で早世。ということで、義持は義量が亡くなった後も将軍代行として執政が続きます。
そんな義教の兄の義持したが、どうやら自身が亡くなる前に次期後継者を指名をしませんでした。
後継者をあげても自分が死んだら残った人間の良いようにされるのが世の常。調整役として上手くやっているように見えていた義持でしたが、晩年には陰で少しずつ少しずつ大名間に齟齬が生じてきます。
周囲の大名達の間がギクシャクした中で後継者を決めても、義持の死後に諍いになるだろうと考えていたようで
「御神託によって決まったんだから文句言えないだろ」
という裏付けに繋げるよう、籤引きで将軍職を決めてしまいます。
現代の我々から見れば信じられませんが、この頃の人々にとっては神・石清水八幡宮に選ばれたことは絶対的な意味を持っており、義教の権威付けに大きなプラスとなりました。
なお、それ以外にも鎌倉府トップで義持とは犬猿の仲だった鎌倉公方の持氏を後継者から完全に排除しようとする狙いもあったようです。
結構有能だった足利義教
以上のような経緯から、幼い頃から出家していた義持の弟達4人の名前が書かれた籤が引かれて引き当てられたのが義教でした。
元服前に出家し俗世を捨てていたので、無位無官状態。さらに髪の毛も伸びてないというかなりの異例事態の中でどうにか将軍位就任へかこつけます。その間、例の鎌倉公方の持氏が将軍就任説なんかが出回ったり結構すったもんだあったようです。
というのも跡継ぎ候補が皆出家しており、俗世から離れた状況だったから。「無位無官状態の者を将軍位に就けるのはおかしい、自分が就くべきだ」と考えていたようです。
将軍になる直前に義教が一番初めにしたことといえば、朝廷内の後継者問題を解決しようというもの。
北朝の嫡流・後光厳天皇の流れを汲むのに男児のいなかった称光天皇が危篤状態に陥ったことを知った義教は、北朝初代天皇である崇光天皇の流れを汲む彦仁王をコッソリ京都に連れ出し、次の天皇を彦人王にと考えていた称光天皇の父であり治天の君だった後小松上皇に居場所を伝えるという配慮を見せ、後小松上皇は満足されたと伝わっています。
これに待ったをかけたのが後南朝。既に南北朝時代が終わってそれなりの時間が経過していましたが、交代で皇位につける約束をした両統迭立だったはずなのに南朝軽視で皇位継承が北朝だけの状況が続いたため、落ち着いていたように見えていた(後)南朝の抵抗が再燃する事態となりました。これ以降、有力大名の勢力争いに絡んでいくことに。
とは言え、北朝の嫡流がいない状態ではどうしようもない選択でした。むしろ、義教の上皇に対する気遣いや根回しの上手さが際立った出来事なのではないでしょうか。
将軍就任後に義教がしたこととは??
義満時代の強硬路線の歪みを埋めようとした兄・義持時代の協調路線派政治は、見方を変えれば弱腰と見えなくもありません。義持の晩年に出てきた綻びを引き締める為なのか、父・義満時代の政策に近い政策を行っていきます。
幕府内で権力を絶対的なものとしていた【管領】の権限を抑制し、経済面では【勘合貿易】の再開をし財政基盤を強化しました。
国を統治するには財政だけでは足りません。軍事力の強化も必要です。義教は有力守護に任せがちだった軍事力にメスを入れます。
将軍直轄の奉公衆の整備により独自の軍事力を握って、将軍となったわずか13年で関東と九州を平定します。北は奥州~南は琉球までを勢力範囲として比叡山までも屈服させました。比叡山と言えば自身が天台座主として就いていた天台宗の総本山。かなりの覚悟がなければ出来ることではありません。
古巣との対立
比叡山と言えば、白河上皇の時代(11世紀後半の平安時代)から
「思い通りにならない勢力の一つ」
として延暦寺の僧兵を挙げている程の勢力。義教も内部を知り尽くしているのでしょう。弟を天台座主につけ幕府の影響下に置こうとしますが、延暦寺側もあの手この手で阻止。逆に役人を訴え、幕府側は仕方なしに折れることに。
ところが、延暦寺側はこの勝訴を受けて訴えなかった寺院を焼き討ちにするという暴挙を見て速攻で攻め込みます。これには延暦寺が折れ和睦に応じますが、ここで諦める延暦寺なわけがない。
義教の将軍位に異を唱えていた持氏と通じて呪詛をかけている疑いが出てきます。勿論、義教がスルーする訳もなく再度やり合います。最終的に比叡山側が僧たちをまとめる山門使節と呼ばれる内部組織に親幕派をつけることで落ち着いています。
どうして魔将軍と呼ばれるのか??
これまで書いてきたように、
「抵抗勢力は徹底的にやる」
といった姿勢が義教の魔将軍と呼ばれるようになった最大の理由です。なお、ここでは触れていませんが、持氏とも徹底的にやっています。
というか義教自身が天台宗の延暦寺で育ったうえに親玉にまでなってること考えたら、ここまで徹底的にやるやり方は当然と言えば当然なのかもしれない…
独裁的に政治を行った事で、些細な事でも厳しい処罰を与える恐怖政治にもなっていきました。例えば、儀式の最中に笑みをこぼしただけで所領を没収したり、比叡山攻めの噂をしただけで斬首された商人もいたそうです。
他にも、関白・近衛忠嗣や公家、神官、僧侶等数百人も処分してますが、その罪状のほとんどが些細なものでした。
そんな政治手腕から魔将軍とも呼ばれており、伏見宮貞成親王は【看聞日記】で義教の行いを【万人恐怖】と書き残したほどでした。
そんな義教の最後はあっけないもので、1437年頃に赤松満祐が将軍に討たれると言う噂が立ち、これを恐れた満祐が自宅に招き入れ将軍を暗殺します。以降、将軍家はその権力を徐々に失い、応仁の乱へと向うことになり、足利将軍家は二度とその絶対的な権力を持つことはありませんでした。
最近では足利義教が再評価される所もあるようで【比叡山の焼き討ちや大名統制などは義教が着手して信長・家康が完成させた】とも言われています。当時の日本は、朝廷と武士、僧兵率いる寺社勢力の3つ巴状態。その中でも武士勢力と寺社勢力が優勢な状況でした。
寺社勢力の勢いを削ぐことは、国内を一つにまとめ上げるのに絶対不可欠な要素ということで再評価されるに至ったのでしょう。
また、足利義満が成しえなかった【九州平定・関東制圧】によって室町幕府最大領土を獲得したのも義教が有能だったと評価されたのも理由の一つとなります。
結局、義教は絶対的権力による国内の安定と平和が完成される直前の暗殺されてしまいますが…歴史にたらればはないですが、もしも暗殺がなければ応仁の乱は起こらなかったかもしれませんね。