徳川家康の決死の逃走劇・伊賀越えでは家康はどうした??
1582年6月2日、本能寺の変で織田信長が討たれた時、徳川家康は堺に滞在しており、尾張経由の街道を通ると明智光秀が包囲網を敷いて居ていました。家康は、わずかの家臣達しか連れておらず、伊賀を経由して三河に帰還しています。
この家康の伊賀越えは、彼の人生史上決死の逃亡劇となりました。
大河ドラマ【どうする家康】では、どのような描写で描かれるか今から楽しみですが、2023年1月23日現在は、まだまだ先のお話となる事でしょう。
今回は、徳川家康の伊賀越えについて、家康の動向とそれを助けた人物などを踏まえて書いて見たいと思います。
本能寺の変直後の家康の動向
武田家の滅亡により、駿河を与えられていた家康は、三河・遠江・駿河の三か国を領する大名に成長していました。武田戦の勝利を祝うために信長は家康を安土城に招いき、その後は信長の勧めで堺の街を楽しんでいました。
しかし、家康が堺を遊覧中に本能寺の変が勃発。
この時は、堺から京都へ上洛する途中との事でした。家康は、取り乱し信長の後追って自刃を主張するほどでした。しかし、本多忠勝の説得で帰国を決意。中には信長の弔い合戦を主張する者も居ましたが、家康の共は30人ほどしかいなかったのでどうする事もできませんでした。
ここでどうして家康は、攻められていないのに自刃をしようとしたのでしょうか??
それは、明智光秀はついに週間ほど前に安土城で家康を接待した張本人で、家康の足取りは光秀に筒抜けでした。
また、東国へ通ずる主要な道を明智軍に抑えられているとも言われており、信長と懇意を持っていた家康をこの機に乗じて討つはもっともな事で、それを簡単にできてしまう状況だったのです。
運がよく明智軍を抜けたとしても、一揆勢の遭遇や落ち武者狩りなどの危険が伴う事も考えなければいけません。実際に、家康と別行動で帰った穴山梅雪は、一揆勢に襲われて命を落としています。
こうした事から「どうせ討たれる運命ならぶしらしく」ということなのです。
徳川家康の伊賀越え
本多忠勝の説得により岡崎へ帰ることを決意した家康は、そういった経路で自領へ戻っていったのでしょうか??
一行は、伊賀を超えて伊勢から三河へ船で渡る最短ルートを選択し、道中は山城の土豪・山口甚介の宇治田原城や近江の多羅氏の館などで宿泊。伊賀に入ってからは、伊賀の土豪達の協力で先を進みました。
一揆に襲われるトラブルもありましたが、家臣達の活躍もあり難を逃れています。
こうして、家康一行は伊勢から三河の大浜まで船で渡り、無事に岡崎城に帰還したのでした。
伊賀越えには、徳川四天王含め34人の家臣達が…
家康と共に行動してた供廻りは、わずか34名でその中には徳川四天王や16神将の名もありました。
徳川家康の共廻り34人一覧
酒井忠次・本多忠勝・井伊直政・榊原康政・石川数正・本多正盛・石川康通・服部正成・高木広正・大久保忠隣・菅沼定政・久野宗朝・本多信俊・阿部正勝・牧野康成・三宅正次・高力清長・大久保忠佐・渡辺守綱・森川氏俊・酒井重勝・多田三吉・花井吉高・鳥居お松・内藤新五郎・都筑亀蔵・松平玄成・菅沼定利・永井直勝・永田瀬兵衛・松下光綱・都筑長三郎・三浦おかめ
家康本人や四天王や重鎮たちが揃っており、一揆や光秀の軍にやられたら徳川家への大打撃は必至でした。こうした彼らが、落ち武者狩りの対処をしたり、旅費として与えられていた金品を駆使し、うまく道中を通過しました。
徳川家康の伊賀越えの協力者
伊賀越えには、徳川家の家臣の他にさまざまな協力者がいました。
こういった人たちによって、重臣たちも失わず後の江戸幕府の設立に一役買う事になります。江戸幕府成立後も、幕府御用達の商人だったり、幕府直轄の隠密だったりと活躍しています。
豪商・茶屋四郎次郎清延
京都の商人・茶屋四郎次郎は、土豪達に銭を渡して家康一行が無事に通過できるように、取り計らいました。堺に滞在中の家康に信長の死を知らせたのも茶屋四郎次郎でした。
茶屋四郎次郎は公儀呉服師を世襲する京都の豪商で、当主が代々茶屋四郎次郎を襲名しています。家康と助けた茶屋清延は、若いころ家康に仕え、三方ヶ原の戦いでも活躍しています。
この伊賀越え以降、家康の御用商人として茶屋四郎次郎は取り立てられる事になりました。
服部半蔵を始めとする伊賀衆
家康の家臣の中に、服部半蔵家二代目当主・服部正成が居ます。
伊賀越えの際の道中には、危険な野伏たちが潜んでいましたが、武装した伊賀衆によって家康一行は無事に通過することが出来ました。
服部半蔵(正成)は、徳川家譜代の家臣ですが、故郷の伊賀衆を動かして様々な戦いで戦功をたてています。無事に三河へ帰還した多家康は、警護に当たった伊賀衆を徳川家の隠密として召し抱え、半蔵は隠密頭となり与力30、伊賀同心200人を束ねて活躍しました。
伊勢商人・角屋七郎次郎秀持
伊勢から三河までの船を手配したのが、伊勢商人・角屋七郎次郎でした。
角屋七郎次郎は当主が代々名乗ったもので、その初代が秀持でした。彼の父が廻船問屋を開始したのが始まりでした。秀持また、家康を救った功績から徳川家の御用商人となっており、1600年には「汝の持ち船は子孫代々に至るまで、いずれの湾へ出入りするも全て諸役免許たるべし」と廻船自由の特権も与えられました。
織田家の家臣たち
堺見物の案内役だった長谷川秀一は、家康一行の脱出経路を考えたり、大和・近江の国衆の取次役を行ったりと伊賀越えの成功に貢献し、尾張の熱田まで同行しました。また、偶然堺にいた佐久間安政は、土地勘があると家康に加勢して逃走の手助けをしています。
伊賀越えにまつわる謎
さまざまな人の協力を得て危機を乗り越えた家康ですが、伊賀越えにはいくつかの謎が残されています。
本能寺の変は家康と光秀の共謀だった!?
信長を討ちに行った光秀の部隊は最後まで目的を知らされておらず、信長の命令で家康を討つものだと思っていたと言う話も残っています。このような危険にさらされている可能性が有りながらわずかな人数で安土城を訪問していました。
慎重な性格の家康がわずかな人数で行動したのは、明智光秀と密会して共謀していたからではないかと言う見解もあるようです。この家康共謀説は、本能寺の変の動機の一つして考えられています。
穴山梅雪は家康に暗殺された
共廻りの中には穴山梅雪が居ました。
彼は、武田家の重臣だったのですが、武田氏滅亡により家康の与力となった人物。信長の死を知った梅雪は、家康を疑い身の危険を感じ別行動をしたとされて、そこで落ち武者狩りにあったとされています。
しかし、家康の命で暗殺されたとも、一揆勢が家康と間違えて殺害したとも、真実は謎に包まれています。
見事生還した家康は、軍勢を整え信長の弔い合戦に向かおうとしますが、中国大返しを成し遂げた羽柴秀吉が山崎の合戦で明智光秀を破った事で、天下は信長から秀吉に移っていくことになるのでした。
徳川家康の人生で最大のピンチは、武田氏との三方ヶ原の戦いと言われています。
しかし、この伊賀越えも大きなピンチの一つで、この難局を乗り越えられたのは多くの人のつながりがあったからでした。しかも、譜代の重臣たちも失う事が無かったのもプラスに作用し、後の天下取りの財産になりました。