戦国時代

明智光秀は徳川家康の参謀・南光坊天海だった!?

歴ブロ
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1582年6月2日明智光秀は本能寺にて主君の織田信長を討ちました。

しかし、その11日後の6月13日に山崎の合戦羽柴秀吉に敗北し、坂本城へ落ちの伸びる途中、農民達の落ち武者狩りに会い命を落とします。

ところが、その死後から明智光秀生存伝説がささやかれてきました。

有名なところでは、徳川家康の政治顧問であった南光坊天海が明智光秀と同一人物ではないかと言う伝説があります。

これも一つのトンデモ説ではありますが、火のないところに煙は立たないとも言いますので、今日は光秀天海説について検証してみたいと思います。

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明智光秀は本当に戦死したのか?

山崎の戦いで羽柴秀吉に敗れた光秀は、本拠地・坂本城に戻る途中で農民に竹やりで刺され命を落としたとされています。

合戦の4ヵ月後に秀吉が御伽衆の大村由己に書かせた『惟任退治記』の中では、『諸国より討捕り来る首、ことごとく点検のところに、この中に光秀の首あり』と書かれています。

この物語が時代の流れと共に尾ひれがつき、44年後書かれた『甫庵太閤記』で『光秀が竹やぶで土民に殺された』となり、竹やりについては昭和に入ってから戦国史の教授の著書に書いてあることから広まった話です。

惟任退治記の中で光秀の首だとされる物が3つあり、いずれも顔面の皮がはがされていた事から、光秀のものだと断定していたわけでは無いと思われます。また、一緒に討ち死にしたはずの家臣・進士作左衛門と比田帯刀の二人が細川興秋に仕えたことが細川家の書物に記されています。

以上のことから、光秀が討ち取られる様子は後世に創作されたと言うのが濃厚で、その生死の確認は不明であることが考えられます。

南光坊天海

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浅草寺の資料によると、北条攻めの際に天海は忠豪とともに徳川家康の陣幕に居たとされています。この時、顔を合わせ話したのかは不明です。

別の資料で、『東比叡山開山慈眼大師縁起』によると、1608年に天海が駿府を訪れ、家康と初めて面会をしたのにもかかわらず、二人は旧知の間柄のように人を遠ざけて親しく語り合っていたそうです。

当時の家康がわけても初対面の人間と、人払いをしてまで談合することは全く前例の無いことでした。そのため、側近達は天海とは一体何者なのかと驚いたとされています。

明智家は、美濃・尾張・伊勢の守護大名であった土岐氏の家臣だったが、戦国期に斉藤道三によって滅ぼされています。しかし、江戸時代になると家康により土岐氏は大名に取り立てられたり、光秀の重臣・斉藤利三の娘(春日局)が、三代将軍・家光の乳母抜擢され、さらに息子の稲葉正勝老中に取り立てられるなど、光秀ゆかりの人が家康によって引き立てられました。

本能寺の変に新しい説が登場!?

ここで、興味深い説を唱えている人が現れました。

家光の母はお江ですが、お福(春日局)は、伯父の敵の娘にあたります。一般的な心情としても世継ぎを生んだ母親の責任として、敵の娘にその養育を任せるとは思えません。この事から天海と光秀と家康の作為があるのである。

実は「家光はお江の子ではなく、お福(春日局)の子でありその父は、秀忠でなく家康では無いのだろうか?」と言うのです。

家光の名が家康光秀から取っているのではないのでしょうか?

本能寺の変での違約の補償として、また関が原の戦功に対して、家康はお福に家光を生ませ、後継者としたのです。将軍家に明智の血を入れることによって、光秀に対し具体的な礼をしたのです。

この説は、ハッキリと明快な論理であり、一つの道筋が通った説として考えられています。

では、家康はなぜここまで天海を含む、光秀ゆかりの人に厚遇したのでしょうか?

その理由は明智光秀の末裔である、明智憲三郎氏が書いた著書に書かれていました。

本能寺の変は、織田信長が徳川家康を討つ命令を明智光秀に下したのを契機に、明智家の未来を危惧した光秀が、家康と通じ信長を討ったのが真相である

と書かれています。

光秀の危惧とは、信長の野望であったへの武力行使です。

この構想は、イエズス会のフロイスによる報告書にハッキリと書かれています。

日本統一後に国内の領地は信長の息子達に分け、臣下の武将を国外征服に送り出す。

と信長は、フロイスに言ったそうです。

もしこれが実現されれば、一族は国外で滅亡すると光秀は判断したのでしょう。

しかも、日本を統一するには家康の存在が邪魔になります。そこで、後顧の憂いの無いように、家康を本能寺に招いていた信長が、少数しの護衛しか帯同していない千載一遇のチャンスを生かし討伐の行動を起こしたとされます。

そこで本能寺の変で結果、徳川家康を助けたわけですから、天下統一後にその最大の功労者として明智光秀が認められたのではないか。また、織田家の家臣の中で、最初に国持ち大名となったのは、秀吉ではなく新参者の光秀だったのは歴史が証明しています。

このことから、信長もが光秀が非常に有能な人材だということを見抜いていたのが十分に分かります。それは、同盟者であった徳川家康も十分理解しており、仮に天海が光秀であるのなら、幕府の行政や軍事面の重要なところを彼に任せたのも納得がいきますし、良い仕事もするでしょう。

さらに自らの遺言を天海に残し、徳川家の未来を託したことも、自分の命を救ったのでうから分からなくありません。

最後に、南光坊天海=明智光秀は、トンデモ説の域から抜け出していませんが、天海の後ろに明智光秀の影が強く感じるのは私だけではないはずです。

信じるか信じないかはあなたしだいです。

※しかし、天海と光秀の筆跡を比べると違うようなので、やっぱり違うのかな~?でも、これが本当なら、ワクワクするのは私だけでしょうか?

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歴ブロ・歴ぴよ
歴ブロ・歴ぴよ
歴史好きが高じて日本史・世界史を社会人になってから勉強し始めました。基本的には、自分たちが理解しやすいようにまとめてあります。 日本史を主に歴ぴよが、世界史は歴ぶろが担当し2人体制で運営しています。史実を調べるだけじゃなく、漫画・ゲーム・小説も楽しんでます。 いつか歴史能力検定を受けたいな。 どうぞよろしくお願いします。
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