朝倉・浅井氏との再戦!姉川の戦いでは徳川家康はどうした!?
織田信長と朝倉・浅井氏が争った姉川の戦いは、とても激戦だったと言われています。
この戦いでは、若き日の豊臣秀吉や徳川家康も織田軍として参加しており、浅井側には朝倉氏も絡んでいました。
浅井長政は、信長の妹・お市を正室に迎えていたのですが、姉川の戦いの半年ほど前に、織田信長が朝倉氏を攻めたことで状況が一変したのです。
今回はそんな『姉川の戦い』について簡単にわかりやすく解説していきます。
姉川の戦いとは??
1570年7月30日に現在の滋賀県の姉川で行われた織田・徳川連合軍と浅井・朝倉連合軍との間に起きた戦いを姉川の戦いと呼ばれています。
織田氏と浅井・朝倉氏が刃を交えることになったのですが、織田氏と浅井氏については婚姻関係にありました。
戦い自体は、9時間ほどで決着が着き織田軍の勝利となりますが、この戦い以降4年もの間浅井氏と争う事になり、最終的には戦国大名としての浅井氏が滅亡してします。
この戦いがキッカケで、朝倉氏も滅亡へのカウントダウンが始まることになります。
織田信長と朝倉義景の対立
桶狭間の戦いで今川義元を討ち取った後、尾張を掌握。その後、斎藤龍興を滅ぼし美濃国をも手中に収めました。美濃を足掛かりに、京都へと勢力を伸ばすために、近江に進軍するのですが、そこで立ちふさがるのが浅井氏でした。
そこで信長は、北近江を治めていた浅井長政と信長の妹・お市を結婚させて親戚関係を結びました。
こうして、信長は浅井長政の協力もあり南近江の六角氏を破り、足利義昭を15代将軍に担ぐことで上洛を果たしました。
将軍が決まると、各大名はあいさつのために上洛をしなければいけません。しかし、越前の朝倉義景は信長の上洛要求を拒否しました。
これに対して信長は、1570年に4月に朝倉氏が治める越前へ攻めます。
朝倉氏の上洛拒否の理由としては、
- 織田信長を侮っていた
- 越前の一向一揆の対応でそれどころではなかった
- 上洛したら面倒な頼みごとをされる事を嫌がった
金ヶ崎の戦い
越前には、家臣の秀吉・明智光秀を連れ、徳川家康は援軍として参陣。最初こそ戦いは有利に進めていました。
しかし、ここで信長の義理の弟・浅井長政が裏切り朝倉氏に味方したのです。織田・徳川軍を後ろから突く形になった浅井軍は朝倉軍と共に挟み撃ちにしました。
古くから朝倉氏と浅井氏は同盟関係にあり、浅井長政は信長との親戚関係よりも、朝倉氏との古い絆を選んだのでした。
こうなると、さずがの織田信長も退却するしかなく、京都へと退却するのでした。
この戦いを金ヶ崎の戦いと呼ばれています。
浅井氏と朝倉氏の関係
浅井氏と六角氏が近江の覇権をめぐって争っていた頃、朝倉氏が両者の間に入って、浅井氏に有利な内容で争いを仲介した過去がありました。勢いを増す、六角氏に対抗するために朝倉氏は、浅井氏の存続を望んでいました。
同じ、六角氏を警戒する利害は一致した上に、浅井氏は朝倉氏に大きな恩が出来たことから、両氏は強固な関係で結ばれることになりました。
姉川の戦い
金ヶ崎の戦いで大敗を喫した信長は、体制を整えると裏切った浅井長政を討つために北近江に出陣。
こうして、姉川の戦いは始まりました。織田・徳川軍34000VS浅井・朝倉軍21000の軍勢が姉川を挟んで対峙します。
朝倉軍が徳川軍に攻めかかった事で合戦が始まります。
朝倉軍は信長側の酒井忠次軍を圧倒し、つづいて信長側の先鋒に置かれていた坂井政尚の軍も壊滅してしまいました。この流れに乗ろうと、浅井軍も信長の本陣に進むべく、次々と信長の軍を蹴散らしていきました。
徳川家康の援軍
当初は、浅井・朝倉軍が優勢でしたが、徳川家康自身の援軍によって朝倉軍は不意を突かれ、戦局が一変。
朝倉軍が敗れてしまったことは、浅井軍にも伝わり、信長がいる本陣まであと一歩…というところで、浅井軍も信長の軍の攻撃により戦いに敗れ、自らの城である小谷城へ逃げ走ることになりました。
姉川の戦いに勝利した信長は、拠点としていた横山城を包囲しました。
姉川の戦いのその後
姉川の戦いは、浅井氏と朝倉氏の滅亡のきっかけを作った戦いでしたが、両家を壊滅に追いやるだけの戦果はありませんでした。
敗れた朝倉氏・浅井氏、そして戦いに勝った織田信長は、その後どうなったのでしょうか?
信長包囲網の形成
姉川で敗れ次第に弱体化していくのですが、まだまだ信長を苦しめることになります。朝倉・浅井両氏を筆頭に、反織田信長の勢力・信長包囲網※を形成していきました。
※この時は第一次
一方で、織田信長は、三好三人衆を相手に戦を繰り広げるのですが、石山本願寺が味方に付き信長は苦戦し、森可成と織田信治が討ち死にしています。
信長は、背後の浅井・朝倉を警戒し、関西の三好三人衆との戦いは打ち切っています。
比叡山焼き討ち
信長の軍との戦いで浅井氏・朝倉氏軍の生き延びた兵たちは、現在の滋賀県大津市にある比叡山延暦寺に逃げ込みます。
当時の延暦寺は、寺社勢力とも言われ寺でありながら武力を保持していました。
延暦寺は、浅井・朝倉の兵を匿いますが、これを知った信長は延暦寺に対して中立を保つように説得します。しかし、延暦寺側がこれを拒否(無視)しました。
冬が差し迫った季節であった事で、戦の長期化を心配した信長は天皇の仲介を経て和睦を結びました。
しかし、南近江では六角氏、三好三人衆は河内・摂津で虎視眈々と京都を狙っていました。さらに、本願寺が伊勢や尾張の門徒宗を決起させ号令を発していました。
そんな四面楚歌状態を何とか切り抜けた信長は、朝倉・浅井の件以外にも領地問題での確執のあった比叡山を攻め入ることを決意。
これが、1571年9月12日の比叡山焼き討ちと言います。
比叡山焼き討ち後は、浅井・朝倉氏の勢いは次第に弱体化していくのですが、武田信玄率いる第二次信長包囲網に加わるなどの戦略転換をして、信長を悩ませています。
しかし、武田信玄の病没により包囲網が崩壊。このチャンスを逃さなかった信長が、浅井長政の居城・小谷城を攻め、援軍に来た朝倉義景も同時に討つことが出来、浅井・朝倉両氏が滅亡する事になります。